愛知の史跡めぐり

愛知県の史跡を巡り、その記録を掲載します。

岩崎城 日進市

2013年10月30日 07時42分17秒 | 日進市

10月27日、天気がよかったので、岩崎城を訪れました。

岩崎城は丹羽氏のお城
案内掲示板より


岩崎城は、室町時代末の平山城である。織田信秀により享禄年間(1528~1531)に築城され、その後、徳川方に奪われた後、天文七年(1538)丹羽氏清が本郷城から移ったと言われ、以後、氏識(うじさと)、氏勝、氏次の4代にわたって、慶長5年(1600)関が原の戦いの戦功により三河伊保に一万石の小名として転封されるまでの62年間居城しました。
 天正12年(1584)小牧・長久手の戦いの際に、織田信雄・徳川家康連合軍の後方攪乱をねらった豊臣秀吉方の先鋒池田恒興隊を阻止して、城代丹羽氏重(傍示本(ほうじもと)城主)以下300余名が討ち死にしたことが織田・徳川軍を勝利に導いたと伝えられています。
 城郭は、本丸、二の丸、東・西曲輪およびそれらを取り囲む堀や土塁等がよく遺存しており、昭和59~61年度までの発掘調査の結果貴重な資料が多数出土しました。



岩崎城案内図

案内図によれば、土塁、土橋、堀などが残っているとのことです。

まず、土塁発見
城に入るとすぐ右横に土塁が築かれていました。けっこう高かったです。


水琴窟(すいきんくつ)

 二の丸の跡に「水琴窟」なるものがあり、水を手前の石のところにたらし、写真中央においてある竹筒でそのたらしたところの音を拾うと琴の音のような音が聞こえるそうです。実際やってみました。すると確かにきれいな音が聞こえました。水の雫が地面の下に埋めてある大きなかめの中に落ちて、きれいな音を出しているそうです。

堀の跡

見事な空掘りがありました。

なんと古墳が

 岩崎城には、なんと古墳もありました。円墳だそうです。岩崎城の発掘調査のときに偶然見つかったそうです。発掘されたときには形も分からなくなっていたので、近くの古墳を参考に復元したそうです。6世紀前葉に造られた豪族の墓のようです。

小牧・長久手の戦いで丹羽氏は家康方に

 本丸のところにお城が復元されていて、中に入れるようになっていました。中には岩崎城にとって大きな出来事であった小牧・長久手の戦いについてのディスプレイがありました。小牧・長久手の戦いは、本能寺の変の後、豊臣秀吉と徳川家康が覇権を争った戦いです。結果は、最終的には引き分けだったようです。

岩崎城の戦いで氏重は討ち死に
 そのディスプレイによると、小牧・長久手の戦いは、はじめこう着状態だったようです。この状態を打開するため、秀吉軍は、小牧から一挙に家康の本拠地である岡崎城を攻めようとしたようです。「中入(なかいり)作戦」と呼ばれるそうです。天正12年(1584)4月9日、秀吉側の「中入作戦」先鋒池田恒興は、岩崎城を守る丹羽氏重(岩崎城主、丹羽氏次の弟。氏次は小牧山に参戦していたようです)、加藤景常(氏次の姉婿)らと戦い、これを討ち死にさせました。

長久手の戦いで秀吉勢敗北
 しかし、秀吉軍の動きを知った徳川軍は、これより先丹羽氏次先導役として、秀吉側の「中入作戦」隊を追撃していました。長久手あたりで、秀吉勢に追いつき、家康軍、秀吉側の「中入作戦」軍との戦いになりました。この戦いに、先に岩崎城を落とした池田恒興も加わりました。
 戦いの結果、秀吉側の武将、池田恒興、子の元助、森長可(ながよし、森蘭丸の兄)らが討ち死にして家康側の勝利に終わったようです。

立体模型
 本丸の横の岩崎城歴史記念館に立体模型がありました。
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田上山城 滋賀県長浜市

2013年10月27日 13時10分10秒 | 滋賀県
 10月20日、「若越城の会」主催の見学会に行きました。目的地は、滋賀県長浜市の田上山城です。

田上山城の位置

田上山城とは
 田上山城は、豊臣秀吉と柴田勝家の有名な賤ヶ岳合戦に備えて、秀吉側が築いた砦です。合戦のときには、豊臣秀吉の弟、秀長が1万5千人の兵をここに集めたそうです。


縄張り図

 この図は、当日見学会で配布されたものに、以下写真を取った場所を赤い字で示したものです。
実際は図に示していない西郭も見学しました。ただ、天候が悪く、写真がうまく撮れていなかったので、割愛させていただきます。


田上山城遠景
 これは、JR木ノ本駅から写したものです。

登城口

田上山城登城口
 田上山のふもとの寺に登城口がありました。

のろし台

 途中に、その日に行われる予定だった「のろし」の台がありました。その日は雨天のため中止になったそうです。

神社の跡
 また城址にいく途中に、神社の跡もありました。上宮跡(かんのみやあと)と意冨布良神社跡(おほふらじんじゃあと)です。




南堀切

南堀切
 南堀切です。いつも思いますが、どうしてこれが人口のものと分かったのだろうということです。昔の資料で分かるのでしょうか。私には、ただの山肌にしか見えないのですが、「堀切」という構造物になるようです。専門家というのは本当に素晴らしいです。私も見分けがつくように勉強しないといけないと思いました。

南郭
 しばらくいくと、「南郭」につきました。周りが土塁で囲まれており、ここに何か建物があったということが感じられました。

南郭の土塁跡

土橋跡

土橋跡
 これは、はっきり分かりました。確かに橋でした。主郭と北郭をつなぐものです。

北郭

北郭
 周りを土塁が囲っていることが分かります。

ふもとの神社

 ふもとの意富布良神社。先に見た上の神社が下りてきたのでしょうか。

 雨の中、最初は登城はできないのではという感じでしたが、集まられた皆さんの思いが強く、せっかく来たのだから登りましょうということになり、登りました。「典型的なお城」と会の方がおっしゃっていましたが、土塁や堀切などが言われてみれば分かりやすく、とても勉強になりました。
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本宗寺にたてこもる一揆側の武将 岡崎市

2013年10月27日 12時59分15秒 | 岡崎市
 「松平記」は次に、土呂本宗寺に立て篭もっていた武将の名前を挙げています。赤色の武将は、桶狭間の戦いのとき家康について丸根城を攻めていた武将です。家康の家臣団が分かれて戦ったことが分かります。

一 また土呂本宗寺の寺内に立てこもる人々は、大橋伝十郎、石川半蔵、佐橋甚兵衛(吉忠)、同甚五郎(吉実)、大見藤六石川善五佐衛門同源左衛門(一勝)、佐藤乱之助(吉久)大橋左馬助江原孫三郎(利金)、本多甚七、石川十郎左衛門(知綱)、同新九郎(正綱)、同新七(親綱)、同太郎八郎、同右衛門八、同又十郎、佐野与八(正吉)、江原又助、内藤弥十、山本才蔵松平半助、小野弥平、村井源四郎、山本小次郎、活計五助(月海左五助)、黒柳次郎兵衛、成瀬新蔵、岩城半七、三浦平三郎、浅美主水、阿佐美金七郎、加藤五郎右衛門、平井甚五郎、黒柳彦助<1>、これらをはじめ70余騎立てこもり、家康に敵対していた。


<1> 土呂本宗寺に立てこもっていた人々。エピソードが見つかった人だけコメントをする。

○佐橋甚五郎 森鴎外に「佐橋甚五郎」という名の小説がある。そこでは、佐橋甚五郎は松平信康の小姓として登場し、同じ小姓の蜂谷を約束を守らぬとして殺害、また家康の命で甘利四郎三郎を刺殺し行方をくらました。そして慶長12年朝鮮使節として現れている。

○大見藤六 「東照宮御実紀付録」に記事が載せられている。永禄6年正月大見藤六は、徳川方にあり翌日の戦いの作戦を聞いていた。そしてそのまま一揆方に寝返った。家康は、臣下に藤六を討て、これは大きな忠義だと檄を飛ばした。戦いの当日水野太郎作正重が大見藤六を討ち、家康に大変誉められたという逸話が記されている。

○石川善五左衛門 桶狭間の戦いのとき、丸根城を攻めた家康の遊兵(奇襲攻撃軍)として参戦している。

○江原孫三郎 江原利全。家康が人質として今川に行ったときに近侍の家臣として同行したらしい。

○石川新七 上記大見藤六で載せた「東照宮御実紀付録」に藤六とともに家康方を攻めた武将として記録されている。新七は水野忠重に討たれている。
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内藤弥次右衛門の石碑 幸田町

2013年10月14日 07時37分27秒 | 幸田町
荻城址
 10月13日(日)幸田町荻の方に行きました。「松平記」松平昌久のところに内藤弥次右衛門という武将が登場して、WIkipediaで、「荻城址碑文によれば」とコメントがありました。そこで、「荻城址」なるものがどんなものか訪ねることにしました。


国道248号線から東へ約350メートル進むと右側に石碑がありました。

五輪塔が右に並んで建てられていました。

五輪塔の裏に説明文がありました。


内藤弥次右衛門清長公終焉の地と伝う
荻城は寛正(一四六〇)の頃内藤氏京都より三河に移り住みこの地に屋敷
城を築いたと伝えられる。永禄七年以来明治三八年まで内藤一族が居住。
同年耕地整理事業に伴い城址の古木は伐られ堀は埋められ往時を偲ぶもの
は姿を消し城 西堀の地名をのこすのみ整理後小字名は城跡となる
永禄六年の晩秋三河一向一揆起る上野城主内藤弥次右衛門清長は主君松平
元康(家康)嫡子家長養子信成甥の正成同族甚五左衛門忠郷等と袂を分か
ち熾烈なる信仰に燃え宗門護持の為権勢に屈せず決然起って法敵退治の為
進むは往生極楽 退くは無限地獄を旗印とし主従骨肉相食悲惨な戦いに敗
れ こゝに蟄居の身となる同七年甲子八月十二日死去す 享年六十四歳
 法号 楽宝院殿釈幽鑑真光覚位
没後四百二十三年にあたり城の由来を記しこゝに碑を建立す
 昭和六十二年八月吉日 荻郷土史研究会有志


蓮如ゆかりの玄好寺
 ついでなので、近くのお寺も回ってみました。玄好寺と言うお寺が北の方にありました。中に入ってみると、蓮如ゆかりのものが2点ありました。といっても説明板だけですが。



 ひとつは「蓮如上人絵伝」です。三河一向一揆について描かれているものが岡崎本宗寺にあるらしいのですが、ここにも絵伝があることが分かりました。ただし、絵伝の内容が三河一向一揆のものなのかは分かりません。



 もう一つは、「蓮如上人 御済度 蛇骨塚」というものです。どういうものなのかよく分かりませんが、蓮如上人という文字が見えるので、蓮如上人ゆかりのものであろうと思います。
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松平三蔵直勝は家康方 岡崎市

2013年10月13日 10時46分40秒 | 岡崎市
松平三蔵直勝は家康方
 次に「松平記」は、大草の松平直勝について一揆方に与したと述べています。しかし、「愛知県史 資料編11 織豊1」の解説で、「松平三蔵(直勝)について、『松平記』では大草城主で一揆方となったという誤った記述が見られるが、『三河物語』では佐々木で家康に味方したと正しく記されている。」とコメントしています。

一 松平三蔵(三左衛門弟)は、大草の城を持っていて、このたびは一揆に味方して、敵になった。家来太田善大夫<1>以下皆敵になったが、岡崎衆(家康方)に攻落され、三河に居住することができなくなり、西国に浪人となって流れていった。後には加藤主計頭(かとうかずえのかみ 加藤清正のこと)のところにて、加藤佐助と改名し、天草の合戦で討ち死にしたらしい。これは、内藤弥次右衛門<2>の妹婿であった。


<1> 太田善大夫 この松平記によれば、松平三蔵の家臣である。
<2> 内藤弥次右衛門 内藤清長 清長は松平清康、松平広忠に仕え、天文11年(1542年)織田勢が上野城(愛知県豊田市)を攻めた際に、甥の内藤正成ら一族と共に防戦し、数十人の織田勢を討ち取ったという。愛知県額田郡幸田町にある荻城跡碑文によれば、永禄6年(1563年)に三河一向一揆が起こると主家から離反して一揆側に与し、敗れて荻城に蟄居となりこの地で没したという。実子は内藤家長。また内藤信成の養父である。法名は「幽鑑」。墓所は愛知県安城市姫小川町姫150の誓願寺及び豊田市幸町隣松寺。<Wikipedia>

本ブログの訂正
また、このブログで2013年9月7日の以下の文は、訂正します。ちょっと混乱していました。

多くの松平は家康側に
 この図で家康側として「松平記」に記されているのは、竹谷、形原、五井、長沢、深溝、藤井、福釜で、大草松平昌久は一揆側についたとなっていますが、どうやら間違いのようで、家康側についています。他の松平氏については一揆が領地で起こっていないのか、記述がありませんでした。

(訂正した文)
多くの松平は家康側に
 この図で家康側として「松平記」に記されているのは、竹谷、形原、五井、長沢、深溝、藤井、福釜で、大草松平直勝は一揆側についたとなっていますが、どうやら間違いのようで、大草松平は松平昌久で一揆側につき、松平直勝は佐々木城の城主で、家康側についています。他の松平氏については一揆が領地で起こっていないのか、記述がありませんでした。
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