愛知の史跡めぐり

愛知県の史跡を巡り、その記録を掲載します。

御園(みその)砦(4) 東栄町

2018年05月31日 14時08分29秒 | 東栄町
東郭
「日本城郭体系9」では、この砦は本郭と東郭の連郭曲輪であると書いてありました。また、その境には堀切があるとも書いてありましたので、注意深く下山することにしました。すると、本郭を掘りてしばらく歩いたところに堀切らしきくぼんだ地形を発見しました。

堀切らしき窪んだ地形

ただし、この窪みは、急斜面である南側で見つけたもので、対面である北側にはそれらしい跡は見当たりませんでした。尾根を挟んで北側と南側では北側の方が緩やかな斜面になっているので、堀切を作る意味としては、北側に作るべきだと思いました。それが見つからないということは、堀切でない可能性もあります。

また、「日本城郭体系9」では、東郭には人間の頭大の石がたくさんあると書かれていました。

東郭の石

確かにたくさんの石がありました。中には、横溝が数本入った変わった石もありました。

東郭の変わった石

見張り台の堀切?
そして本郭から三つ目の盛り上がりを過ぎたあたりに、もう一つ堀切らしきものを見つけました。

堀切らしき地形

三つ目の盛り上がりからは、木さえなければ結構眺望があったので、ここが見張り台の役割を果たしていたのかもしれないと思いました。

ということで御園砦は無線中継所の塔と建物が建てられたため、遺構はほとんど見当たりませんでした。

「日本城郭体系9」を参考に御園砦をまとめると図のようになると思います。

御園砦のイメージ図

この無線塔がいつできて、城の遺構がそれまでにどの程度残っていたかをぜひ調べてみたいと思いました。

おしまい

御園(みその)砦(3) 東栄町

2018年05月30日 20時39分08秒 | 東栄町
御園富士頂上(御園砦本丸)
先ほどの笹に覆われた道を進んでいき、あとは尾根沿いに歩いていきますと、アップダウンがありながらもようやく「御園砦」につきました。砦は、今は無線中継所となり、高い塔と建物になっていました。

「御園砦」にあった無線中継所局舎(この建物の後ろが1mほど盛り上がっていて、そこに塔が設置されていました。

おそらくここが本丸であろうと思われます。周囲をぐるぐると見まわしてみましたら、石垣に使われたような石がゴロゴロ落ちていました。特に、南側にたくさんありました。

無線中継所の周りにあった石

お城で使われていた石なのか、なにかさっぱりわかりませんが、石垣の残骸だとなんかうれしいと思いました。

また、本丸跡の先端を見下ろすと腰曲輪のような地形がありました。降りてみたかったのですが、かなり急な斜面になっていましたので、やめることにしました。(斜面は、切岸なのかもしれません)

腰曲輪のような地形

土塁などは全く痕跡がありませんでした。ここで、昼食をとり、下山することにしました。

つづく

御園(みその)砦(2) 東栄町

2018年05月29日 18時21分34秒 | 東栄町
望月峠
問題は次の望月峠です。山道をフーフー言いながら、登っていきますとやがて望月峠に出ます。ここは、道がいくつにも交差していて、どの道を行けば、御園富士に出るのかさっぱりわかりませんでした。うろうろと周りを歩いているうちにやっと、「神野山」という倒れて、寝かされている標識(道案内版)を見つけました。しかし、その道は、笹で覆われていて、周りの開けた車が通れる道とは明らかに異なり、まったく目立たないところにありました。

望月峠付近


望月峠付近の道の様子


神野山・御園富士への道しるべ

望月右近太夫義勝公の祠
望月右近太夫義勝公の祠へ行く道もやっと見つけ、参拝することができました。

望月右近太夫義勝公の祠

望月右近太夫義勝とは、武田の武将で、長篠の戦で敗れた後、ここまで落ち延びて、落人狩りに合い、自害したそうです。
(ネット「東三河を歩こう」より)

つづく

御園(みその)砦(1) 東栄町

2018年05月28日 11時39分23秒 | 東栄町
久ぶりの投稿です。
なんかいろいろありまして、城めぐりをしている時間がありませんでした。やっと今日(5月27日)山に登ることができました。場所は、東栄町です。最近、別所城に行った町です。
「日本城郭体系9」によれば、標高910m、比高200mの山の頂上にあります。

御園砦の位置1(愛知県の中の御園砦、東三河のさらに東です)Yahoo地図より


御園砦の位置2(西の方に神野山があります。御園砦(御園富士)を経由して神野山に登るのがハイキングのコースのようです。)地理院地図より

御園砦を保持していた奥山氏
奥山大善亮吉兼という武将がおさめていた城です。居住していたのは、ふもとの屋敷です。御園砦は、戦の時の詰めの城のようです。奥山氏は、元亀2年(1571)の武田軍西上の時には、攻められて結局武田氏に属するようになり、天正3年(1575)の長篠の戦の後には、徳川氏に属するようになりました。(「日本城郭体系9」より)
この時代東三河は、今川氏、武田氏、そして徳川氏の間で翻弄される武将が多かったようです。

御園砦へ
登山の出発点は、熊野神社です。カーナビを使っていますが、そこまでは、割と順調にいくことができました。そこから先は、ネット「トレッキング愛知 豊橋自然歩道&三河の山・尾張の山」の「御園富士・神野山」を参考にさせていただきました。ありがとうございました。逆に言うと、山城関係の検索では、詳しい行き方などがヒットしなかったということです。

熊野神社の「駐車場」正面に何か建物がありましたが、確認するのを忘れました。しばらくと言ってもほんの2~3分ですが、望月峠の案内標識がありました。


「望月峠」への案内板

つづく

東谷山古墳群(2) 名古屋市守山区

2018年05月01日 17時30分11秒 | 名古屋市守山区
尾張戸神社古墳
中社古墳をさらに登っていきますと、やっと頂上にたどり着きます。頂上は尾張戸(おわりべ)神社になっていました。

尾張戸神社本殿

ここも古墳です。
現地案内板では、
尾張戸神社古墳は4世紀前半に築かれた径約27.5mの円墳です。名古屋市でも最も高い東谷山(標高198.3m)の山頂に立地します。墳丘上には、古代豪族尾張氏の祖先神を祀る尾張戸神社の本殿が位置します。2段に築かれていたと考えられますが、2段目の墳丘は大きく削られています。墳丘の斜面に積み上げられた角礫の葺石の上には石英が撒かれていました。多くの石英を用いて古墳を飾る特徴は山麓の前方後円墳・白鳥塚古墳と共通し、白鳥塚古墳に葬られた庄内川流域の首長を支えた有力者の墓と考えられます。

山頂尾張戸神社からの眺望 多分東の方が見えているのだと思いますが、どこだかよく分かりませんでした。

付け足しです
今朝(2018年4月30日)の中日新聞に、尾張戸神社でイベントがあったことが記載されていました。ちょうど登山した日の午前中にそのイベントがあったようです。私たちが登る前に下りてきた人たちに食堂でお話をお伺いすることができました。

尾張戸神社のイベントを伝える中日新聞

東谷山古墳群 おしまい