愛知の史跡めぐり

愛知県の史跡を巡り、その記録を掲載します。

永田清左衛門 豊田市

2014年06月30日 15時33分04秒 | 豊田市
永田清左衛門の碑
 今日は豊田市猿投地区に用事がありましたので、ついでに有名な史跡「舞木廃寺塔跡」を見てこようと思いました。
駐車場がないので、近くの空き地に止めたところ、素晴らしいものを見つけました。


 それは、永田清左衛門という人の顕彰碑です。永田清左衛門は案内板によると、挙母藩の年貢減免、築城のための労役軽減のために江戸にまで訴えに行っているのです。訴えは部分的に認められましたが、永田清左衛門はその外の一揆首謀者とともに処刑されてしまったのです。この顕彰碑は永くそれを称えるために建てられたそうです。



 なんと、そのときの挙母藩の藩主が昨日アップした七州城に本拠を置く内藤氏だったのです。詳しくは、初代内藤政苗です。政苗が桜城を改築して新しく立て直そうとしたときのことだったのです。昨日のブログで「一揆、洪水、政争等の理由で進まなかったそうです。」と書いた「一揆」とは、永田清左衛門らの一揆だったのです。

飯野八兵衛事件

 この一揆は舞木村だけでなく、飯野村、四郷村なども含み、宝暦2年(1752年)に1,241人もの人たちが挙母藩の城下、岡崎藩の城下に押し寄せました。多くの人たちは帰村しましたが、300人余りの人たちは、江戸に出向き江戸屋敷にいた藩主に直接訴えたということです。飯野八兵衛事件というそうです。飯野八兵衛は27歳で処刑されたそうです。
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七州城 豊田市

2014年06月29日 16時18分40秒 | 豊田市
 県外の記事が続いていますので、息抜きで愛知県の記事を入れます。豊田市の七州(しちしゅう)城です。


豊田市に挙母(ころも)城が3つ?
 豊田市には有名なお城が3つあるそうですが、どれも挙母(ころも)城と呼ばれているそうです。

1 豊田市金谷町にある挙母城(金谷城)・・・金谷城としましょう。
2 豊田市元城町にある挙母城(桜城)・・・桜城としましょう。
3 豊田市小坂町にある挙母城(七州城、桜城)・・・七州城としましょう。


3つの城には次のような関係がありました。

1 金谷城 (中條氏)
 室町時代の武将、中條氏の居城です。中條氏は室町幕府の重臣を務めるなど由緒ある武将でした。しかし、次第に勢力が衰え戦国時代ごろには豊田市の辺りを支配するぐらいの武将になっていました。
そして、台頭する織田氏や今川氏によって滅ぼされてしまいました。
 江戸時代になると、そこに1604年三宅氏が入りました。三宅氏は古くなったこの城を捨てて、あたらしく今の元城町付近に陣屋を構えました。これが桜城です。

2 桜城 (三宅氏、幕府領、本多氏)
 三宅氏は、陣屋を中心に7ヶ町を形成し城下町を形作っていきました。1619年(元和5年)第2代藩主三宅康信は、伊勢亀山藩に領地替えになりましたが、1636年(寛永13年)第3代藩主康盛が再び城主となりました。しかし1664年(寛文4年)には、第4代藩主康勝が田原藩に領地替えとなり、三宅氏はもう戻ることはありませんでした。

 幕府領時代
 このあと、挙母の地は幕府領となりました。1664年(寛文4年)から、三河代官、鳥山氏が支配しました。鳥山氏は、伊保に代官所を作り、三宅氏の陣屋を廃止しました。倉をつくったり、陣屋跡を田地にしたり、道路を整備したり、養蚕、灌漑などを行ったそうです。
 
 1681年(天和元年)本多忠利が入封しました。そして「衣」を「挙母」と表記するようにしたそうです。本多氏は、3代に渡り支配を継続しました。(忠利、忠次、忠央)

3 七州城 (内藤氏)
 1749年(寛延2年)内藤政苗が桜城に入封。挙母城築城の計画がありましたが、一揆、洪水、政争等の理由で進まなかったそうです。1779年(安永8年)第2代内藤学文が挙母城移転を決意し、新しい城の場所を桜城より西の樹木台にしました。1785年(天明5年)に築城工事が終わりました。
 内藤学文は、崇化館(藩校)を創設しています。1836年(天保7年)加茂一揆が起こりましたが、第5代藩主内藤政優が一揆を鎮圧しました。井伊一族の政文が第6代藩主です。1854年(安政元年)、挙母大地震があったそうです。1858年(安政5年)内藤文成が、第7代藩主に4歳でなったそうです。もうこの頃は幕末です。

七州城の礎石
 初めて知りましたが、城の塀の礎石が見つかっているそうです。

礎石についての説明板
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疋壇(ひきだ)城 福井県敦賀市(1)

2014年06月29日 06時33分44秒 | 福井県
交通の要衝 疋壇城
 深坂古道を抜けると北の方に疋壇城址があります。
 疋壇城は、越前の国と近江の国を結ぶ通路の要衝にありました。
 築城は、文明年間(1469年~1486年)疋壇対馬守久保によるそうです。


疋壇城の位置

信長の越前攻めで破却されている
 「信長公記」にも「引壇の城」という記載がありました。信長が越前を攻めていたとき、同盟者である近江国浅井氏が反旗を翻したので、あわてて逃げ帰ったというくだりです。

信長公記 巻3「越前手筒山攻め落とせらるるの事」より

 彼の城、高山にて、東南峨々と聳えなり。然りと雖も、頻に攻め入るべきの旨、御下知の間、既に一命を軽んじ粉骨の御忠節を励まれ、程なく攻め入り、頸数千参百七十討ち捕り、並びに金ヶ崎の城に、朝倉中務大輔楯籠り候。翌日、又、取り懸け、攻め干さるべきのところ、色々降参致し、退出候。引壇の城、是れ又、明け退き候、即ち、滝川喜右衛門、山田左衛門尉両人差し遣わされ、堀・矢蔵引き下ろし、破却させ、木目峠打ち越え、国中御乱入なすべきのところ、江北浅井備前、手の反覆の由、追々、其の注進候。然れども、浅井は歴然御縁者たるの上、剰へ、江北一円に仰せ付けらるるの間、不足あるべからざるの条、虚説たるべしと、おぼしめし候ところ、方々より事実の注進候。是非に及ばざるの由にて、金ヶ崎の城には、木下藤吉郎残しをかせられ、・・・・

疋壇城は南北に長い城

疋壇城縄張り図

 北の方は日吉神社になっています。東には道路が見え、通行人が把握できます。西のほうは現在鉄道が走っています。
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深坂古道 福井県敦賀市・滋賀県長浜市(4)

2014年06月28日 08時10分04秒 | 福井県
古の歌人が通った深坂古道
 峠を越えていくと、笠朝臣金村(かさのあそんかなむら)という人の歌の碑がありました。
笠朝臣金村は、元正朝末から聖武朝初期にかけて活躍した歌人で、官人でもあったようです。天皇に同行して地方に出かけたことが多かったようです。


 この歌は笠金村が越前の国に出かけたときに歌ったもので、万葉集に納められているそうです。
 2首あって、1首目は
 丈夫の弓末振り起こし射つる矢をのち見む人は語り継ぐがね

意味
 勇者たるものは、自分の弓の弓末をしっかりと振り起こして射よ。射た矢を後に見る人があれば、それを語り草に言い伝える材料とするだろうから。

 昔は旅の幸運を祈って、矢を射た事があったようです。「がね」は願望を表すそうです。名古屋弁でもあったような気がします。「~だがね」は、「~だね」という意味で使うので、ちょっと違いました。

越前は行きたくない?
 2首目は
 塩津山打ち越え行けば我が乗れる馬ぞつまづく家恋ふらしも

意味
 塩津山を越えて行くと、私の乗っている馬がつまづいた。家人が私を慕っているらしい。

 越前に行こうとすると、馬がつまづいたというのです。馬でさえ行きたくないというのです。ひどい話ですが、昔は越前に行くというのは、大変なことだったんだということが分かります。

さすが紫式部


 しばらくいくと有名な紫式部の歌がありました。
 知りぬらむ ゆききにならす塩津山 世にふる道はからきものぞと

 人足たちが「やっぱり塩津山は難儀だなあ」と言い合っているのを聞いた紫式部が自分は輿に乗っているにもかかわらず、

「これで分かったでしょう。人生というものは、この坂のようにつらいものなんだよ。」と歌ったといいます。

 さすが貴族の娘、当時27歳だったそうですが、自分は歩きもしないのに、人生訓をたれる辺り貴族の娘でなければできないことだと思いました。これを聞いた人足たちは「この野郎(小娘)、いつか輿から蹴落としてやる」と思ったかもしれません。

深坂古道 おしまい
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深坂古道 福井県敦賀市・滋賀県長浜市(3)

2014年06月15日 06時53分45秒 | 福井県
深坂峠
 いよいよ深坂古道の峠に来ました。ここは、左右に山城の跡があるということで、登ってみることにしました。はじめは、東側(右側)の山を登りました。しかし、登っても登っても「らしき」ものはわからず、中腹まで来てようやく「らしき」ものがありました。「曲輪」のような平坦な土地と堀切のような削られた土地がありました。確定はできませんでした。

これは、堀切でしょうか。

西側にも山城?
 ここを降りて、こんどは西側を見ると、すぐに「堀切」らしき遺構が見えました。この遺構からは、尾根のように平坦な土地が連なっていました。「曲輪」のように見えました。この遺構は、道のすぐ横にありましたので、道の監視台としての役目をしていたのではないかと考えられました。

堀切から続いていた平坦な土地。写真の左側は道(深坂古道)になっています。

古い山城があった
 峠に看板があり、その看板には、しっかり山城があったと書かれていました。


 なお、「城歩きマン」さんから、福井県の遺跡地図に「深坂峠城址群」がこの地にあったとのコメントをいただきました。ありがとうございました。
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