愛知の史跡めぐり

愛知県の史跡を巡り、その記録を掲載します。

長久手城 長久手市

2023年02月21日 19時29分23秒 | 長久手市
長久手の戦いで討死した加藤太郎右衛門
長久手市は「小牧・長久手の戦い」で知られる市です。古戦場跡も整備されています。長久手城は、その戦いで討死をした加藤太郎右衛門忠景の居城です。現地の案内板に以下の説明がありました。

現地案内板

「(前略)天正12年(1584)小牧・長久手の戦いの時には、家康の従った義弟岩崎城主丹羽氏次の留守を預かって奮戦しましたが、池田隊の多勢に敗れ、城兵230余名もろともに戦死しました。城は後に民家になり、荒れ果てましたが、文化6年(1809)〇〇〇の尾張藩士が当地を訪れ、宅跡の観音堂脇に石標を立て、供養しました。 長久手古戦場国史跡指定 長久手市教育委員会」

観音堂の横には、お地蔵さん、石碑、そして「加藤太郎右衛門忠景宅跡」の石標がありました。

観音堂横のお地蔵さん

お地蔵さんの横には、その由緒書きがありました。

由緒書き


長久手城跡の石碑


加藤太郎右衛門宅跡の石標
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かつての大草城「天空の城」に   新聞記事から 長久手市

2022年01月03日 09時56分28秒 | 長久手市
みなさん、あけましておめでとうございます。
昨年はコロナ禍であまり城めぐりはできませんでしたが、愛教労城の会では2月に岩略寺城(豊川市)、4月に山中城(岡崎市)、11月に大給城(豊田市)と3回の城めぐりができました。個人的にもぼちぼちと城めぐりができました。また、ブログで「松平記」の連載も始めました。
今年もよろしくお願いいたします。


中日新聞1月3日号より

さて、3日の新聞に表題の記事が載っていました。大草城は知多にもありますが、長久手にもあります。この城跡を「天空の城」として皆さんに紹介し、散歩したり、お茶をしたりする空間を提供しようとしている方がいらっしゃいました。すごい企画です。行ってみたくなりました。
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岩作(やざこ)城跡 長久手市

2018年04月16日 15時53分56秒 | 長久手市
4月16日、長久手市の岩作城跡を見学しました。

岩作城には、東城と西城があるようです。東城は今の長久手市役所のあたりです。それより西に500mぐらい離れたところが、西城です。

岩作城跡の場所 岩作城の周囲には色金山、長久手古戦場、首塚、御旗山など長久手の戦いゆかりの跡がたくさんあります。(地理院地図より作成)

岩作城の歴史
「尾張誌」「張州府志」と言う本に今井五郎太夫、今井四郎兵衛という名前が出てくるそうです。今井氏は、東城の居住者だったようです。天正12年(1584)に長久手の戦いで、岩崎城に籠り戦死した武将の中に今井四郎三郎の名前があるそうです。今井四郎兵衛の子ではないかと言われています。今井氏は、この時徳川方に与していたようです。(「日本城郭体系9」、ネット「史跡夜話」より)

西城は、鈴木権八が住んでいたという記録があるそうです。(ネット「愛知の城」)


岩作東城跡(長久手市役所) 「非核平和都市宣言のまち」という横断幕がありました。

岩作東城
この市役所の南東のはずれに石碑がありました。

岩作城跡の石碑

石碑の裏に碑文がありました。
 その名を地名に残す岩作城は一説に今井五郎太夫今井四郎兵衛の館といわれ、また長久手の戦いで戦死した今井氏との関わりも考えられています。
岩作城発掘調査により、城は14世紀から17世紀のものであると分かりました。 
長久手古戦場国史跡指定60周年記念事業
平成11年5月吉日
長久手町教育委員会


岩作西城
てくてくと歩いて西城のほうに行ってみましたが、田んぼと家があるだけでした。

岩作西城があったらしい場所
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長久手古戦場(9) 長久手市

2014年05月15日 14時45分52秒 | 長久手市
長久手市大草城(2)

長久手の合戦で破れた池田・森の軍が、ここで家康軍と戦った
 この長久手大草城と長久手の戦いとどんな関係にあるか、「長久手市郷土史研究会」のHPで次のように書かれていました。

 天正12年の長久手の合戦で敗れ、敗走した池田・森の軍兵らが大草城に落ちのびた数は1000人近くもいたという。落ちのびて大草城に入った落ち武者らは、城主福岡新助と、戦場を脱出して来た池田の侍大将伊藤友信らの指揮の下で、徳川勢の攻撃に備えた。家康は、挑むように幟や幡をひるがえす大草城をまのあたりに見て激怒し、ただちに大草城攻撃を命じた。しかし城の守りはかたく攻めあぐむ時、楽田城の秀吉が3万の軍勢で既に楽田を発って進撃して来る、という情報が届き、家康は急遽大草城攻めを中止し、軍勢をまとめて逃げるように小幡城へ引き上げた。

堀切C
 さて、話を大草城「探検」に戻しましょう。
 「曲輪Ⅰ」から南の方に行くと「堀切C」がありました。

「堀切C」は、まるで崖のようでした。今までの他の山城の見学でも「堀切」を見てきましたが、この堀切は、かなり険しいと思いました。

土塁B
 さらに、「堀切C」の南には「土塁」がありました。

これは土塁Bです。画像の左側が盛り上がっているのが確認できると思います。

土塁の西は急な崖
 しかし驚いたのは、この土塁の後ろ側です。地図では西(左)側です。急な崖になっていて、これは土塁などつくらなくても、攻め上れないと思いました。

土塁の上から撮影したものです。はるか下の方に道路が見えます。

 次は、道を挟んで東(右)側です。

地図の「曲輪Ⅳ」を「曲輪Ⅲ」から撮影しました。中央の木の茂みが「曲輪Ⅳ」と思われます。

曲輪Ⅳ
 実際に「曲輪Ⅳ」の辺りに行くと、やはり木の茂みで覆われていました。

この「曲輪Ⅳ」の辺りがこの大草城の中で一番高いので、ここに物見櫓があったのかもしれないと思いました。

堀切D
 いよいよ「堀切D」です。「曲輪Ⅳ」から「堀切D」のほうへ上から見に行こうとしましたが、竹林でよく見えません。


 そこで、ぐるっと永見寺の方の南から東に向けて回り込むようにして見に行くことにしました。
 東の斜面は栄見寺の墓地になっていました。途中、六地蔵もありました。


 おそらく、この竹林が「堀切D」かなと思いました。


家康も攻めあぐむ大草城
 ということで、地図上の曲輪や土塁、堀切を見つけながら大草城の見学を終えました。
大草城は山全体が一つの城になっていて、観音寺城のように曲輪が幾重にもありました。(ただし、後世に畑などのために作られたかもしれません。私には判別ができません。)また、自然の地形を利用した堀切は険しく、容易には攻めきれない城だと思いました。家康が攻めあぐんだ理由も分かった気がしました。
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長久手古戦場(8) 長久手市

2014年05月14日 19時22分39秒 | 長久手市
長久手市大草城(1)
 城歩きマンさんのコメントに、「長久手市色金歴史公園の北東に山城がある。大草城という。」とありましたので、出かけることにしました。

大草城縄張り図

 図は、大草城の縄張り図です。『愛知の山城ベスト50』に掲載されている図で、ギリシャ数字が書かれている平地Ⅰ~Ⅳが曲輪の跡です。アルファベットのA・Bは土塁、C・Dは堀切を示すようです。この図を見ながら、「探検」しました。

 図の南の方に「大草中集会所」がありましたので、そこから出発です。

熊野社
 まず、永見寺というお寺があり、そこを左に入っていきました。すると「熊野社」がありました。

 
 この「熊野社」を入っていくと、中に拝殿がありました。

 神社には、本殿の前にこのように拝殿がある神社とない神社があります。どういう違いなのか調べたいと思います。

大草城石碑
 この拝殿を更に左の方に入っていくと、大草城の石碑がありました。


 この石碑の右の支えのところになにやら小さいものが置いてあります。なんだろうかと、よくみてみると、観音様でした。どなたが置いてくれたのでしょう、なんともありがたい気持ちになりました。

 さて、この石碑の裏に大草城が紹介されていました。
 大草城は、「尾張志」に、「大草村西之島といふ地にあり西北二方は山を垣とし東南は二方ともに深谷を境とす右城内東西廿間南北廿間あり城主は福岡新助也と土人いへり此界内も城之内といふなり」とみえる
平成八年十一月吉日
長久手町教育委員会


 土人というのがすごいですね。三河一向一揆の「松平記」でも「土民」というのがありました。おそらく身分的に低く、名主や作人の更に下の耕作者のことかなと思います。

曲輪の跡
 この石碑をさらに左に行くと南北に道があり、左側に図の「曲輪Ⅲ」が見えました。

「曲輪Ⅲ」は、平坦な草地でした。さらに、左に行くと「曲輪Ⅰ」です。


「曲輪Ⅰ」は、竹林でした。
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