愛知の史跡めぐり

愛知県の史跡を巡り、その記録を掲載します。

松平記(33) 松平記

2022年08月18日 15時37分45秒 | 松平記

松平記p33

翻刻
人討取、無比類高名致し、義元御父子より松平勘四郎に感
状給る
一 小川城水野下野守ハ織田方、松平元康ハ水野甥なれども
駿河方、伯父甥の衆石が瀬と申所にて度々合戦有之
一 永禄二己未年三月、駿河にて元康の惣領若君生れ給ふ諸
人悦び御母方は今川御一門也、扨々目出多度と御譜代衆悦
事限なし、安倍大蔵丞是をきき、此若子家を残給ふべから
ずと申、いかにと申に松の家には未の年の子惣領には不
立事、其ためし有と申けるが、果して此御子後には三郎殿
とて廿一にて生害なり

現代語
(強い者たちを50余名)討ち取った。大変な手柄だと、今川義元父子から松平勘四郎信一に感謝状が出された。
一 小川城水野下野守信元は織田方、松平元康は、水野の甥であったが、駿河方であった。伯父と甥が石が瀬という所で度々合戦をした。
一 永禄2年己未3月、駿河で元康の嫡男が生まれ、みんなが喜んだ。母は今川一門で、これはめでたいことだと御譜代衆が喜ぶことは大変なものだった。安倍(阿部)大蔵亟はこれを聞いて、「この若君は松平家を残すとは思えない、どうしてかといえば、松の家には未の年の子が惣領にはなれないという先例がある」と言ったが、果たしてこの若君は後に三郎殿と申され、21歳で御自害なされた。

コメント
科野城の戦いは、信長側が敗北を喫することになりました。
さて、次に記載されているのは、「石ヶ瀬の戦い」です。ウィキペディアでは「石ヶ瀬川の戦い」となっています。
地図で確認すると愛知県の大府市を流れています。この石ヶ瀬川と鞍流瀬(くらながせ)川が合流し、最後は境川と合流しています。

石ヶ瀬川・鞍流瀬川

地図で確認して、驚いたことは、水野氏の拠点である緒川、刈谷はこの川の合流点より、南東にあるということです。つまり、織田、水野連合の領域は今川氏の勢力に押されて、知多の北部を結構食われていたということが分かりました。
もうひとつ、石ヶ瀬川と合流する鞍流瀬川ですが、この川の源流は、桶狭間古戦場公園(名古屋市)にある大池だそうです。そして、名前の由来は、ネットの有楽グループというサイトの情報によれば以下のようです。
「鞍流瀬川は合戦があったと言う訳ではないのですが桶狭間の戦いに繋がりが有る場所で、今川義元が桶狭間の戦いで敗れた今川軍が敗走の際、大雨で増水した川に落ち、人や馬は助かりましたが鞍だけが流された事でこの川が鞍流瀬川と言う名前になったそうです。」
このことが真実だとすれば、桶狭間の戦いの戦場が名古屋市桶狭間地域であった可能性が高まります。
最後は、阿部大蔵が結果論のように、信康は跡継ぎになれないことをほのめかし、実際21歳で自害したことが語られ「巻一」が終わっています。ただ、阿部が安倍になっているのは、写し間違いなのか、不思議でした。

岐阜城見学会のお知らせ

2022年08月14日 08時44分03秒 | 愛教労 城の会
岐阜城見学会のお知らせです。

岐阜城

日時 2022年11月6日(日)13時
集合場所 岐阜公園総合案内所
見学の主なコース 発掘調査案内所➡信長館跡➡山上の城
主催 愛教労退職教職員の会(退職した教員の団体です)
今回は、地元の方に案内をお願いする予定です。

案内チラシ

どなたでも参加は自由です。
参加希望の方は、下記までご連絡ください。
電話 080-3612-0027(南)
   052-242-4474(大島)
メール mseijyun@gmail.com(南)
    aichi@aikyourou.jp(大島)

松平記(32) 松平記

2022年08月12日 10時20分38秒 | 松平記

松平記p32

翻刻
けれども、いかにしてか聞えけん、信長是を聞付、弟の武蔵
守をよび、生害し給ふ、此事ハ人知べきにあらす、新之亟が
信長へ返り忠と沙汰有しかば、義元笠寺の戸部新之亟を
成敗有しと聞えし
一 永禄元年三月尾州科野城に駿河より松平勘四郎大将に
て三百にて籠る、又笠寺に駿河衆葛山備中守、三浦左馬助
飯尾豊前、浅井小四郎四百余人にて籠る、然処に尾州衆科
野の城に付城を拵日々夜々のせり合也、或時松平勘四郎
城より時分を見て夜討に寄、尾州衆付城の大将竹村孫七、
礒田重平、戸崎平九郎、滝山侍三四人初めよき者五十余
(人討取)

現代語
(どうして人が知ることができようかと思うので)あったが、なぜか人に知られてしまった。信長はこれを聞きつけ、弟の武蔵守を呼び、殺害してしまった。このことは、人に知れず、笠寺戸部新之亟が信長に返忠、と流布した。そこで、今川義元は笠寺戸部新之亟を成敗したとのことである。
一 永禄元年3月尾張科野城に、駿河より松平勘四郎を大将に300人の兵が籠った。また、笠寺には駿河衆の葛山備中守、三浦左馬助、飯尾豊前、浅井小四郎の400人が籠った。そこで尾張勢は、科野城に付城を拵え、日夜せり合いをした。或時、松平勘四郎は頃合いを見て、城から夜討ちに出て、尾張衆付城の大将竹村孫七、礒田重平、戸崎平九郎、滝山伝三,四人をはじめ、強い者たちを50余名(討ち取った。)

コメント
結局、信長弟武蔵守も戸部新之亟もそれぞれ信長、義元に殺害され、戦国の世の「殺し殺され」の実相が描かれています。「ゴッドファーザー」や「仁義なき戦い」の原風景です。
次の話は、科野(品野)城の戦いです。松平勘四郎は、松平信一です。安城松平から分かれ、藤井に分家した松平家の初代になります。

松平家関係系図

笠寺は以前戸部がいましたが、永禄元年は、ここにいる武将たちが籠められました。葛山備中守は、今川の家臣で駿河の東に所領があるようです。三浦左馬助は、あの「鎌倉殿の13人」に登場する三浦義村の末裔のようです。(ウィキペディア)飯尾豊前とは、織田方の鷲津砦に織田秀敏とともに籠った飯尾近江守とは偶然の同姓で関係はないようです。浅井小四郎は、桶狭間の戦いの時は沓掛城を守っていたようです。
この4人と岡部五郎を加えた5人が笠寺に籠ったという記事は「信長公記」にもみられます。但し、天文22年(1553)「三の山赤塚合戦」の記事です。(中川太古・現代語訳「信長公記」では天文21年1552と修正されています。)ずいぶん前に笠寺は葛山以下の武士たちが守っていることになっています。
松平勘四郎が付城(山崎城)の竹村孫七らに夜襲をかけ、大きな損害を与えたようです。

松平記による年表
天文18年(1549)   松平広忠死亡。病死。
弘治元年(1555)   蟹江城の戦い 蟹江城(織田)に松平勢が攻め込む。
弘治2年(1556)正月  松平元信、瀬名姫と祝言
同年      4月  吉良義昭、織田につく。
           善明堤の戦い 松平大炊助・主殿助(今川)×吉良義昭(織田
同年      9月  藤波畷の戦い 本多豊後(今川)×吉良義昭・冨永半五郎
弘治3年(1557)    織田武蔵守謀反生害される、戸部新之亟成敗される
永禄元年(1558)春  科野城の戦い 松平勘四郎(今川)×織田信長・竹村孫七
           松平元康初陣
永禄3年(1560)5月  桶狭間の戦い 今川義元×織田信長

ということで、松平廣忠が死亡してから桶狭間の戦いまでの年表をまとめてみました。他の史料との関係で、異なる点が多いようです。今後の課題です。

松平記(31) 松平記

2022年08月08日 18時36分40秒 | 松平記

松平記p31

翻刻
引申候処知多郡ハ過半駿河へ降参す、依て中村城、鳴海城、
科野城皆駿河へ籠る、又信長の弟織田武蔵守も義元と内
通し兄の信長をたおし、其跡を知行せんとの儀也、此事、駿
河へ内通の為に、其頃武蔵守小姓笠寺の戸部新之丞と申
者を武蔵守ひそかに呼寄、七枚の起請をかかせ内證申渡
し、扨二三日過て右の笠寺を成敗せんとて刀をぬき追給
ふ、笠寺兼て約束したる事なれば早々逃走り行、武蔵守は
だしに成、追かけられしが、終に追失ひ給ふ、戸部ハはうはう
逃げ或寺へ逃入、二三日過て駿河へ下り、此よしを義元に
申上る、か様にはかりし事なれば人いかでか知るべき事な

現代文
(尾張の侍が駿府に心を寄せ、駿府への鉾先を)引いていたところ、知多郡は半数以上が駿河に降参した。これによって、中村城、鳴海城、科野城は皆駿河へ籠った。また信長の弟織田武蔵守も義元と内通し、兄の信長を倒し、その後の領地を知行しようとしていた。このことを駿河に密かに知らせようと、その頃小姓の笠寺戸部新之亟という者を密かに呼び寄せ、七枚の起請文を書かせ、密かに渡した。さて2,3日過ぎてその笠寺を成敗しようと織田武蔵守が刀を抜き追いかけた。笠寺戸部はかねて約束したことであったので、早々に逃げ走り、織田武蔵守は裸足になって追いかけたが、ついに見失ってしまった。笠寺戸部は、ほうほうの体で逃げ、ある寺に逃げ込んだ。2,3日過ぎて駿河に下り、このことを義元に申し上げた。このように(ひそかに)諮ったことであったので、どうして人が知ることができようかと思うのであったが、(なぜか人に知られてしまった)

コメント
織田信秀の死後、尾張地方に今川義元の勢力が着実に延びてきていることが窺えます。特に知多半島は過半が今川義元に降参したとあります。中村城(南区桜本町)は、織田信秀没後に今川に寝返った山口教継の城です。鳴海城(緑区)は、その子山口教吉の城です。科野城(品野城?瀬戸市)は織田になったり、松平になったり変遷がありますがこの頃は松平が治めていたようです。
織田武蔵守が探してみましたが、見つかりません。信長の弟で武蔵守と名乗っていた武将は誰でしょうか。笠寺の戸部新之亟(新左衛門?)と謀をして、何とか自分の気持ちを今川義元に伝えようとしていたことが記録されています。
山口父子の話と似ていることから、特に戸部新之亟(新左衛門)を山口教継と同一人物ではないかという説もあるそうです(ウィキペディア)。山口父子の話(「信長公記」)や戸部新左衛門の偽手紙の話(「甫庵太閤記」)がこの「松平記」には出てきませんので、もしかしたら、織田武蔵守は山口父子のどちらかと同一人物かも知れないと思いました。
どちらにしても権謀術策、騙し騙されの戦国時代ならではの話だと思いました。

松平記(30) 松平記

2022年08月07日 12時35分48秒 | 松平記

松平記p30

翻刻
(弘治二年九月十三日本多豊)
後大将にて藤波なわてより被攻、義昭の家老富永半五郎
大将にて終日の合戦、岡崎衆大久保太郎八郎、鳥居半六郎
討死仕、東城の大将富永廿五歳にて討死也、其後不叶して
義昭も降参有是
一 永禄元年春三河国寺部城主鈴木日向守、義昭と一味致し
未降参不申候間、元康初陣に御発向被成、比類なき高名被
成、城外放火被成、本城計に被成候間、今川殿大に感し、御太
刀を被下、山中三百貫の知行返給る、譜代衆寄合今一戦し
て岡崎本領を申給ハらんとかせく
一 去年弘治三年の春より尾州の侍皆駿府へ心を寄、御手を

現代語
(弘治2年9月13日)本多豊後が大将として藤波畷より攻められた、吉良義昭も家老冨永半五郎を大将として終日の合戦となった。岡崎衆は、大久保太郎八郎、鳥居半六郎が討死をした。東条側の大将冨永も25歳にして討死をした。そののち、吉良義昭は叶わぬと降参した。
一 永禄元年春三河の国寺部城主鈴木日向守が吉良義昭と一味し、未だ降参しないので、松平元康(徳川家康)は初陣として出陣なされ、比類なき手柄を立てた。城内外を放火し、裸城としたので、今川義元は大いに喜び、太刀を下賜し、山中300貫の知行を元康に返した。譜代衆は、寄り合って「今一戦し、岡崎本領を取り返そう」と意気込んだ。
一 昨年弘治3年の春より尾州の侍、皆駿府へ心を寄せ、駿府への鉾先を(引いていたところ、)

コメント
藤波畷の戦いも通説では、永禄4年のこととなっています。(ウィキペディア)すなわち、桶狭間の戦い以後のことになっています。なので、松平元康と吉良義昭(反松平)の戦いとして位置づけられています。しかし、ここでは弘治2年のこととし、先の善明堤の戦いと同様に今川対織田の戦いとして描かれています。ここで討死した東城側の大将冨永は優れた武将で「冨永が討死したならば、東条城の落城は近い」と東条側でささやかれたと、「三河物語」に掲載されています。
寺部城の戦いは、永禄元年では通説と一致しています。鈴木日向が織田信長に与したために今川勢(松平重吉、元康ら)と戦ったことになっていますが、ここでは鈴木日向は吉良氏と組んでいたことになっています。(吉良義昭は織田と組んでいたので、間接的には織田方ではありますが)この寺部城の戦いの結果、元康は、山中の知行を取り戻したとあります。岡崎本領はの返還は、まだだったようですが、戦いへの参加、知行の返還と松平元康の今川家内での台頭が窺えます。
豊明市史に永禄2年の「松平元康定書」が掲載されています。ここには元康家臣団への指示、命令が記載されていますので、永禄2年には今川家臣団の中で一定の勢力を持つことができていたと思われます。今川義元は、自身の家臣団の有力な一角として松平元康を考えていたのかも知れません。

難語

最後の行です。
解決しました。「春」ありがとうございました(2022/8/7)