松平記p33
翻刻
人討取、無比類高名致し、義元御父子より松平勘四郎に感
状給る
一 小川城水野下野守ハ織田方、松平元康ハ水野甥なれども
駿河方、伯父甥の衆石が瀬と申所にて度々合戦有之
一 永禄二己未年三月、駿河にて元康の惣領若君生れ給ふ諸
人悦び御母方は今川御一門也、扨々目出多度と御譜代衆悦
事限なし、安倍大蔵丞是をきき、此若子家を残給ふべから
ずと申、いかにと申に松の家には未の年の子惣領には不
立事、其ためし有と申けるが、果して此御子後には三郎殿
とて廿一にて生害なり
現代語
(強い者たちを50余名)討ち取った。大変な手柄だと、今川義元父子から松平勘四郎信一に感謝状が出された。
一 小川城水野下野守信元は織田方、松平元康は、水野の甥であったが、駿河方であった。伯父と甥が石が瀬という所で度々合戦をした。
一 永禄2年己未3月、駿河で元康の嫡男が生まれ、みんなが喜んだ。母は今川一門で、これはめでたいことだと御譜代衆が喜ぶことは大変なものだった。安倍(阿部)大蔵亟はこれを聞いて、「この若君は松平家を残すとは思えない、どうしてかといえば、松の家には未の年の子が惣領にはなれないという先例がある」と言ったが、果たしてこの若君は後に三郎殿と申され、21歳で御自害なされた。
コメント
科野城の戦いは、信長側が敗北を喫することになりました。
さて、次に記載されているのは、「石ヶ瀬の戦い」です。ウィキペディアでは「石ヶ瀬川の戦い」となっています。
地図で確認すると愛知県の大府市を流れています。この石ヶ瀬川と鞍流瀬(くらながせ)川が合流し、最後は境川と合流しています。
石ヶ瀬川・鞍流瀬川
地図で確認して、驚いたことは、水野氏の拠点である緒川、刈谷はこの川の合流点より、南東にあるということです。つまり、織田、水野連合の領域は今川氏の勢力に押されて、知多の北部を結構食われていたということが分かりました。
もうひとつ、石ヶ瀬川と合流する鞍流瀬川ですが、この川の源流は、桶狭間古戦場公園(名古屋市)にある大池だそうです。そして、名前の由来は、ネットの有楽グループというサイトの情報によれば以下のようです。
「鞍流瀬川は合戦があったと言う訳ではないのですが桶狭間の戦いに繋がりが有る場所で、今川義元が桶狭間の戦いで敗れた今川軍が敗走の際、大雨で増水した川に落ち、人や馬は助かりましたが鞍だけが流された事でこの川が鞍流瀬川と言う名前になったそうです。」
このことが真実だとすれば、桶狭間の戦いの戦場が名古屋市桶狭間地域であった可能性が高まります。
最後は、阿部大蔵が結果論のように、信康は跡継ぎになれないことをほのめかし、実際21歳で自害したことが語られ「巻一」が終わっています。ただ、阿部が安倍になっているのは、写し間違いなのか、不思議でした。