愛知の史跡めぐり

愛知県の史跡を巡り、その記録を掲載します。

松平記(6) 松平記

2021年12月27日 11時45分28秒 | 松平記

松平記p6

翻刻
川殿へ御申何とそお力を添て廣忠を岡崎へ御移し被成
候様くれ〱れ御申候。頓而東條殿御果被成候。とにかくに
廣忠御仕合あしき事申計なし。
一 吉良西條殿ハ尾州織田殿と御一味有、駿河遠江ハ今川殿
御支配有、清康も今川殿と一味の〇なれハ廣忠も駿河へ
御下向有。石川殿を御頼御被成、今川殿へ御出仕有。今川殿ハ
東條殿被仰置筋目又清康御一味の〇なれハ何とそ岡崎
へ返し可申候との儀也。駿河衆吉良へはたらく。荒川甲斐
守殿ハ吉良殿御一族なれとも是ハ駿河方を被成合戦也
吉良殿一人爰にて御討死被成候之間、力なく吉良殿東西

現代語
(吉良東條殿は今川殿に)「なにとぞ力を貸していただき、松平廣忠を岡崎へ移してくださるよう何度も頼んでくれた。東城吉良殿はまもなく亡くなられた。いずれにせよ松平廣忠は運が悪いこと、申すまでもない。
一 吉良西條殿は尾州織田殿と仲間になっている。駿河遠江は今川殿が支配している。松平清康も今川殿の仲間なので、廣忠も駿河に向かわれた。石川殿を頼って今川殿に出仕した。今川殿は東城殿に言われていたことや、また清康の跡目であることから廣忠を岡崎に返すべきであるとの事であった。駿河衆が吉良を攻めた。荒川甲斐守殿は吉良殿の一族ではあるが、駿河方について合戦なされた。吉良殿は一人ここにおいて討死なされたので、吉良殿は東西とも(今川殿に降参なされた)

コメント
東城吉良殿とは、吉良持廣のことです。次の章で吉良西條殿というのが出ます。吉良氏は、足利幕府の中では、名門で幕政に深く関与していたようです。特に足利尊氏と足利直義を中心に争われた観応の擾乱では、吉良氏は直義派として戦いに参戦し、全国を転戦したようです。しかし、戦況思わしくなく終には足利尊氏に降参しました。一方で東条城では、先代の当主が東北に移ってしまい、家臣たちは新しく吉良満義の子尊義を擁立して東城吉良氏を立てました。一時は和解しましたが、西條の吉良氏と東條の吉良氏はその後対立抗争を続け、次第に勢力を後退させていったと言います。
西條吉良家 ①満貞②俊氏③義尚④義真⑤義信⑥義尭⑦義郷⑧義昭
東城吉良氏 ①尊義②朝氏③持長④持助⑤義藤⑥持清⑦持廣⑧義安
「松平記」で松平廣忠に目をかけて世話をしたのは、東城吉良家7代当主吉良持廣です。ただ、松平廣忠は「石川殿」を頼って駿河に行ったのですが、この石川殿が誰なのか、分かりません。
また、今川義元が吉良を攻めています。吉良とは、織田と仲間になっているという西條吉良氏だと思います。吉良持廣の弟の荒川義広は、このとき今川と一緒になって吉良を攻めているようです。そして吉良殿は討死をしたと言います。この吉良殿も誰なのか分かりません。おそらく6代の義尭か7代の義郷ではないかと思われます。今川氏は吉良氏よりも家格は下になります。しかし、今川氏が吉良氏を圧倒した「下剋上」の一つでもあるということです。
さらに、「松平記」の認識が今川と清康が仲間だということも不思議です。清康は東三河を攻めていましたが、当然今川にとっては都合の悪いことです。対織田信秀ということで、「同盟」関係を作っていたのでしょうか。いつから今川と清康が「同盟」関係になったのか調べたいです。

三の山赤塚古戦場 名古屋市緑区

2021年12月26日 07時06分40秒 | 名古屋市緑区
赤塚はどこか
「信長公記」首巻に書かれている「三の山赤塚合戦の事」。信長の父織田信秀の時代から続く今川氏と織田氏の抗争。織田信秀が病気で亡くなると、織田の形勢不利と見たのか、家臣の鳴海城主山口左馬助教継、子息九郎二郎教吉が謀反を起こします。そして、鳴海城のほか、笠寺に砦を築き、中村にも城を造りました。
そこで、織田信長はこれを討つべく「中根村をかけ通り小鳴海へ移られ、三の山へ御あがり」陣を構えました。一方鳴海城の山口九郎二郎教吉は、「三の山の十五町東、なるみより北、赤塚の郷へは、なるみより十五、六町あり。(中略)赤塚へかけ出し候。先手あし軽、清水又十郎、(中略)是れらを先として、赤塚へ移り候。」信長は、「三の山より此のよしを御覧じ、則ちあか塚へ御人数よせられ候。」とあります。赤塚とはどこなのでしょうか。

赤塚の戦いの図(地理院地図より)

(1)「信長公記」の通り三の山、鳴海城からそれぞれ1.5km離れた場所を探すとちょうど緑高校の辺りになります。いくら何でも両方の陣から遠すぎますし、赤塚という地名も残っていません。(地図の①)
(2)では、赤塚という地名はどこに残っているかといえば、現在は新海池のすぐ西にあります。新海池は1634年に造られたそうなので(ウィキペディア)、新海池の辺りは土地が低いところだったのかも知れません。しかし、この場所は、「信長公記」の言う赤塚とは違っています。それに、やはり両陣営がわざわざ東の方に戦闘場所を移動させています。やや不自然です。(地図の②)

現在の赤塚の地に残る赤塚古墳(ネットではこの辺りが赤塚古戦場としています)

(3)これは偶然ですが、「天保の村絵図緑区域解読版」というのを購入したのを思い出し、天保の頃の緑区の村の様子を見ると、ちょうど成海神社の北隣に「赤塚」という地名が書かれています。

天保村絵図での「赤塚」の位置

現在は「三高根」(さんたかね)という地名です。ここだと三の山からも鳴海城からも割と直線的に来ることができます。ただ、現地に行ってみると結構高台になっています。「三高根」は「三太ヶ根」で三太の尾根という意味だそうです。しかし、「三高根」の高台は狭く、西の方は低くなっています。その辺が戦いの地ではないでしょうか。

現在の三高根の様子(画像の奥、右が高くなっています。撮影している地点から後ろは低くなっていきます)

これを地理院地図の陰影起伏図で表すと以下のようになります。三の山は海抜36.1mで、そこから鳴海城が見えたものと思います。また、信長は山口九郎二郎教吉が赤塚に移動したのを見ていたと言います。したがって赤塚は三の山より低い土地になります。おそらく成海神社の北西から西にかけて戦場になったと推測されます。

陰影起伏図(地理院地図より)

三の山

三の山の入口(狐がお出迎えです)


三の山から西北を見る(名古屋駅の高層ビル群が見えました)


三の山から南を見る(遠くに低く見えるのは大高緑地、写真ではただの地平線ですが。)

東と北は木が茂っていて現在は眺望がよくありませんが、おそらく当時はよく見えて、鳴海城や赤塚の様子が信長から手に取るように見えたのだと思います。

大脇城 豊明市

2021年12月15日 06時46分22秒 | 豊明市

大脇城石碑(豊明市栄町梶田)

豊明市史(桶狭間特集)を読んでいましたら、大脇のことが出てきました。大脇城について調べていますと、「尾州古城志」に「智多郡 大脇村 梶川五左衛門」とありました。さらにネットに愛知県埋蔵文化財センター「大脇城遺跡」という300ページに及ぶ報告書がありました。その中に桶狭間の戦い直後の梶川五左衛門の存在を示す史料が掲載されていました。


(「水野勝成覚書」抄 愛知県埋文センター「大脇城遺跡」より)

これによれば、梶川五左衛門は水野下野守(信元)方に属し、徳川家康と戦ったことが分かります。

ということは、桶狭間の戦いの時も梶川五左衛門は水野方で、徳川、今川方は敵になります。よく知られているように、今川義元は沓掛城から桶狭間に向かったとされています。途中阿野村、栄村を通って桶狭間に来たと言います。(梶野渡「地元の古老が語る桶狭間合戦始末記」より)


今川軍の予想進路と大脇城(赤の破線が今川軍の予想進路)

今川軍は大脇城に水野の家臣である梶川五左衛門がいることを知っていて、このような道を通ったのでしょうか。それとも、この段階で梶川は大脇城には居なかったのでしょうか。
少し謎が残りました。

松平記(5) 松平記

2021年12月14日 06時25分02秒 | 松平記

松平記p5

翻刻
に譜代衆骨おりて中〱あざむく事不成、和談にして帰陣
被成候。其間内膳殿岡崎へ来り御隠居をたより岡崎知行
悉横領被成御譜代衆を引付給ふ。仙千代殿を内々にて追
出し奉る。阿部大蔵ハ世忰気迷主君を討奉る共、我等は御
免をかふぶり若君に付奉るべしとて内膳殿の下知にし
たがハず十三に成給ふ仙千代殿御供申伊勢国へ浪人被
成候ニ付奉る、神辺に御越年有、其後御元服有て松平次郎
三郎廣忠と申奉る、吉良東條持廣の御烏帽子に成給ふ
故に廣忠と申奉ると聞えし、持廣ハ清康の妹婿にて御座
候間、仙千代殿をいとをしみ奉り、色々御肝煎被成駿河今

現代語訳
(清康が討死した後、このように)譜代の衆が苦労して裏切ることもなく、織田信秀と和談して岡崎に帰陣した。その間に内膳殿は岡崎に来て、御隠居(松平信忠)をたよって岡崎の知行地を悉く横領し、岡崎の譜代衆を味方に引き寄せた。そして仙千代(廣忠)を内々に追い出してしまった。阿部大蔵は息子が気を迷って、主君を討ってしまったが、我等は若君に付かなければならないとし、内膳殿の命令には従ず、13になる仙千代殿の御供をして、伊勢国神辺に行き、年を越した。その後元服し、松平次郎三郎廣忠と名乗られた。吉良東條持廣が烏帽子親となった。それで廣忠(廣の字を貰って)というそうだ。吉良東條持廣は松平清康の娘婿であったので、仙千代殿をいとおしみ、いろいろと世話を焼き、駿河今川殿に・・・・・

コメント
 織田信秀は、清康が死んだことを受けて三河に攻め込んできます。大樹寺に陣を設けたというので、岡崎にまで進出していたわけです。そしてかなりの犠牲者を出したようです。織田信秀は、ここで一気に攻め込まず、和談に応じます。どうも内膳(松平信定)と内通していたように思われて仕方がありません。この織田攻めの間に、内膳は岡崎を乗っ取り、仙千代(廣忠)を岡崎から追い出してしまうからです。
 もう一つ不可解なのは、阿部大蔵です。彼の息子が主君である松平清康を殺害したわけです。例えそれが誤っての殺人であっても、重大な罪に問われるべきものと思います。仙千代の側近はもとより、内膳にしてもこの阿部大蔵を謀反人の親として弾劾することが当然あってしかるべきです。しかし、内膳が清康殺しの親として阿部大蔵を咎めた、責めたという話は出てきません。また、仙千代の側近からも出てきません。そればかりか、この阿部大蔵が、まるで仙千代の後見人であるかのように、岡崎追放後に付き添っています。一説には、阿部大蔵が責任を感じて自害しようとしたところを仙千代が止めたので、それを御恩と感じて阿部大蔵が仙千代につくすことを決意したとか。仙千代はどれだけお人よしか、というか自分の親、松平家を滅ぼした犯罪人の親の自害を止めるということはあり得ないと思います。江戸時代の儒教、忠君の臭いが感じられます。主君たるものはかくあるべし、臣たるものはかくあるべしというものが、この「松平記」にも感じられる部分です。
 廣忠の名前が吉良東條持廣から来ているということを知りました。清康から一字も受け継いでいないので、不思議に思っていましたが、岡崎を追われた状況での元服だったので、こういうこともあるのだと思いました。

田辺城(2) 三重県いなべ市

2021年12月10日 06時34分23秒 | 三重県
再び本丸近くまで戻り、今度は本丸の西にある曲輪です。なんとなく両側が盛り上がっていて、虎口と言えば虎口だなあという感じです。

西曲輪の虎口(内側から写しました)

右側(北)は、土塁のようなものが残り、しばらく歩くと右側に櫓台のような盛り上がりがありました。


西の曲輪の櫓台

櫓台を過ぎてさらに西に進むと、急に眺望が開けてきました。どの辺りを見ているのか、初めてのところなので、分かりませんが、下の様子がよくわかる場所でした。

西の曲輪の突端

さて、案内書では、この田辺城は本丸と西の曲輪の外に北の方にいくつかの遺構が残っているとのことでした。
北の方に小さな屋敷跡があるはずでしたが、いくら探しても見つかりません。おそらく藪の中ではないかと思います。


屋敷跡があるだろう藪

道の右側は曲輪や水の手があることになっていますが、ごらんの「工事現場」でしたので、確認することもせずに、帰ってしまいました。先の方で確認できたのかも知れません。

曲輪跡や水の手があるだろうと思われる「工事現場」

さて、こうやってせっかく来たのに、遺構が見れないというのは、大変残念なことです。実は田辺城、高速道路がかすめていくということで(特に北の部分はしっかり高速道路が通過するようです。)慌てて発掘調査をしたようです。「高速道路なんか作らなくていいのに。だいたい、自分も新四日市から大安まで高速を飛ばしてきましたが、車の影はほとんどありませんでしたよ。平日だったからかも知れませんが。需要はないでしょ、ただ土建屋さんが儲かるだけでしょ。」と言いたいのですが、かく言う私自身が高速道路の恩恵をしっかり受けている(かなり短い時間で現地まで行けた)ということも紛れもない事実です。「いや、造るから利用しちゃうんだよ。造らなきゃ、下道で行ったよ。」いやいや、これは屁理屈で、本当に反対なら、一切利用しないで全部下道で行くべきですよね。
難しい問題です。

田辺城 おしまい