愛知の史跡めぐり

愛知県の史跡を巡り、その記録を掲載します。

犬山城発掘調査見学会 犬山市

2017年06月27日 14時18分58秒 | 犬山市

発掘現場

6月25日(日)犬山城で発掘調査見学会が行われました。新聞で偶然案内の記事を見つけ、面白そうなので出かけることにしました。ネットで、犬山市教育委員会の記事を読むと西御殿という史跡の発掘を行っているようでした。場所は、旧犬山市体育館ということでした。時間は10時30分からで、やや中途半端な時間でした。そこで先に犬山城を見学して、その後で見学会に参加することにしました。10時から受付が始まりました。日曜日ということもありましたが、いろんな人が見えて、お城ブームを目の当たりにする思いでした。後で職員の人の会話から「160人を超えたよ」ということが分かりました。待っている間に展示してある出土品などを見ました。

西御殿遺跡から出土した茶碗類

主に陶器が置いてありましたが、けっこういい生活をしていたことが窺えました。

また現場には犬山城白帝文庫蔵の「西御殿図」が掲示してありました。犬山市白帝文庫とは犬山城の旧所有者が犬山城の文化財を管理するためにつくられた財団法人です。理事長は成瀬さんといって、犬山城主の子孫の方です。この図は無断掲載禁止なので、残念ながらアップすることはできません。

西御殿とは
現地説明会の資料によれば、西御殿とは、寛文年間(1661~1673)ごろに造られ、政庁として使用されるとともに、江戸や名古屋にいることが多かった犬山城主の成瀬氏が犬山に滞在しているときは、住居としても使用されたそうです。天保13年(1842)焼失しましたが、すぐに再建されました。
慶応4年に犬山藩が誕生した時は、西御殿が藩庁となったそうです。明治4年(1871)の廃藩置県により犬山県ができた時は、西御殿が県庁だったそうです。その後、西御殿の地に公会堂などが建てられ、昭和38年(1963)には犬山市体育館が建てられました。
しかし、その体育館も老朽化が進み、このたび新たな体育館を市の羽黒地区に建設し、旧体育館は平成28年(2016)11月から平成29年(2017)3月にかけて撤去工事をしました。
今回の発掘調査は平成29年(2017)5月から実施されていました。

全体説明会
いよいよ説明会が始まりました。はじめは市の職員の方の全体的な説明です。人がたくさんいて、しかも大型テレビでの説明だったので、前にいる人は私も含めて座ってみることになりました。座っているとだんだん足腰が痛くなってきました。うーむ年齢を感じました。

全体の説明

溝跡
全体説明の後は30人ずつのグループに区切って現地の説明です。はじめに目にしたのは溝の跡でした。土の色によって遺構の存在を見るそうです。色が明るいところは元々この場所にあった土で、黒っぽいのは後で持ち込まれた土だそうです

溝跡(黄色の文字は合成です。)

根石、三和土跡
次は柱の礎石の下に埋める根石跡と三和土(たたき)の跡です。礎石がそのまま出ているのかと思いましたら、礎石の下に根石というものを埋めて、その上に礎石を置くそうです。今回は、その根石が見つかったということです。後ろの三和土(たたき)の跡は看板にも?がついている通り、三和土(たたき)ではないかということです。三和土(たたき)とは土間のことだそうです。

柱の根石跡、三和土跡(?)

井戸跡
そして次が今回の発掘調査の一番の成果ともいわれる井戸跡です。下の方までは掘っていませんが、全部掘るとけっこうあるだろうということです。また、円の半分だけにしているのは、上に土がどれだけ埋まっているかを残しておくためだそうです。周りの石があんまりきれいなので、「この石は当時の石ですか」と質問したら、「当時の石です。」と答えていただけました。

井戸跡

見学会は30人ずつ一列で写真のようにぞろぞろと並んで見ました。

見学会の様子

見学会には、元犬山市長の石田さんの姿も見えました。現在の教育長と和やかに話をしていました。

茂松城跡 豊川市

2017年06月26日 06時20分27秒 | 豊川市
東三河の城が続きます。今回は茂松城跡です。

牧主計とは
茂松城は「三河国二葉松」に
茂松村古城 牧主計(かずえ)
とあるだけです。

牧主計とは、牧野古白の六男で茂松城は牧野氏ゆかりの城である可能性と長沢に本拠を置いた長沢松平氏の城である可能性との二つの可能性を「愛知の山城ベスト50」で指摘していました。

茂松城、長沢城、牧野城(Yahoo地図より作成)

さて茂松城跡は御津高校のすぐ隣にあります。高校の正門の右の山です。

茂松城跡から見た御津高校

蒲郡バイパスの工事中
しかしそこで、工事中の看板を見てしまいました。

工事を知らせる看板

蒲郡バイパスを造るということらしいです。茂松城跡が破壊されないか心配になりました。

茂松城跡はけっこう古い城のようです。本丸の掲示板に源範頼が三河守であった頃の居城とありました。源範頼といえば源平合戦の頃の武将です。

茂松城跡案内掲示板

本丸跡

本丸の土塁跡

本丸には東と南に虎口がありました。

本丸東虎口


本丸南虎口

井戸跡
本丸から一段下がったところに井戸跡がありました。

井戸跡

月ヶ谷(わちがや)城跡 豊橋市

2017年06月25日 06時09分53秒 | 豊橋市
西郷氏のもう一つのお城に行きました。月ヶ谷城です。月ヶ谷城跡は豊橋市にあります。五葉城跡が新城市にあって、二つの市にまたがっていますが、昔は西郷氏が統治していた一つの地域だったのだと思います。

月ヶ谷城への登城口
国道362号線から北に入ると(これが実は難しいのですが)、小さな道の右側に、写真のような小さな案内標識があります。

月ヶ谷城跡の案内標識

この標識に従って山を登っていきます。登山道は、下の写真のように赤い矢印の標識が要所要所に立てられていますので、それに従って登っていきます。

月ヶ谷城跡への道案内

しばらく登っていきますと、月ヶ谷城の本丸に登りつきます。

本丸

月ヶ谷城跡の碑

本丸の中央付近に月ヶ谷城跡の碑が立っていました。本丸には石垣の跡を思わせる石がたくさん散在していました。

本丸に散在していた石

虎口
本丸は丸い形で南と西に内枡形状の虎口がありました。

本丸南虎口

また、南虎口を下っていくとけっこう深い井戸の跡がありました。

井戸

井戸跡

月ヶ谷城は西郷氏の拠点として使用されていましたが、「愛知の山城ベスト50」では虎口が進化したものであることなどから、天正期に大きく改変されたのではないかと説明していました。

馬籠宿 岐阜県中津川市

2017年06月24日 06時46分38秒 | 岐阜県
五月の連休に馬籠宿に行きました。お土産屋さんで買い物がしたいというリクエストに応えて出かけました。しかし、私的には「宿場町」としての馬籠を見たいと思い出かけました。

馬籠宿の石碑

すごく趣があります。以前行った時には感じませんでしたが、馬籠宿は坂に立地していることを知りました。

この坂を、お店をのぞきながら下りました。一番下まで下りたところで大きな案内板がありました。

馬籠宿の案内板

この案内板を読んでびっくりしました。後段に「桝形」と題して以下のように記述されていました。

馬籠宿の街道の南端は直角に二度折り曲げてありこの部分の山手側は切り土になっている。これは城郭建築の枡形を模したもので、ここを「桝形」といった。本来宿場が軍事的な目的をもって造られたことを示している。・・・・

知らなければただの曲がり角でしたが、意図的に桝形にしていたとは知りませんでした。

そして、再び坂を上がり、「馬籠脇本陣資料館」を訪れ、学習させていただきました。

馬籠脇本陣資料館

資料館で、脇本陣の経営のことや火事があったことや玄武石垣のことなどを知りました。

五葉城跡(4) 新城市

2017年06月23日 14時50分27秒 | 新城市
高城
1の曲輪からさらに道を進ん行きますと、「高城砦・平尾山」という標識が見えました。この標識の右手の細い山道を登っていくと高城に行きます。

この山道は五葉城の城域であるため、道の脇には堀・土塁を見ることができました。

山道の脇に見えた堀・土塁

この山道は高城に近くなると急に勾配がきつくなりました。そしてたどり着いたところが高城です。岩がごろごろしていましたが、土塁や堀などの後はありませんでした。

高城

五葉城は軽い登山コースになっていて、見学した日が休日ということもあり、他にも見学されている方が多く見えました。小1時間もかかる山に城を築いて、そこを往復するのは大変だなと思いました。昔の武士はえらい。