愛知の史跡めぐり

愛知県の史跡を巡り、その記録を掲載します。

応仁寺 碧南市

2013年12月30日 16時23分58秒 | 碧南市
蓮如上人ゆかりの地
 碧南市の応仁寺は、蓮如上人が京都を追われ、逃げ延びた先として有名です。1468(応仁2)年 蓮如上人は比叡山延暦寺の僧に追われた後、弟子の如光と西端に来ました。このときに、蓮如は、西端道場を建て、ここを拠点にして三河地方の教線拡大を図りました。

応仁寺本堂

 応仁寺は、もうひとつ有名なことがあります。それは、この寺には住職、寺族、寺男、留守番、門徒がいないというのです。「この寺は、村持ちの寺でして、昔から住職は居りません。お宮さんのように、村全体の人たちでお守りする寺」だそうです。(本願寺名古屋別院「東海の蓮如さん」)

加賀堀、越前堀
 境内を散策していましたら、「加賀堀、越前堀」という案内板を見つけました。

 蓮如上人が、京都から逃げてこの西端に来たということを伝え聞いた北陸の門徒がやってきて、この道場のまわりに堀を掘ったそうです。なんということでしょう。遠く北陸から蓮如上人を守るために、三河の地まで来たというのです。信仰とはすごいです。

 さて、応仁寺を南の方に行くと大きな道路があり、それよりさらに南は見事な菖蒲園となっていました。


如光堂
 その菖蒲園の一角に如光堂がありました。如光は以前にも話題にしたように岡崎上宮寺の住職で、上宮寺の教線を西三河中に拡大した人です。そればかりではなく、連如の片腕として活躍していました。有名な出来事は、1465年京都大谷の本願寺が比叡山に襲撃されたときに、大金を積んで比叡山を黙らせた話です。

如光堂

如光はどうやって生まれたか
 その如光が、実は正体がはっきりしないのです。案内板でも「その由来を尋ぬるに応永二十四年四月十五日の夜 幼きみどり子もくずの中に忽然と顕る かの池の辺りを通る村老奇異の思をなし之を拾ひあげ、養育するに凡てなし給ふ・・・」とあり、油が淵に忽然と現れたというのです。「如光弟子帳」というものも残っており、確かに実在した人物では有るのですが、どこで生まれたのかは、なぞとされています。

如光像

如光は水運業と関係ある人?
 ある人は、如光が油が淵のもくずの上に乗って現れたのは、如光が油が淵の水運業を取り仕切っていた者と関係があるからではないかと推測しています。当時は、三河湾と京都が水で結ばれていたといいます。そして、如光が大谷本願寺襲撃の際に大金を出しえたのは、こうした水運業などの商業活動から得たものが背景にあったからではないかと推測しています。
おもしろい話ですね。そういえば、堅田も、吉崎も、この西端も湖に面したところにあって共通点があります。

上宮寺 如光  岡崎市

2013年12月26日 21時04分48秒 | 岡崎市
如光弟子帳
 岡崎上宮寺は、三河一向一揆の拠点のひとつです。又、当時三河三ヶ寺と呼ばれていたうちの一つです。どれくらいの門徒があったのか、分かる資料があります。先日(12月1日)に行われた三河一向一揆講演会(青木馨氏の講演)で、一つの資料が紹介されました。「如光弟子帳(にょこうでしちょう)」というものです。

如光弟子帳(インターネットから)

三河、尾張、伊勢3国で105箇所の道場が上宮寺の弟子
 資料には、
 「上宮寺第30代如光(?-1467)の17回忌である文明16年(1484)11月1日に本願寺8代蓮如によって執筆されたと伝えられる上宮寺の末寺帳である。料紙は楮紙で、白紙1枚を含み15紙からなり、墨付き8丁。平成の修復時に本紙右側に付された補紙の部分に胡蝶綴じの綴じ糸の痕跡が確認されている。
 本書の内容は、最初に『三河国佐々木の郷上宮寺開□之事』とあり、第24代連順から如光を経て如順に至る上宮寺歴代の法名と命日を記し、次いで三河を中心とし、尾張、伊勢三国の道場105箇所を記している。中世寺院の教線伸展状況を知る唯一の同時代資料であり、三河一向一揆の拠点となる上宮寺の基盤、今日の東海地方における本願寺教団が形成される状況を如実に示す重要資料である。」

 と、説明がありました。つまり、上宮寺の基礎を築いたのは、どうやら第30代如光のようなのです。

12月1日講演会の資料の中に記された上宮寺関係の道場一覧

 如光とはどんな人物なのか、大変興味を持ちました。

志段味古墳群(2) 名古屋市守山区

2013年12月23日 15時16分08秒 | 名古屋市守山区
大塚古墳
 大久手池を後にして、先を行くと大塚古墳が見えました。新興団地の外れに、まるで団地の中の公園のようにありました。

手前が前方部分で、後方が後円部分です。前方部が低いというか、後円部が高いというか、丸い山が際立っていました。

案内板が立派になっていました。


東谷山フルーツパークが近くに
 全然関係ありませんが、近くに「東国山フルーツパーク」という公園があります。子どもがまだ小さい頃に訪れたことがあり、ちょっと懐かしかったです。


白鳥塚古墳
 さらに道を進んでいくと大きな古墳がありました。白鳥塚古墳です。

 これは、後円部分です。長さ115メートルで、県内で3番目の大きさだそうです。ちなみに1番は、熱田区の断夫山古墳、2番目は犬山市の青塚古墳です。


 前方部分と後円部分がつながっている部分です。左側が前方部分、右側が後円部分です。

うれしい出会い
 ここを歩いていましたら、中年のカップルと出会い、女性の方から、「古墳を見にこられたんですか。大きいですね。地元にいるのに、全然知らなかったです。」と、話しかけていただきました。男性の方も「車で横を通るけれど、知らなかった。」と。私も初めて来たので、「大きいですね。」としか答えられませんでしたが、とてもさわやかなカップルでした。こういう出会いがうれしいです。

 白鳥塚古墳は国指定でした。

白鳥1号墳
 さて、最後は石室です。白鳥1号古墳は横穴式石室があるそうです。

 中は、石のお部屋で天井には大きな石がまるで箱のふたのように横たわっていました。そうやって石を積んだのかと、納得の石室でした。

志段味古墳群 名古屋市守山区

2013年12月22日 15時32分54秒 | 名古屋市守山区
一般人も発掘の体験ができる
 先日中日新聞に以下のような記事が載っていました。志段味古墳群を「歴史の里」として整備するというものです。記事を読むと、一般の人も発掘の体験ができるようにするというのです。有料で、1時間500円だそうです。2015年に部分オープンし、2018年には全面オープンする計画といいます。私もぜひ体験がしたいものだと思いました。早速、志段味古墳群に行ってみることにしました。


インターネットで、「名古屋市」のホームページから志段味古墳群の散策コースの地図をコピーさせていただきました。

この地図のとおりに散策することにしました。

勝手神社は古墳の上に
初めにあったのは、勝手神社(かってじんじゃ)です。なんと前方後円墳の上に神社が立てられていました。

古墳の前方部分


古墳 後円部分

古墳の周りには溝がありました。


神社の案内板に詳しく説明がありました。古墳の名前としては「勝手塚古墳」というようです。


大久手4号墳
次は大久手4号墳です。案内板が分からなくて、たぶんそうだと思います。


西大久手古墳
分かりにくい細い道を進んでいくと「西大久手古墳」の看板がありました。

実際の古墳は、ただの草っぱらのようで分かりにくかったです。


開発進む「古墳群」
あたりを見回しますと、工事中のところがありました。まさか、「歴史の里」の工事がもう始まっているのかと、工事の看板を見に行きました。しかし、看板はなく道路工事のようでした。「歴史の里」よりも、まず住宅、道路が先のようでした。


東大久手古墳
西大久手古墳の先を行くと東大久手古墳がありました。新聞で報道された発掘できる古墳です。意外と小さい古墳でした。かなり掘り尽くされているように見受けられました。まだ何か出るのでしょうか。大変興味深いです。

写真は後円部分です。左側が前方部分になります。(案内板では帆立貝式古墳とありました)


大久手池から東谷山を
ここから東の方に大久手池があり、大変よい眺めでした。東谷山がはっきり見えました。

長くなったので、この辺でちょっと一息入れます。

三河一向一揆 金龍静氏講演会

2013年12月21日 09時45分27秒 | 安城市
 12月15日(日)、安城歴史博物館にて第2回目の三河一向一揆講演会が行われました。講師は、金龍静氏です。金龍氏は、現在本願寺史料研究所副所長です。蓮如、真宗等の研究者です。現在北海道に住んでおられ、こちらには飛行機でみえられたそうです。年齢は64歳です。


 お話は、「一向一揆とは何か」という演題で、それこそ蓮如の頃から石山合戦に至るまでをお話していただきました。話の基調は、このころの本願寺派の運動を「一向一揆」と「寺内町」ととらえ、その視点で一連の一向一揆を論じていました。

17世紀に受け継がれた一向一揆
 三河一向一揆は、その点で一向一揆運動と寺内町運動が合体したものであると言っていました。つまり、事の発端が上宮寺あるいは本證寺の寺内町の不入権をめぐり、それを家康が認めるかどうかがこの一揆の本質であり、そのことで一揆が発生したからということでした。
 金龍氏の意見は話の最後にありました。一向一揆が石山合戦の後に収束したように見えますが、その後のことを徳川や秀吉などの大名との関係で一向一揆をとらえるのではなく、17世紀から18世紀に各地で行われた農民の動き、例えば東京の築地の建設(はじめ幕府の無理難題な命令として農民に強いられたが、農民たちは漁のたびに土を盛り、現在の築地になったと言う)などに運動が引き継がれているのではないか、そのことをもっと掘り起こしていくことが大切と言っていました。