愛知の史跡めぐり

愛知県の史跡を巡り、その記録を掲載します。

福山城鉄板の復元 広島県

2022年02月10日 16時07分31秒 | 広島県

福山城の記事(22年2月10日中日新聞)

今朝ほどの朝刊に福山城(広島県)の記事が載っていました。福山城は城主に水野勝成がなった時があります。水野勝成は刈谷城主でもあったため、愛知県とは縁がある武将です。
新聞記事によれば、福山城は天守の外壁に鉄板が張られていたそうで、それを復元するということらしいです。
福山城は白い端正な城というイメージが私にはありますが、どんな城になるのか楽しみです。


新聞記事と角度は違いますが福山城(2014年11月撮影)
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三原城跡 広島県三原市

2015年12月23日 11時26分02秒 | 広島県
所用で広島市に行くことがありましたので、途中の三原城跡に寄ることにしました。新幹線岡山駅で「こだま」に乗り換え、各駅停車で三原駅に行きました。新幹線なのに、「各駅停車」というのも変な感じですが、「のぞみ」に比べると一つ一つの駅に止まり、待ち時間もあったりして、さながら、鈍行の各駅停車のようでした。

城下町三原
さて、三原駅に着くとさっそく、「城下町三原」の幟が立っていました。

三原市は、三原城の城下町だったのです。三原城は、毛利元就の三本の矢で有名な小早川隆景が拓いた城です。

以下、瀬戸内三原築城450年事業推進協議会「三原 城下町を歩く」より

 三原城下町は、三原城の東西に形成されました。永禄10年(1567年)に小早川隆景が三原城を築き、天正10年(1582年)頃から三原城と東側の城下町の整備がすすめられました。この頃に、沼田地方から多くの寺院が城下町へ移されました。
 慶長5年(1600年)、福島正則は三原城に子正之を置き、西町の町割を行ったと伝えられます。
 東町、西町とも山陽道が通り、街道から小路が形成され、現在でも大善寺通り・宗光寺小路などの小路が残り城下町の景観を留めています。



散策路

鉄道の下の石垣
はじめに天守台に登りました。駅から案内表示が出ていましたので、すぐに行けました。天守台と駅がくっつくようになっていました。明治時代に、ここに鉄道を引くときに他に場所がなかったために城跡にどんと鉄道を通したそうです。

石垣の上を通る鉄道。石垣は削られてしまいました。

天守台
天守台はけっこう広かったです。


天守台を降りて、全貌を見たいと思い、うろうろしていましたら、運よく観光案内ボランティアさんに出くわしました。時間が1時間少々ということを告げるとボランティアの方は私一人しかいないのに案内をしてくれました。
ありがとうございました。

塩田で栄えた町
駅に江戸時代の絵がありました。絹本著色登覧画図というのだそうです。

この絵の左側に注目すると、塩を作っている様子が描かれています。三原の産業として塩があったので、江戸時代は裕福だったとボランティアさんが言っていました。

小早川隆景の像
天守台の西側に天守台を見つめるような向きで小早川隆景の像がありました。


「この像は駅前に建てるべきではないか」(現在は駅の南側に繁華街があります。像は駅の北側にあります)
「いや、隆景さんは毎日天守台を見ることができるから、ここでいいんです。そのうちに天守閣ができれば、天守閣をずっと見守っていることができる。」
ということで、この地におられるそうです。

城下町の小路
町に入っていきますと、小さな小路があり、まさに城下町の雰囲気が残っていました。

ガイドさんは、かなり三原の町を知っていらっしゃるようで、この家は、何年前までは住んでいたのに、引っ越されたとか、ここは校長先生の家でたまにお茶会をしているとか、いろんなことを教えていただけました。

三原を愛するガイドさん
おじいさんやおばあさんが、坂の多いこの街で生活していくことが難しくなったこと子どもさんやお孫さんが街に出て行って戻ってこないこと、だからそちらのほうに引っ越していくことなどをさびしげに語ってくれました。
すごく三原の町を愛している方だなあと感心しました。
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万徳院跡 広島県山県郡北広島町

2014年12月31日 10時26分51秒 | 広島県
万徳院とは
 天正2年(1574年)頃に、この地域に勢力を広げていた吉川元長(毛利元就の孫)が建立した寺院で、当初は山中の谷あいにひっそりと建つ、いわば別邸だったそうです。元長の死後、弟の広家が吉川氏の菩提寺としてふさわしい寺院を求め、長い参道や石垣、庭園、建物の増築などの大改修を行いました。しかし、1600年に吉川氏が現在の山口県岩国市に移されると、万徳院もこれに従い、建物ごと移転したそうです。(パンフレットより)

本堂をイメージしたガイダンスホール
 駐車場をぬけると、ガイダンスホール(なまえが片仮名です)がありました。このホールは、お寺の本堂をイメージしているそうです。

このホールの中に万徳院のミニチュアがありました。これで、往時の万徳院の全貌が見れました。

万徳院のミニチュア。長い参道や門にある石垣が確認できます。

万徳院境内へ

長い参道をいくと、前方に門の石垣が見えました。石垣は、吉川元春の館跡で見たものと同じような積み方になっていました。

門の石垣を入っていくと、左側が庭園跡になっていました。


中世蒸し風呂
 奥のほうに風呂場がありました。
 この風呂は湯釜で発生させた蒸気を風呂屋形という小部屋に引きこみ蒸気浴する蒸し風呂形式のものだそうです。この時期の風呂屋跡の出土例としては福井県一乗谷遺跡について2例目だそうで、実際に使用できるものとしてはここだけだそうです。(パンフレットより)
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吉川元春館跡 広島県山県郡北広島町

2014年12月31日 08時23分19秒 | 広島県
11月16日(日)城の会見学会最終日です。3日目の見学の最初は吉川元春館跡です。吉川元春が隠居したときに建てられた館だそうです。


グーグルの航空写真です。


現地案内板です。

石垣に感動
なんといっても目を引いたのは石垣です。

 石垣は門の両脇にありましたが、大きな石が下方にでんと置かれ、(黄色い矢印)、平たい石が横積みにされています。(赤い矢印)大変見ごたえがありました。こういう石の組み方は、この地方独自のものと言われています。

これは、門です。門の両脇にも大きな石が縦に置かれています。

台所

中に入ると南の方に家がありました。写真の右側が台所、左側が附属屋だそうです。
イメージ画がありました。

台所の中央にかまどがあります。

かまど復原

いろり復原

台所の外に出ると、いろいろな史跡の跡がありました。

パンフレットからの図

便所を考える

そのなかからひとつ、トイレの跡に関心を持ちました。ふたつ入れものがあります。おそらく大人数のため、一つの入れものでは間に合わなかったのでしょう。さらに、水洗ではないと言うことです。定期的にここから出すことが必要だったと思われます。

美しい庭園
最後は、庭園です。美しい。
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多治比猿掛城址 広島県安芸高田市

2014年12月31日 06時45分10秒 | 広島県
 さて、11月に訪れた広島県の史跡について後半部分がまだだったので、掲載します。
郡山城の次は多治比猿掛城というところです。


案内板

 多治比猿掛城は、毛利元就が郡山城に移り住むまでに住んでいたお城だそうです。幼年、青年時代を過ごした居城だったわけです。ただし、順風満帆ではなかったようですが。明応9年(1500年)に家督を子どもの興元に譲った父弘元とともに多治比猿掛城に移り、大永3年(1523年)毛利家の家督を継いで郡山城に入城しました。


毛利氏の家系図の一部です。

猿掛城に畝状竪堀が
 この城に畝状竪堀が最近発見されたということで、毛利氏の城にはないといわれていた畝状竪堀が毛利氏の城にも存在することがわかったそうです。

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