愛知の史跡めぐり

愛知県の史跡を巡り、その記録を掲載します。

上末城 小牧市

2021年04月27日 08時01分21秒 | 小牧市
上末(かみすえ)城は、室町時代後期、尾張二宮の祀官(しかん)重松秀村の三男落合勝正が築いたそうです。勝正の子落合安親、孫の庄九郎は小牧長久手の戦いの際、秀吉側につき、池田恒興、森長可らが主導した三河岡崎への急襲作戦に参加したそうです。しかし、この三河岡崎急襲作戦は失敗し、池田恒興、森長可は、この戦いで戦死しました。落合氏はこの後、帰農し、上末城も廃城になったということです。(「日本城郭体系」9)

上末城は、国道155号線の「上末」交差点の南東にあります。周りは市街地です。西の方に小牧山城があります。これまでこのブログで登場した小牧市の城と位置関係を示すと、図のようになります。

小牧長久手の戦いの様子(赤、秀吉軍 青、家康軍)
犬山城から小牧山城まで直線距離で約10kmです


上末城航空写真(グーグルマップ航空写真より、一部加筆)

上末城は、上末交差点の南東にあります。竹藪の中に堀があるというので、入ってみました。

竹藪の中の堀と土塁

西側は段差があり、南北に切岸のようになっていました。しかし、家を建てるため後世削った感じでした。

西側の切岸のような跡

ということで、あまりはっきりしない感じですが、ここに城があったんだという雰囲気は感じました。

南に隣接して陶昌院という落合氏ゆかりの寺があったので、訪れました。
ここには、落合安親の石碑があるということです。

落合安親石碑

なお、この石碑の裏側に「平成二年五月吉日 十四代目落合保夫建立」と彫ってありました。小牧長久手で敗れた落合氏ですが、その後落合安親の孫にあたる落合新八郎が入鹿池の開拓に関わり、そのことで名字帯刀を許されたそうです。14代落合さんはその末裔と思われます。

愛教労城の会 第8回山中城めぐり報告

2021年04月25日 06時29分27秒 | 愛教労 城の会
馬出(うまだし)ってなあに?
 
 4月24日(土)コロナが4度感染を拡大していることを気にしつつ岡崎市の山中城を見学しました。はじめ参加を予定していた方の中に、この状況の中、やはり参加を見合わせるという方もありましたが、せっかく企画したこともあり、感染予防をしっかりして、実施することにしました。

野草がきれいだった
 山中城は、県下で最大級の山城ということで、時間がかかることを予想しましたが、登山口から城域までが意外と短く、結局2時間ほどで巡ることができました。山中城は、保存会も立ちあげられ、馬出とかの遺構ごとに説明の看板が立てられ、初心者にもわかりやすくなっていました。また、天候も晴れ時々曇りで過ごしやすく、草花もたくさん咲いていました。特に「ブタナ」というタンポポの仲間の花が盛りで大変可愛らしかったです。

ブタナ花盛り(画像ウィキペディア)

会員から見学の要望?
 見学会の前に会員の方から、自分は参加できないが、ぜひ見てきてほしいという要望が出されました。①お城中央の馬出はそんなに重要な曲輪かどうか、②竪堀が随所にみられるが、市場城の竪堀と比べて規模はどうか、③今川氏、徳川氏の改修の痕跡がどこで確認できるか、というものです。みんなで見学しながら考えることにしました。

みんなで考えた
 馬出について、馬出とは敵が虎口(城の入口)に攻めてくるときに、それを防御するのが基本的な働きです。ここは、虎口というより馬出の上にある東曲輪を守っている感じがしました。また、他の曲輪と違って土塁が設けられていて、より防御性が高いことがうかがわれました。馬出というより出曲輪(大阪城の真田丸のような)という感じでした。

馬出ってなあに

 次に竪堀の規模ですが、市場城(豊田市)にくらべ、小さかったようです。なにより何本も並んでいなくて、1本単独でした。
 
竪堀を観察

 最後に、今川氏、徳川氏の改修の跡ですが、特に城の北端と西端に掘られた堀切の大きさが徳川氏を思わせるものではないかということになりました。

北端の堀切


山中城図、現地案内に加筆

山中城(愛知県岡崎市)見学会の案内

2021年04月24日 05時31分09秒 | 愛教労 城の会
三河にも山中城があります。岡崎市羽栗町にあります。
愛知県で最大級の山城です。
新葉が萌える連休前のひととき、ぜひ一緒に山城を満喫しましょう。

日時 4月24日(土)午後1時現地駐車場集合
場所 山中城駐車場(岡崎市羽栗町田中24)
資料代 100円


山中城とは
 山中城は国人領主の西郷氏(あるいは岡崎松平氏)によって築かれたそうです。その後、岡崎松平氏が岡崎城、明大寺城などとともに、この地域を支配しましたが、大永4年(1524)、安城松平の流れをくむ松平清康によって攻め落とされました。(実際に戦いの指揮をとったのは大久保忠茂らだそうです)天文17年(1548)松平清康が臣下の阿部正豊に殺害された守山崩れの後は、今川氏の拠点となりました。「医王山」と呼ばれました。永禄3年(1560)桶狭間の戦いで今川義元が討たれると、徳川家康によってふたたび松平家の城となりました。永禄7年(1564)家康の家臣酒井忠次が山中を領し、天正18年(1590)の関東移封によって廃城となりました。
この城は、北に鎌倉街道(旧東海道)、東に吉良道が走る交通の要衝にあります。西郷氏の頃の縄張りは、主郭、二の曲輪帯曲輪付近と想定され、今川氏がこれを大改修し、徳川氏が改修したことで、現在の大規模な山城となりました。その城域は東西400m、南北200mに及び、県下でも最大級の規模です。

菩提山城(6)西の曲輪 岐阜県不破郡

2021年04月24日 05時27分25秒 | 岐阜県
さらに西の曲輪に降りて先へ進んで行くと、高まりが見られました。

西の曲輪東端の高まり

また、西の曲輪の西側に大きな竪堀がありました。

西の曲輪西側の竪堀

西の曲輪の北側にも竪堀が延びていました。

西の曲輪北側の竪堀

この北側の竪堀の後ろに土塁状の遺構がありますが、その壁面に石垣のようなものが見られました。ここだけ石垣になっているのは不自然なので、おそらく自然の石だと思いますが、どっちかなと思いました。

土塁壁面の石

菩提山城は大変規模が大きく、見どころの多い山城でした。特に三の丸の西側の堀群は圧巻でした。登るのが急なので、ちょっと大変でしたが、大変さを忘れさせる城でした。

菩提山城 おしまい

菩提山城(5)本曲輪、二の曲輪 岐阜県不破郡

2021年04月23日 05時24分43秒 | 岐阜県
三の曲輪から戻り本曲輪に進みました。虎口は平虎口でした。

本曲輪虎口

主郭からも素晴らしい眺望が開けていました。

本曲輪からの眺望

さて、本曲輪と二の曲輪の間は大変複雑になっていて、図のようになっています。

本曲輪と二の曲輪の間(「岐阜の山城ベスト50」より引用、加筆)

本曲輪の南端に空堀があり、両サイドから出られるようになっています。東の出口から出ると、小さな曲輪があり、その曲輪の南端に土塁があり、その土塁の南側にはまた空堀があり、二の曲輪へと続いています。「岐阜の山城ベスト50」の中井均氏は東の出口と土塁に囲まれた小さな曲輪を馬出と評価しています。
本曲輪から西の出口を通ると、空堀と、土塁で囲まれた小さな曲輪があり、西側は虎口になっています。

二の曲輪と馬出の間の空堀


本曲輪と馬出の間の空堀

菩提山城 つづく