愛知の史跡めぐり

愛知県の史跡を巡り、その記録を掲載します。

久保山砦 小牧市

2019年05月23日 06時07分34秒 | 小牧市
そして3つ目は久保山砦です。ここは、蜂屋頼隆と金森長近が守ったそうです。この合戦で秀吉が自らこの砦から全軍を指揮したこともあったそうです。それでこの砦を「太閤山」とも呼ぶそうです。

久保山砦は、岩崎山砦と小松寺砦の中間にあり、どちらの砦もよく見える位置にあります。

久保山砦から見た岩崎山砦

岩崎山砦も現状は熊野神社でした。

久保山砦跡の熊野神社

この神社の後ろに曲輪の跡が広がっていました。ずっと歩いて、東の方に行くと「おやっ」土塁の跡らしきものが見つかりました。でも、どうでしょ、土塁が残っているという話は聞いていないので、たぶん違うと思いますが、一応画像を載せます。

土塁の跡らしきもの

ということで、小牧長久手の戦いの一部を見ることができました。戦いは広い地域で行われていました。ほかの地域も見に行きたいと考えています。
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小松寺砦 小牧市

2019年05月22日 05時24分25秒 | 小牧市
小松寺砦
2つ目の砦は、小松寺砦です。ここには、丹羽長秀、三好秀次(後の関白豊臣秀次)が守っていたそうです。三好秀次は、この後、三河中入り作戦(小牧に籠っている家康の本拠地である岡崎を奇襲するという豊臣側の作戦)で総大将となりましたが、失敗してしまいます。小松寺砦も戦が終わった後廃城になりました。


小松寺
この石の標識の後ろに小松寺というお寺があると思います。私は、すぐに高いところに行ってしまったので、確認できていません。

高いところから見ると小牧山城がやはりはっきりと見ることができました。

小松寺砦から小牧山を見る

しかし、小松寺砦の現状はお墓でした。

小松寺砦の現状
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岩崎山砦 小牧市

2019年05月21日 18時28分03秒 | 小牧市
しばらく三河の山城が続いていましたので、尾張の方も行って見ました。小牧長久手の戦いでの砦です。この戦いは、豊臣秀吉と徳川家康が直接戦った戦で、あまり取り上げられませんが、結構大きな戦いだったのです。
今回訪ねたのは、小牧山城にたてこもる家康に対してそれに対峙するように秀吉が築いた砦群の一部です。
岩崎山砦、小松寺砦、久保山砦の3つを見学しました。

3つの砦と小牧山城(Yahoo地図より作成しました)
左下に小牧城があります。家康が籠った城です。その北東に3つの砦があります。

岩崎山砦
この砦を守っていたのは、稲葉一鉄父子と四千の兵だったそうです。実際に家康との戦いがあったかどうかは分かりませんが、秀吉と織田信雄が講和した後に廃城となったそうです。

住宅の間より見える岩崎山

現在の岩崎山には、観音堂というお寺と熊野神社があります。

熊野神社

この砦から小牧山城が手に取るように見ることができました。

岩崎山から見た小牧山

さて、この岩崎山で注目すべきは、岩でした。この山の岩は名古屋城築城の際使われたそうです。ネットの情報では、信長の小牧山城の築城の際にもここの岩が使われたそうです。

名古屋城築城で使用されたことを示す小牧市の案内板


名古屋城築城の際の残石で作られた石垣 上は公園です。

この山は花崗岩の山地で、地表に突出しているそうです。画像のような奇岩もあるそうです。

奇岩 五枚岩

また、岩を切り取った証拠の矢穴も残っているそうです。

矢穴の跡

話は横道にそれてしまいましたが、ここが石垣の製造に欠かせない場所であることを初めて知りました。
愛教労 城の会 6月22日 市場城めぐり
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大野城の竪堀 福井県

2019年05月19日 10時56分03秒 | 福井県
福井から「大野城で竪堀が見つかったから、見に来ないか」というお誘いがありました。お誘いをしていただいた方の話によれば、「天正年間につくられたと言われていた丸岡城が実は寛永年間のものだったということが大きな話題になった。そこで、大野城などももう一度見直してみることが大事だと思う。新しい発見があるかもしれない。そういう目で見てみたところ、大野城の斜面に竪堀があった。」
ということです。

大野城の竪堀 手書きで「竪堀①~⑤」とあるのが竪堀の位置です。現地見学会資料

こうした竪堀は、特に彦根城でも見られ、彦根城では、この竪堀とセットになっている登り石垣が有名です。竪堀の技術は朝鮮出兵の後に見られるそうです。

竪堀① 上から撮影。右側に竪土塁がみられ、堀を掘った土を盛ったものと思われます。

このほかの竪堀も見て回りましたが、時は5月草や木の葉などが茂っていて、確認できませんでした。3月ごろまでが良く見えるということでした。

10人ほどの方が一緒に回っていましたが、途中でいろんな話に花が咲き、「ここは亀山というが、本当は亥(い)山だったのではないか」「亥山には土豪がいたという記録があるが、現在の亥山城では小さすぎる気がする」「亀山という地名が金森長近以前の文献に出てこない」などと盛り上がりました。結論的には、この地は金森長近以前にも山城があったのではないか、亀山ではなく亥山と呼ばれていたのではないかという風になりました。

現地の城の会「小山荘城の会」の皆さんは何度も遺構を足で確認されている方たちですので、話も一つ一つ納得できるものでした。

大野城天守閣

初めて大野城を訪れたときの記録 越前大野城 福井県大野市

愛教労 城の会 6月22日 市場城めぐり
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馬呂遺構 新城市

2019年05月03日 05時44分28秒 | 新城市
馬呂というのは、このあたりの地名のようです。小馬呂、大バロといった地名がGoogle地図に出てきました。亀山城の南東部の林の中です。

亀山城の近くに「武家屋敷址」という標識がありました。

「武家屋敷址」標識

このあたりを歩いてみましたが、武家屋敷跡にありそうな、土塁や堀の跡はありませんでした。そこで、林の中を進み、「大バロ」という地名の場所に行きました。

すると、小さな登山道の左右に土塁を巡らせた遺構がありました。

土塁の遺構

土塁は四角くまわっていて、ちょうど屋敷の形のように見えました。不思議だったのは、その内側に溝があったということです。溝(または堀)は、土塁を造るときに掘りますが、基本的に曲輪の外に堀を巡らせます。しかし、内側に溝みたいに掘ってあるということは、この溝は土塁を造る際に掘った跡だと思いますが、堀としてではなく、道として活用していたのではないか、とふと思いました。屋敷内の通路として、また一つの区画に屋敷が複数あれば、それらの屋敷への通路として溝を使っていたのではないか、と思いました。

また、奥の山との境界に切れ目が入れてありました。

山と屋敷の境目

ということで「馬呂遺構」は土塁の跡からして亀山城に詰めていた家臣の屋敷の跡ではないかと思いました。

ネットでは「詳細不詳」とのことでした。新城市で調べてくれることを期待しています。

愛教労 城の会 6月22日 市場城めぐり
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