愛知の史跡めぐり

愛知県の史跡を巡り、その記録を掲載します。

松平城山城見学再挑戦

2023年07月16日 11時36分10秒 | 豊田市
久しぶりの投稿です。
元気にしております。
さて、先日5月7日に予定していた豊田市松平城山城の見学会は雨天のため中止となりました。
そこで、9月にもう一度挑戦したいと思います。

松平城山城見学会
月日 9月17日(日)
集合 豊田市歌石駐車場・そのまんま公園駐車場(豊田市豊松町榎ヶ入歌石)

興味のある方はぜひ参加してください。

田代城 豊田市(下山地区)

2021年02月17日 11時47分13秒 | 豊田市
「日本城郭体系」9を読んでいましたら、まだ行っていない田代城がありました。所在地は額田郡です。ネットで田代城を調べると、豊田市下山地区の田代城が出てきました。比べると、豊田市の方に遺構がよく残っていそうなので、豊田市の田代城に行くことにしました。


田代城全景

この城の詳しい情報は、あまり分かっていないようなので、現地案内板の文を掲載します。

現地案内板

田代城跡
所在地 下山村大字田代字入北切
遺構 曲輪、土塁、堀切
規模 総面積 約3740㎡、東西約170m、南北約60m

田代城は、通称「京ヶ峰」と呼ぶ山の西麓にあって、近くの大沼城とともに足助七城のひとつに数えられていました。
 遺構は、本曲輪・曲輪・堀切などが、山の斜面に沿って階段状に分布していますが、古い田代城城絵図によると、これらは居館跡で、戦時の拠点は京ヶ峰の山頂にあったことがわかります。また、居館の南西300mの尾根の先端には、出曲輪の跡があります。
 城の歴史に関する詳細は不明ですが、「三河国二葉松」には、城主として森外記、松平主税或甚五左衛門の名が挙げられています。
 この田代城も、大沼城と同様に天正2年4月(1574)(元亀2年(1571)とする説もある)、甲斐の武田軍に攻め落とされました。
 また、それ以前の天文・永禄年間(1550年ごろ)のこととして、「東照軍艦」には、駿河の今川氏が、竹千代(家康)などを田代城へ出兵させ、松平道久を攻め降したことが記されています。
 なお、付近には「お城下」「お屋敷」など、田代城に関連のある地名が今も残っています。
平成4年12月26日 下山村教育委員会


田代城の案内板から現地まで、道案内の標識があり、迷わずに城まで行くことができました。


田代城イメージ図

さて、現地に行くと、先ず立派な堀切が目に飛び込んできました。イメージ図の中央部の堀切です。

一番西の堀切
人の身長より深く、2mぐらいの深さがあったと思われます。

これはすごいと思って、堀切を降りてさらに奥の方に行くと、二つ目の堀切がありました。イメージ図の真ん中の堀切です。

真ん中の堀切

さらに奥に行くと、3つ目の堀切がありました。

3つ目の堀切
大変見ごたえのある堀切でした。堀切の間はおそらく曲輪で、一番西の曲輪には土塁のような跡も見受けられました。

この田代城には、東に300mほど行くと出曲輪の跡があります。出曲輪は、東側に土塁の跡が残っていました。

東側の土塁跡

市場古(いちばふる)城 豊田市

2019年06月13日 15時30分58秒 | 豊田市
6月22日(土)市場城を見学する予定でいます。そこで、市場城について調べていると市場古城という城があることが分かりました。市場城のすぐ東隣です。現在の本城小学校の手前の山になります。

市場古城の位置

市場古城とは、足助鈴木氏から小原の方に移ってきた鈴木藤五郎親信が最初に築いたお城のようです。応永年間(1394~1428)からのようです。しかし、親信は文亀2年(1502)に西に市場城を築き、そこに移りました。この城は廃城にすることなく使われていたそうです。

さて、市場古城は本城小学校の北東です。そこには、熊野神社がありました。

熊野神社の鳥居

熊野神社の敷地も市場古城の城域だそうです。熊野神社は平らな土地が3段になっていました。それぞれ昔の曲輪だったのかもしれません。一番上の平らな土地に社があり、社の両脇は土塁状になっていました。

土塁状の遺構

社のある平坦地をさらに奥に進むと小高い土塁状の遺構がありました。

土塁状の遺構

この土塁状の遺構から西の方に曲輪が広がっていました。主郭と思われます。

主郭の様子

そしてこの主郭の突き当りに大きな堀切がありました。

大きな堀切

市場古城は熊野神社部分とその奥の部分との2つの部分からなっていました。奥の部分は、両端を堀切で守られ、いかにも山城という印象を受けました。

愛知県中世城館跡調査報告で高田徹氏は、「市場古城は、大土塁や面積の広い曲輪に比して、虎口や土塁・堀の発達などは見られず、やや古い時期の城館の感が強い。このような城館が伝承通り、文亀・長禄以前に築かれたとすると、初期の鈴木氏の性格(例えば荘官等)や城館自体の役割(例えば荘園政所)などを考えるうえでも重要な存在といえる。」と述べています。

山城の多くは戦国期のものですが、たくさんある遺構の中には、市場古城のように戦国期以前の歴史を伝えるものも存在するということです。そういえば、松平の松平城(郷式城)も松平氏の初代親氏が築いたという伝承がありました。そういう目で山城をもう一度見ることも必要だなあと感じました。

井ノ口城 豊田市

2019年04月25日 09時03分45秒 | 豊田市
黍生山から下りたら、次は井ノ口城です。井ノ口城というのは、「信長公記」で斉藤道三の居城として登場しますが、それではありません。
井ノ口城は、黍生城の南にあります。しかし、標高は150mで比高は20mです。ほとんど平地にあります。

井ノ口城の位置(地理院地図より作成)

井ノ口城は、「参河国二葉松」では「戸田右衛門尉忠勝」とあり、「日本城郭体系9」では「鈴木重政の築城」とあります。戸田右衛門とは田原城のあの戸田氏と関係があるのでしょうか。また鈴木重政という武将は、足助鈴木氏の2代目の人です。足助鈴木氏は真弓山城を本城としていましたので、この井ノ口城は支城としての役割があったのでしょう。

黍生城を登った道で降り、そこから井ノ口町の方へ歩いていきました。約2kmです。30分ほど歩いて、ようやく井ノ口城につきました。

井ノ口城全景(東から撮影)


井ノ口城イメージ

井ノ口城は竹と藪で覆われていて、なかなか大変でした。

登り口は西曲輪の北の方からでした。ここは、大きな堀切になっていました。

西曲輪と東曲輪の間の堀切

これは大変見ごたえがありました。この曲輪を横断する堀切は、昔長野で見た「三日市場城」を思い出しました。その時に案内の方が言われた「どうして曲輪を二つに仕切るように大きな堀切や土塁があるのでしょうか」と見学者に投げかけた問いを思い出しました。

また西曲輪は、草が刈ってあったので、見事な切岸もみることができました。

西曲輪の切岸

東曲輪(北側)

これは東の曲輪を写したものですが、藪がひどくて詳しい状況が分かりませんでした。東曲輪は全体が藪と竹やぶで覆われていて、よく分からなかったので、残念でした。

井ノ口城は、里にできており、戦の時の砦というより居城という感じがしました。しかも結構大きかったので、藪で覆われていたことがとても残念でした。

愛教労 城の会 6月22日 市場城めぐり


黍生城(3) 豊田市

2019年04月24日 06時57分13秒 | 豊田市
この曲輪の南西に腰曲輪がありました。

南西部腰曲輪

また南東部にも腰曲輪がありました。

南東部腰曲輪

堀切が3つありました。

主郭北東部の堀切


腰曲輪と堀切(現地案内図より)

南側に竪堀のようなものが図に書き込まれていましたが、確認できませんでした。

黍生山は足助ばかりでなく石野、猿投などの地域を見渡せる山で、戦略的に大変重要な山であることが分かりました。

黍生城 おしまい

愛教労 城の会 6月22日 市場城めぐり