愛知の史跡めぐり

愛知県の史跡を巡り、その記録を掲載します。

岩屋口古墳 東海市

2016年10月24日 19時05分18秒 | 東海市
平洲記念館を訪れたついでに岩屋口古墳を見に行きました。

岩屋口古墳
現地案内板によれば、岩屋口古墳は6世紀から7世紀にかけて築かれたそうです。古墳の全体像は長い年月の間に失われ、今は形が分かりません。残っているのは石室で、長さ8.4m、幅1.7m、高さ2.1mだそうです。土師器、須恵器、刀子(とうす)、馬具等が発掘されたようです。このころこの地に大きな力を持つ族長の勢力があったことがうかがわれるとありました。


石室の入り口。すでに盗掘されている石もあり、新しく補強してあるそうです。


石室内部の様子。奥の方にも大きな石が壁のように積まれていました。

工場の町 東海市
石室の周りは、土を盛り小高い丘上にしてありました。そこから東海市の様子が見えました。海に面して工場が建ち並び、ああ工場の町なんだなあと実感しました。

岩屋口古墳から東海市を見る。正面奥は伊勢湾です。

細井平洲記念館 東海市

2016年10月24日 09時45分09秒 | 東海市
息抜きにお城ではないところを訪れました。東海市の細井平洲記念館というところです。細井平洲は江戸時代の学者です。

細井平洲とは

細井平洲坐像。後ろは平洲記念館の入り口です。

細井平洲は享保13年(1728)、現在の東海市に生まれました。学問にはげみ、24歳の時江戸に出て、嚶鳴館という私塾を開きました。宝暦13年(1763)、米沢藩上杉鷹山の師となりました。上杉鷹山は米沢藩において藩財政を立て直した人物として有名ですが、この細井平洲は、その鷹山の師であったようです。


平洲記念館に立つ「へいしゅうくん」。ここにもゆるキャラがありました。

「学思行」
記念館の前には「学思行」の石がありました。

「学思行」の石。

細井平洲が常々語っていた言葉で、「学び、考え、実行することの三つがそろって、初めて学んだことになる」という意味だそうです。東海市では、「学思行賞」というのが小中学生を対象に毎年送られているそうです。(ウィキペディア)

記念館には上杉鷹山と細井平洲の像がありました。

左が細井平洲、右が上杉鷹山

顕彰活動
記念館の隣に「細井平洲先生旧里碑」というものがありました。

石碑

この石碑は細井平洲が享和元年(1801)に亡くなった後、尾張にいた平洲の門人たちが平洲7回忌のとき、顕彰の為に建立したそうです。そして毎年5月末にこの碑の前で平洲祭というものを行っているそうです。(現地案内板)

初めて知ったことばかりでしたが、郷土の偉人を知ることで、郷土に誇りを持つことは悪いことではないと思いました。

聚楽園(しゅうらくえん)大仏 東海市

2014年05月01日 16時37分27秒 | 東海市
 知多へ遊びに行きました。行き当たりばったりの行楽です。始めに常滑の「タイル館」に行きましたが、時間的にゆとりがないということで、急遽「聚楽園」と言うところに行きました。「知多に大仏があった気がする」というおぼろげな記憶をもとに、スマホとナビを駆使して行きました。

東海市の位置

聚楽園大仏は金持ちの道楽?
 聚楽園には、大仏がありました。しかしお寺もなく、ただこの大仏と仁王様が立っているだけでした。案内板によれば、名古屋の実業家山田才吉という人が、昭和天皇の結婚を記念してつくったものだそうです。高さは、18.79メートルあるそうです。鉄筋コンクリート製だそうです。

東海市の文化財?
 なんと東海市の文化財になっていました。「昭和58年に、万葉の昔の『あゆち潟』に続く『知多の浦』『可家の湊』など東海市古代の海岸線を想起できる地として、境内地を含め東海市の文化財に指定された。」そうです。なんか、言い訳がましく見えるのは私だけでしょうか。