松平記p60
翻刻
(家)康衆を引入んと相図をしけるが、不叶して、外のくるハを
焼て早々にげ出ける間、頓而家康御勘気をゆるし給ふ。
一 額田郡野羽郷の古城に夏目次郎左衛門屋敷を城に構へ
大津半左衛門、乙部八兵衛籠りける間、深溝の松平主殿押
寄日々のせり合の戦有、然処乙部八兵衛、主殿助方へ返忠
致し、引入れける間、大津ハ不叶、針崎へ引退、夏目ハ引事も難
叶、土蔵の中へ入て隠れ居たりし処、主殿助衆堅守護して
不出、已に責殺んとしけるに、乙部色々詫言申、今度の忠に
申替て命を助け給へとなげく間、此段家康へ申上らるる
処に、家康大に御感有命を助させ給ひ、後には三郎殿衆に
(成にけり)
現代語
(戸田三郎右衛門は)家康の兵を寺の中に引き入れようと合図をしたが、うまくいかなかった。そこで外の曲輪を焼き、逃げて行った。やがて家康は勘気を許された。
一 額田郡野羽郷の古城に夏目次郎左衛門が屋敷を城に構え、そこに大津半左衛門、乙部八兵衛が籠っていた。深溝の松平主殿伊忠と日々せり合っていた。しかしながら乙部八兵衛が松平主殿助方に寝返りをし、兵を城に引入れた。大津半左衛門はたまらず、針崎勝鬘寺へ引き退いた。夏目次郎左衛門は引くこともできず、土蔵に入って隠れていた。松平主殿助は固くとり囲み、出られないようにした。すぐに責め殺してしまおうという時、寝返った乙部八兵衛が色々と命乞いをし、今度の寝返りに免じて夏目の命を助けてほしいと訴えた。主殿助はこのことを家康に報告したところ、家康は大いに感じるところがあり、命を助けられた。後に松平三郎信康の家臣になった。
コメント
戸田三郎右衛門は、家康の人質時代に今川に行くところを、さらわれて織田に売られてしまうという事件がありました(なかったという説もあります)が、その時の首謀者が戸田康光で、この事件に怒った今川義元によって戸田氏は攻められて居城田原城は落城することになりました。戸田康光は、戸田三郎右衛門の伯父にあたります。戸田三郎右衛門の父戸田光忠(康光の弟)は、田原城落城の折、岡崎に逃れて、やがて家康と縁戚を結び家康の家臣となります。今回は、一揆勢に付いたということで、勘気を被ったのでしょうか。
夏目次郎左衛門の話は有名で、「どうする家康」では、コメディタッチで家康がすぐ名前を間違える武将夏目広次として登場します。このあと、夏目は、三方ヶ原の戦いで家康の身代わりとなって討死しますが、この時のことがあって身代わりをしたと言われています。
夏目広次を演じる甲本雅裕さん(NHK大河ドラマ「どうする家康」より)