愛知の史跡めぐり

愛知県の史跡を巡り、その記録を掲載します。

加茂一揆(10)滝脇村

2017年11月06日 09時55分07秒 | 加茂一揆
次に滝脇町に行きました。

滝脇町(地理院地図より作成)

まず、問題の滝脇陣屋跡です。

滝陣屋跡

滝脇陣屋跡は、石垣の跡が竹藪の中に残っているだけでした。この石垣の上に昔は建物があったのでしょうか。たしかに小高い山裾に立地していて、滝脇の町が一望できる場所にありました。一揆衆が押しかけてくれば、当然見える場所だと思いました。

その横に長松院という曹洞宗のお寺がありました。

長松院

長松院は、案内板によれば、滝脇松平氏の墓所だそうです。滝脇松平氏は、松平宗家松平親忠の9男で長享元年(1487)滝脇城に封じられたそうです。しかし、弘治2年(1556)には、大給松平氏との戦いがあり、滝脇松平氏初代の松平乗清、2代目松平乗遠(のりとお)、乗遠の長男松平正乗(まさのり)が討死をしてしまったそうです。天正3年(1575)には、3代目松平乗高が復讐戦を行い、大給松平氏を一時尾張に追いやることに成功したそうです。
その後、4代目松平乗次が滝脇村に陣屋を構え、この地を治めたということです。

滝脇松平氏の墓碑

しかし、松平数馬についてはコメントがなく手掛かりは得られませんでした。

なお、この滝脇町は、豊田市と岡崎市の境目にあり、その境を郡界川が流れています。郡界川とはまさに加茂郡(北側)と額田郡(南側)を分ける川だったのです。

郡界川
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加茂一揆(9) 豊田市 乳子守(ちごもり)神社

2017年11月05日 07時37分16秒 | 加茂一揆
10月は大変な月でした。秋の長雨が10月にずれ込んで毎日雨ばかり降ると思ったら、台風21号、22号で土日がつぶれ、おまけに総選挙でぐちゃぐちゃでした。
ということで、ようやく30日は晴れ間が戻り、ちょっと寒かったですが、史跡めぐり日和になりました。

今日は加茂一揆関連で豊田市の松平地区、滝脇町、鍋田町に行きました。
まず鍋田町ですが、ここに乳子守(ちごもり)神社という神社があります。どうして乳子守神社に行くのかというと、松平数馬が寄進したという灯篭があるからです。松平数馬というのは、天保年間の旗本で、滝脇陣屋にいたようです。松平地区の紹介をしているパンフレットに次のような記事があるのを発見しました。

「境内の灯籠は、滝脇陣屋の領主松平数馬が天保12(1841)年に奉納したものである。」(鍋田自治区の紹介パンフレットより)

松平数馬は、「豊田市史」の資料「加茂一揆の過料銭」一覧表で、知行として、滝脇村、(西)大沼村、遊平村、鍋田村、曲村、羽明村、平折村、額田郡日影村、同丸塚村を有していました。一揆が発生した滝脇村は旗本松平数馬の知行所だったわけです。一揆は、滝脇村の石御堂に集結した後、滝脇村の庄屋宅を打ち壊しています。
当然その知らせは当地の陣屋である滝脇陣屋にも来ていたものと思われます。しかし、一揆が起こった段階では滝脇陣屋は何も動いていません。動いたのは岡崎藩領の須山村、仁木村、岩津村、大谷村等の庄屋たちです。彼らが岡崎藩に注進したことから、権力側の動きが始まったように「鴨の騒立」では記載されています。

一体どうして滝脇陣屋は動かなかったのか疑問です。

なにか手がかりがないかと思い、出かけることにしました。

松平地区の鍋田町、滝脇町の位置


乳子守神社の標識


松平数馬が寄進した灯篭

その灯篭がありました。確かに「松平数馬」という名と「天保12年」という年が刻まれていました。

灯篭の「松平…」の文字が画像からも確認できます。

灯篭の「天保12年…」の文字

ただこの灯篭で不思議だったのは、正面の紋が葵の紋ではなかったことです。さらに神社の名称が「児子森」となっていたことです。

灯篭に刻まれた家紋と神社名

調べましたら、多くの旗本は徳川宗家にはばかって葵の紋を使わず、この「丸に蔦」を用いたそうです。なので、松平数馬の家紋と言えそうです。

また神社の名称については、なぜ「児子森」が「乳子守」になったのかは分かりません。ただ、もともとは、鍋田住民が天文4(1535)年に白山の宮を勧請して「千子の宮」と称して安置したのが始まりといわれているそうです。安産の神様だそうです。(自治区紹介パンフレットより)

ということで、乳子守神社では滝脇陣屋が動かなかった手がかりはつかめませんでした。
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加茂一揆(8)岡崎藩の対応

2017年11月04日 10時51分14秒 | 加茂一揆
渡辺政香「鴨の騒立」第6回 注進と岡崎藩の対応

岡崎・吉田・赤坂・西尾・刈谷へ、その領地の村々より注進の事
 22日、岡崎領須山村より、これまでのことについて報告があったので、岡崎藩で出動の準備を整えた。22日午後1時頃、額田郡仁木村へ一番手の兵が出動した。
 他の説では、次のように言っている。9月22日、午前10時頃、岡崎の領内の仁木村へ一揆共の回状が村次で回っていた。よって、岩津村へそれを知らせ、仁木村の庄屋がそれを早々に岡崎の役所に御注進した。東の方では大谷(おおがや)村へ同様の回状が回っていたので、同村(大谷村)庄屋はその回状を預かって、早々に岡崎に御注進をした。その両村(仁木村と大谷村)に御先手同心30人ずつ遣わせた。もっとも一揆の頭取辰蔵に加担することが無いよう厳しく仰せ付けられたので、岡崎領では一人も徒党に加わるものはなかった。そして、隣村まで寄せてきて一揆勢が、家を毀していることが、出張した同心より注進があった。同日(9月22日)午後2時頃、御物頭(おんものがしら)(1)、郡奉行(こおりぶぎょう)(2)、郷目付、御代官、徒士頭(かちがしら)、御医師、御同心が出張した。

 一番   9月22日   御出張
      御物頭
         三宅理兵衛
          同心(3)30人
          張弓  10挺
          鉄砲  10挺
          陣幕陣太鼓
          陣小屋大筒
          鉄砲長持3棹
          具足長持3棹
          此外軍用道具
          役馬  10疋
          御旗手鎖(4)3棹
      同
          都築藤一郎
          組下御道具右同断(5)
      同
         岡田十左衛門
          組下御道具右同断
      郡奉行
         那須猪太夫
          同心20人
      大目付(6)
         柴田弥左衛門
          同心10人
      同
         緒方七郎
          同断
      同
         篠原与兵衛
          同断
      大官(7)
         椙浦黒右衛門
        〃志水三右エ門
        〃渡辺与五右衛門
        〃新延佐司馬
      医師
         満田古文
         徒士目付附頭
           4人
          早縄 1棹
一説には、22日に守衛に入ったのは物頭国府三之丞・河合三郎・新宮弥次兵衛・松下源太左衛門、用人構母太一・冬木新左衛門・清水氏・佐野氏、処々に手配りと聞いている。

注意書き
(1)御物頭 藩の軍制のひとつで、いわば部隊長
(2)郡奉行 幕府の勘定奉行に相当する民政上の役。同心をひきつれている。
(3)同心 江戸幕府で、所司代・諸奉行などに属し、与力(よりき)の下にあって庶務・警察事務を分掌した下級の役人。 (コトバンク)
(4)御旗手鎖 手鎖は、いわゆる手錠のこと。ここは、旗と手鎖の2つのことを言っているか。
(5)同断 前と同じであること
(6)大目付 藩の中枢で、御物頭や郡奉行らの監視役か。(ウィキペディア)
(7)大官 代官のことか。代官は、年貢の徴収を担当する役人。


いよいよ岡崎藩が動き出しました。きっかけは岡崎藩領の庄屋たちが注進したことからのようです。はじめに30人ほどを仁木村と大谷村に遣わし、状況を見て、一番出張ということで出陣をしました。今でいうと県警、機動隊の出動というところでしょうか。

それにしても、すごいです。一つの部隊で兵隊30人、弓10丁、鉄砲10丁、陣太鼓に大筒(大砲)さらに馬10匹です。これが3部隊出動したわけです。その他に奉行だの目付だの代官だのも兵隊を率いて出動しています。
一揆衆は滝脇村の襲撃時点で約400人ですから、かなりの規模の兵隊と武器を準備しています。一揆後の取り調べで辰蔵が、「岡崎様、挙母様、其の外御大名の歴々、張弓、鉄砲、火縄などそえて、仰山なお行烈。是まで見たこともござらぬ古の戦の体と存じられます。なんとまあ、鎌、鋤より外に持つこと知らぬ百姓ども、ご上意とあらば鎮まりそうなもの。あまり厳重すぎた御行烈と、憚りながら存じます。兼ねて承りまするに、農人は天下のお百姓とて、上にも御大切にお取り扱い、その百姓に怪我でもあらば、お気の毒と存じます。」と、堂々と述べていますが、まさにその通りの対応になっています。
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加茂一揆(7) 行動の開始

2017年10月07日 08時49分27秒 | 加茂一揆
渡辺政香「鴨の騒立」第5回 行動の開始

9月21日、夜7時ごろ、ほら貝の代わりに竹筒を吹き、時の声を告げた。その音に驚き、隣村の人々は出なければ家を打ち砕かれると恐れ、取るものもとりあえず、石御堂に集まった。人数は60人あまりになったらしい。その夜1時ごろより、竹筒を吹きながら、松平数馬様(1)御知行所である滝脇村庄屋へ8~9人が走って行って、
「申し次ぎの廻状はこちらに来ているか」
と聞いた。それを聞いて庄屋はぶるぶると震えだし、
「地頭(2)役人羽明村河合庄兵衛に聞いてから、ご返答させていただく」
といいながら、走っていってしまった。その後に滝脇村に来た一揆勢一同がときの声をあげたので、まもなく大勢駆けつけ、(3)庄屋の家を微塵に打ち砕き、すぐさま組頭の家2軒を打ち砕いた。この物音に近くの村の人たちが驚き、我も我もと駆けつけ、すで200人余りとなった。(4)
 22日午前5時ごろ、しばらく休息をしているところに、遊平(ゆだいら)村・柵沢(ませざわ)村・株木(かぶき)村(5)・長嶺村・外山村・須山村・柳村等の村からも人が集まり、400人余りとなった。

注意書き
(1)松平数馬 所領は六百石滝脇松平といわれ、古くからこの地に縁を持つ旗本。
(2)地頭 ここでは松平数馬のこと。つまり羽明村の河合庄兵衛は松平数馬の役人でもあったと言うことか。
(3)大勢駆けつけ どこら駆けつけて来たのか不明。近隣の村々か。
(4)最初60人ぐらい、次に滝脇村の庄屋の家の打毀しを終わった段階で200人余りへと人数が増えている。そして翌22日には400人となっている。人数の揃え方として一気に何千人もの人を集めたのではなく、人を集めながら村々を回っていくという感じである。また、この段階で人々が打ち壊しのために、どんな「道具」を持っていたかは明らかではない。
(5)株木村 蕪木(かぶらき)であろう。(高橋校注)


 石御堂に集まり、いよいよ行動開始です。最初は60人ほどでした。これでは少ないと思ったのか、まずはじめに、石御堂のある滝脇村の庄屋を訪ねました。というより結果的には庄屋を襲いました。滝脇村は、当時松平数馬という旗本の領地だったようです。庄屋は、人を出すと言えば、一揆に手を貸したことになって、あとでお咎めを食うし、人を出さないと言えば、一揆勢に責められる、苦肉の策として、「役人に聞いてから」と答えました。
 しかし、それは今すぐにでも人数を増やしたい一揆勢にとっては、「人を出さない」と同じ意味だったと思います。また、役人に知れれば、すぐに鎮圧隊がやってくることも予想されたので、そんなことは一揆勢にとって了承できるはずもありません。廻状の趣に沿って、庄屋宅は打ち壊しの対象になってしまいました。
 そして、庄屋宅、組頭宅の打ち壊しを目の当たりに見た近隣の百姓たちは、自分の家も壊されるとの思いから、一揆に加勢していきました。しかし、恐怖心からだけではないと思います。生活の困窮、困窮の原因となっている酒屋、高利貸し等への怒りが根底にあったためと思われます。

滝脇町 石御堂
当時は、今より若干下の旧道沿いにあったらしいです。(「豊田市史」)

愛知県図書館のホームページを検索したところ、明治2年頃の三河の村の絵図が公開されていました。この絵図を見ると、当時の村の所在がだいたいですが分かりますので、ぜひ参照してみてください。

愛知県図書館HP>左側のバーナー「愛知県図書館所蔵 絵図の世界」>右側の「旧藩(旧県)管轄絵図(支配所絵図) 三河国全図>絵図を見る 高精細

三河国全図

愛知県図書館に問い合わせましたが、学術目的はコピーできるが、営利目的あるいは趣味では、できないとのことでしたので、リンクを貼らせていただきました。

このごろ、加茂一揆の記事が多くなっています。そこで、加茂一揆を一つのカテゴリーにします。
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加茂一揆(6)不承知なら家々残らず打ち壊す

2017年10月03日 14時47分12秒 | 加茂一揆
石亀坂では具体的に一揆の人数集めのために、各村々にお触れを出すことになりました。

渡辺政香「鴨の騒立」第4回 口上の趣

まず相談の一番頭は、加茂郡下河内村辰蔵、二番川向善四郎・川田の千蔵(1)・文六・椿木伊助・矢並次兵衛兄弟・林添藤兵衛・同じく佐平・松平村隆蔵・同近藤勇・菅沼村繁蔵兄弟・大津大吉・茅原村・七売村・大田村者集まり、廿人ばかりになった。村々へ言い継ぎ、申し送った。(2)
 
口上の趣
 このたび8月の大風にて麦や米の値段が高騰した。大豆・小豆の類、また稗なども1升が52~3文となっているらしい。他国のことは分からないが、国中一統(3)難渋しているので、露命(4)もつなぐことが難しい。そこで、今日1000余人が相談するために、石御堂に集まってきてほしい。15歳以上60歳以下の男子はとりあえず来ていただき、帳面に名前を書くこと。もし不承知であるという村には、1000人が押し寄せ、家々残らず打ち崩すことになる。もし、遅れて来た村があれば、真っ先に庄屋を打ち崩すことになる。以上を申し次ぎ、言い送った。(5)
 一説に言うには、下河内村辰蔵・七売村次兵衛の両人は、諸方へ村順に廻状を送り、徒党することに同意するべきであるという旨を残らず触れ回り、承知するかしないかを記録し、その村の庄屋の連印(6)を取った。もし不承諾の村方は家を壊し家財を打ち砕くとの趣に村方(7)は驚き、さして抵抗もなく同意・連印したので、人数は増え、100ヶ村余りが徒党に加わったらしい。(8)

注意書き
(1)先に千吉は九久平村とあるので、ここの千蔵(川田)は千吉とは別人と考えられる。
(2)「鴨の騒立」では、石亀坂に集まった村は、下河内村、川向、川田村、椿木村、矢並村、林添村、松平村、菅沼村、大津村、茅原村、七売村、大田村の11か村としている。ほぼ割木騒動で蜂起した村と重なっている。なお、豊田市史では、九久平、松平、下河内、林添、大給、七売、北川向、南川向、切二木の9か村の19名としている。前回の地図では、豊田市史の記述を採用した。
(3)一統 おしなべて、いちように
(4)露命 露のようにはかない命
(5)この言い継ぎ状は、村役人宛に出されているそうである。(高橋校注)
(6)連印 連判に同じ。1枚の紙に名前を列記し、押印すること。
(7)村方 村方三役の略。江戸時代の村役人で、名主(なぬし)(庄屋(しょうや))、組頭(くみがしら)(年寄(としより)、長百姓(おとなびゃくしょう))、百姓代(ひゃくしょうだい)をいう(ネット『コトバンク』)
(8)当初呼びかけの対象となった村は73か村であったが、「科書」によると参加者を出した村は加茂郡だけで239か村、他に額田郡が若干。(高橋校注)


人数を集める理由は、目標である酒屋、高利貸しなどへの圧力で、買い占め、物価騰貴の起こしている張本人である彼らに、人数で圧力をかけ、米価の値下げ、物価の値下げに応じさせるためと考えられます。
次に伝達手段ですが、辰蔵および次兵衛廻状が廻状を回したとあります。ということは、この二人は字の読み書きができたということ、また廻状の宛先が村方三役であることは、辰蔵、次兵衛が自分の村でそれなりの地位に居たことが窺われます。そうでなかったら、一揆の頭取に推挙されることはなかったとも言えます。
そして、一揆への参加は、個々人の意思だけでなく、村全体の意思として、村ぐるみで行われたことが窺えます。
また、文面を見ると、かなりの強制・恫喝が感じられます。『不承知であれば、家を残らず打ち壊す、遅れてくれば、庄屋の家を打ち壊す』。ことを起こせば、当然、藩役人に通報されたり、無視され参加しない村があることが予想され、一揆が失敗に終わる可能性があります。失敗すれば、当然処罰されます。そうなると、辰蔵ら頭取らにとっては、一揆を必ず成功させなければ自分の命に関わることになります。したがって、こうした恫喝や強制は不可欠であったと思います。


石亀坂 googleの地図に「石亀」という地名が残っていました。「豊田市史」では松平の柳助宅に集合する雰囲気になっていたところ、柳助が拒否したので、茅原村の地内にある石亀坂に移動したとありました。地図上の石亀というあたりではないかと探してみました。


石亀坂中腹の平たい土地
大田町、「茅原村」(現在は地名としてはありません)の方から松平に抜ける細い道がありました。登っていきますと、峠より少し松平寄りに平たい土地がありました。今資材置き場になっていました。もしかしたら、このあたりで集会が持たれていたのかも知れないと思いました。

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