愛知の史跡めぐり

愛知県の史跡を巡り、その記録を掲載します。

渡辺崋山の史跡を訪ねる 田原市

2016年08月30日 17時29分04秒 | 田原市
渡辺崋山は、幕末において「慎機論」で、幕府の海防政策を批判し、謹慎の身となりました。(「慎機論」そのものは未発表でしたが、幕府側によって見つけられたそうです)

渡辺崋山像(池ノ原公園)

渡辺崋山の功績はそればかりではありません。天保の飢饉の時には、「報民倉」という基金を作り、藩から餓死者を出さなかったそうです。また、画家としても有名です。

渡辺崋山の史跡を巡りました。

渡辺崋山の墓所 城宝寺
はじめに訪れたのは、崋山の墓があるという城宝寺です。

城宝寺山門

城宝寺山門横に「城宝寺起源」がありました。それにも

渡辺崋山先生御墓所 自刃せられて検視の役人が二十四日目に江戸から来て瓶に入れたままこの下にお納め申し上げてあり

とありました。

渡辺崋山の墓

この墓は一族のものでした。5人の方のもので、右から順位に

小華奥方 すま子様
御母堂 おゑい様
崋山先生
奥方 たか様
小華先生

お墓の案内板

なお、この城宝寺には古墳がありました。石室のみが残っているそうです。6世紀半ばのものだそうです。

古墳の跡

崋山神社
次に訪れたのは、崋山神社です。田原城のすぐ近くにありました。由緒書きによれば、

昭和15年百年忌にあたり、その遺徳を偲び、神社創建の儀が起こり、戦中戦後の困難の中、曲折を経て昭和41年社殿を造営して現在に至る

そうです。

崋山神社社殿

池ノ原公園
次に向かったのは、池ノ原公園です。
池ノ原公園には崋山が幽閉された家が復元されています。

池ノ原公園入口

入り口から入りますと、道の傍らに崋山の足跡を記した石碑が立てられていました。石をたどることで、崋山の生涯が分かる仕組みになっていました。

崋山の生涯を記した石碑(生誕)

公園を奥の方に歩いていきますと、「渡辺崋山池ノ原幽居跡」が見えました。

崋山幽居跡

とても小さな住居でした。周りには、石碑や銅像が建てられていました。

報民倉を訪ねて
崋山が飢饉に備えて建てたという報民倉があったという大久保町籠池方面に向かいました。しかし、30分ほど車でうろうろしても見つかりませんでした。そこで、歩いている方にお伺いすることにしました。

でも、「それなら、ここから2キロほど先に行ったところだよ。」と、崋山ゆかりの地である池ノ原を教えていただきました。「ここには、たぶん崋山のものはないと思うけど。」ということでした。

地域の方が池ノ原についてはとてもよく知って見えたので、感激しました。
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セメント徳利窯 田原市

2016年08月28日 21時38分37秒 | 田原市
セメントをつくる窯の跡が田原市にあるということで、見学に行きました。

セメント徳利窯全景

現場は足場が組んであり、ちょっと見にくい状況でした。裏から見ると、レンガなどが見えました。

裏から見たところ

フェンスにちょっとした説明がありました。

説明版

このセメント徳利窯は明治40年にできたそうです。その頃は、この辺りにセメント工場が建ち並んでいたようです。案内板の写真を拡大すると

セメント工場の様子

写真の奥に並んでいるのが徳利窯のようです。田原は海に近く原料を港から運ぶのに都合がよかったのでしょうか。早くから工場地帯だったようです。(今は住宅地です)

田原市ではこれを文化財として保存するか検討中だそうです。ぜひ、保存してほしいです。

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田原城 田原市

2015年02月14日 10時44分05秒 | 田原市
田原城築城は戸田宗光
豊橋市に用がありましたので、ついでに田原城を見学しました。
田原城は、文明12年(1480年)ごろ、戸田宗光の築城です。戸田宗光は戦国時代に東三河で活躍していた武将です。その頃戸田氏は渥美半島、知多半島の一部を支配し、豊橋の牧野氏と争っていたようです。戸田宗光は、田原城のほかに二連木城(豊橋市)も築城しています。

三河一向一揆でも登場した戸田氏
三河一向一揆では、戸田三郎右衛門尉(忠次)が心ならずも一揆方に味方して佐々木上宮寺に籠もっていましたが、家康に忠義を尽くすために、家康軍を佐々木上宮寺に引きいれ外曲輪を焼いたと「三河物語」に記録されています。
宗光と忠次の関係は、以下のようです。(参考ウィキペディア)

忠次は宗光から5代後の人です。忠次の子孫が田原戸田家を継いだようです。

田原城関係年表(参考ウィキペディア)
文明12年(1480年)頃 戸田宗光築城
天文16年(1547年)戸田康光が今川の人質松平竹千代を織田に売ったため、今川に攻められ、落城。以後今川氏の代官が居城
永禄7年(1564年)本多広孝親子が入城。
天正18年(1590年)池田輝政の持ち城となり、伊木忠次が入城。
慶長6年(1601年)戸田尊次が入城。
寛文4年(1664年)三宅氏が入城。

さて、前段が長くなってしまいました。田原城は以下のように整備されたようです。

田原城整備の経過(「愛知の山城ベスト50」より)
明治23年、旧藩士全体の発起で三の丸公園として整備される。その後、渡辺崋山などの石碑が立てられる。
昭和9年、田原城の遠祖とされる児嶋高徳を祀る巴江(はこう)神社が建立される。
昭和33年、二の丸櫓跡に櫓風の文化財収蔵庫が整備される。田原城のシンボルとなる。
平成5年、田原城博物館が建設される。桜門、土塀等を復興する。桜門は写真及び江戸時代の渡辺崋山が描いたスケッチをもとにした。

田原城全体図。

桜門
はじめに見たのは桜門です。


この門の左右に堀がありました。

袖池

二の丸櫓
門をくぐると、二の丸櫓がありました。

二の丸櫓は、文化財収蔵庫となっています。

空掘
二の丸櫓から本丸跡(巴江神社)には土橋があり、その右側(東側)は、空掘りになっていました。戦国期の面影がありました。


巴江神社
本丸跡は巴江神社です。


この神社の境内の西側(写真の左側)を注意してみると土塁の跡がありました。

石灯篭の奥(写真の右側)です。

さらに、この神社の裏手には稲荷社が祀られておりました。その祠が最も高い位置にありましたが、私には、「物見櫓」がここにあったのではないかと思わせました。


画家としての渡辺崋山
最期に田原市博物館に入りました。田原城で忘れてはいけないのが渡辺崋山です。渡辺崋山といえば、「蛮社の獄」「慎機論」などで有名ですが、田原藩の家臣であったことは知りませんでした。また、それだけでなく画家でもあったようです。
彼が教科書にも出てくる「寺子屋」の絵を描いていたとは知りませんでした。6年生の社会科の学習で明治時代の学校と寺子屋を比較する授業で寺子屋代表がこの崋山の絵だったのです。

田原市博物館パンフレットより
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