愛知の史跡めぐり

愛知県の史跡を巡り、その記録を掲載します。

南知多資料館(2) 南知多町

2014年03月30日 21時57分35秒 | 南知多町
先苅(まずかり)貝塚
 資料館の3階は「考古室」です。南知多町にはいっぱい貝塚などの古代遺跡がありました。「先苅(まずかり)貝塚」は、縄文時代早期の遺跡です。この遺跡は、海面より10メートル近く下の層にあった遺跡だそうです。



図の右側の黒い部分が遺跡があったところです。

 ということで、「縄文海進」という氷河期が終わって海水面が上昇した時期があり、それによって水没した遺跡をはじめて確認できたものとして、世界的に注目された遺跡だそうです。

貝塚・遺跡の宝庫、南知多町
 南知多にはたくさんの遺跡がありました。




 また、出土した土器や人骨なども展示してありました。




神経痛で苦しんだ縄文人

 この人骨は、縄文人に見られる抜歯がありませんでした。また、説明版によると、「椎骨に病変が見られることから、神経痛で苦しんだであろう」ことが判ると書いてありました。神経痛だったことまで分かるとはすごいと思いました。

 土器や骨角器などが所狭しと並べられており、しかもまじかで見られるので、もったいない感じがしました。もう少し事前の勉強をしっかりして、もう一度伺いたいと思いました。

南知多町資料館おしまい

南知多町資料館(1) 南知多町

2014年03月28日 18時18分04秒 | 南知多町
南知多町
 南知多町の資料館を訪れました。南知多町とは、知多半島の最南端です。2006年に美浜町と合併して「セントレア市」と名前を変更しようとして有名になりましたが、かなわず、美浜町との合併もせず、南知多町として存続しています。


 南知多町の資料館です。画像は町のホームページから転載しました。3階建ての建物です。階ごとに展示品が整理されていました。


 1階は千石船室、2階は漁具室、3階は生活道具室、考古室となっていました。


郷土資料館の玄関にあった掲示板

海運業が盛んだった南知多町
 1階にはいると、漁業というより、海運業のグッズがいっぱいありました。ぱっと目に付いたのは、千石船です。この船は、「宝久丸」といって、800石で10分の1の模型だそうです。
 江戸時代には有名な樽廻船、菱垣廻船というのがありますが、「尾州廻船」という海運業もあったそうです。内海のあたりにはこの尾州廻船の船主がたくさん住んでいて、けっこう栄えていたようです。

千石船

 2階には大きなタモがありました。小女子(こうなご)を取る網だそうです。

タモ

古代に朝廷に海産物を貢納していた南知多町
 藤原宮や平城宮跡で出土した木簡が紹介されていました。
 木簡には「参河国幡豆郡「篠嶋」「析嶋」(佐久島)「海部」などの言葉があるそうです。篠島、佐久島は昔は、幡豆郡だったことが分かるそうです。また、貢納した魚は、佐米(サメ)、須須岐(スズキ)、黒鯛、赤魚(カサゴ?)などだそうです。

木簡を紹介するパネル

 1000年以上も前に知多半島の先端で、漁業が盛んに行われていて、朝廷に海産物を貢納していたことが分かりました。知多半島は、昔は栄えていたところだったということです。

野間大坊 美浜町

2014年03月26日 11時55分58秒 | 美浜町
 南知多町の師崎に所要があったので、ついでに知多半島の史跡を回ることにしました。といっても、全然知らないので、ネットを調べたところ、ほかにもたくさんあると思いますが、とりあえず美浜町に野場大坊、南知多町に資料館があることが分かったので、行ってみることにしました。

美浜町とは
美浜町は、知多半島の中ほどにある町です。

 
野間大坊は源義朝最期の地
 ここに野間大坊というお寺があります。野間大坊に行こうと思った理由は、源義朝が死んだ場所だと分かったからです。源義朝は、鎌倉幕府をひらいた源頼朝のお父さんです。2年ほど前のNHK大河ドラマ「平清盛」でも源義朝は出てきました。玉木宏が演じていました。ので、イメージとしては源義朝=玉木宏という感じです。

 野間大坊でも源義朝について書かれた掲示板がありました。「血の池」というところの看板です。


家来に殺された源義朝
 看板によると、源義朝は「平治の乱」で、平清盛に敗れ、この野間の地まで逃げてきたそうです。しかし、家来である長田忠致(おさだ ただむね)・景致(かげむね)に殺されてしまうそうです。そして、この血の池とは、その殺した源義朝の首を洗った場所だそうです。池の中に供養塔が何本も立っていました。


源義朝の墓
 また、源義朝の墓もありました。

墓の入り口




野間大坊とは
 さて、野間大坊そのものは真言宗の寺院です。天武天皇の時代に役小角というひとがが建立し、聖武天皇の時代に行基により中興されたと伝えられています。その後、空海が知多半島を訪れたときに、この寺に立ち寄っているそうです。

案内板

 案内板に、「大御堂寺」というのがありますが、このお寺も野間大坊のお寺です。野間大坊の本堂は、別にあり、お守りなどを販売していました。

野間大坊 本堂

観音寺城(3) 滋賀県東近江市

2014年03月23日 15時58分56秒 | 滋賀県
伝平井丸
 本丸の下には伝平井丸がありました。伝平井丸の門には素晴らしい石段があり、周りを石垣で囲った跡がありました。講師の方は、私見と言いながら「この伝平井丸が観音寺城城主の屋敷ではないかと思う。」と述べておられました。

伝平井丸の入り口跡

イノシシが遺跡を・・・・
 確かに立派です。さらに、中に入ると「庭園」らしき跡もありました。ここだけではありませんが、この遺跡はいたるところ土が掘り返されていました。猪の仕業だといっていました。猪がエサ(ミミズ)を見つけるため掘り返しているとのことでした。「朝倉(遺跡)の将来が見えた」と朝倉資料館の元館長が嘆いておられました。

伝平井丸の庭園跡

大石垣
 ここから、武家屋敷群をぬけて、やや下へ降りると「大石垣」がありました。この石垣は、本丸に行くときに登城者に必ず見える位置にあるそうです。城主の威光を見せるためのものではないかと言っておられました。けっこう高かったです。


 例によって「矢穴」もありました。


 このあと、長い下り通を一歩ずつ転ばないように慎重に足を運びながら下っていきました。けっこう長い道のりで、逆にこんなにたくさん登ってきたんだと、自分に感心しました。

観音寺城<おしまい>

長島城跡 三重県桑名市

2014年03月22日 16時17分10秒 | 三重県
長島とは
 3連休、天候にも恵まれ、念願の長島に行ってきました。


 長島は、三重県桑名市にあります。というより、「長島スパーランド」といったほうが分かりやすいかもしれません。この地で、450年ほど前一向一揆があり、多くの人が亡くなられているのです。いわゆる「長島一向一揆」です。

長島城は、今中学校に
 長島一向一揆は、最終的には長島城に農民たちがこもり、織田信長によって攻められ、2万人もの人々が焼け死んだそうです。長島城は、今は長島中学校の敷地になっています。その中学校の門は、城を意識したしゃれた門になっていました。

長島中学校の門

 中学校のすぐ南には、長島中部小学校がありました。その間ぐらいに長島城の案内掲示板がありました。

 
 長島城は、一向一揆のときに落城しますが、江戸時代には増山という藩主が居住していたようです。城の縄張り図は、江戸時代の城でしょうか。まわりには、侍屋敷や町屋敷が並んでいます。また、田んぼも整然としています。


 この城の大手門が蓮生寺という寺の山門として残っているというので、行って見ました。案内板によると、縮小されて再建されているそうです。明治9年に移築したそうです。

蓮正寺山門(長島城大手門)

一向宗の拠点 願證寺
 長島城が戦いの拠点なら、この願證寺は一向宗の拠点でした。ただし、もともとの願證寺は、杉江というところにあり、今は長良川の川底になっているそうです。現在の願證寺は、もともとの願證寺の流れを受け継いでいますが、はじめ誓来寺といい、あとで願證寺と名乗ったそうです。また、願證寺は他にも名古屋にもその流れがあり、現在の本願寺名古屋別院となっているそうです。

 江戸時代に、この「願證寺」が建てられたのですが、行ってみると寺がとても低いところにありました。長島の当たりは、土地が低く台風や大雨で何度も洪水にあっている地域です。他の民家は、石垣で高くして家が造られているのですが、この願證寺は、田んぼの中にあり、低いところに建てられています。今まで洪水の被害にあわなかったのでしょうか。なぜこのような低いところに建てたのか、ふしぎです。

 願證寺には、「長島一向一揆殉教の碑」がありました。碑の裏に碑文があり、頼山陽の「日本外史」にも惨状が詳しく記されているとありました。