愛知の史跡めぐり

愛知県の史跡を巡り、その記録を掲載します。

万徳院跡 広島県山県郡北広島町

2014年12月31日 10時26分51秒 | 広島県
万徳院とは
 天正2年(1574年)頃に、この地域に勢力を広げていた吉川元長(毛利元就の孫)が建立した寺院で、当初は山中の谷あいにひっそりと建つ、いわば別邸だったそうです。元長の死後、弟の広家が吉川氏の菩提寺としてふさわしい寺院を求め、長い参道や石垣、庭園、建物の増築などの大改修を行いました。しかし、1600年に吉川氏が現在の山口県岩国市に移されると、万徳院もこれに従い、建物ごと移転したそうです。(パンフレットより)

本堂をイメージしたガイダンスホール
 駐車場をぬけると、ガイダンスホール(なまえが片仮名です)がありました。このホールは、お寺の本堂をイメージしているそうです。

このホールの中に万徳院のミニチュアがありました。これで、往時の万徳院の全貌が見れました。

万徳院のミニチュア。長い参道や門にある石垣が確認できます。

万徳院境内へ

長い参道をいくと、前方に門の石垣が見えました。石垣は、吉川元春の館跡で見たものと同じような積み方になっていました。

門の石垣を入っていくと、左側が庭園跡になっていました。


中世蒸し風呂
 奥のほうに風呂場がありました。
 この風呂は湯釜で発生させた蒸気を風呂屋形という小部屋に引きこみ蒸気浴する蒸し風呂形式のものだそうです。この時期の風呂屋跡の出土例としては福井県一乗谷遺跡について2例目だそうで、実際に使用できるものとしてはここだけだそうです。(パンフレットより)

吉川元春館跡 広島県山県郡北広島町

2014年12月31日 08時23分19秒 | 広島県
11月16日(日)城の会見学会最終日です。3日目の見学の最初は吉川元春館跡です。吉川元春が隠居したときに建てられた館だそうです。


グーグルの航空写真です。


現地案内板です。

石垣に感動
なんといっても目を引いたのは石垣です。

 石垣は門の両脇にありましたが、大きな石が下方にでんと置かれ、(黄色い矢印)、平たい石が横積みにされています。(赤い矢印)大変見ごたえがありました。こういう石の組み方は、この地方独自のものと言われています。

これは、門です。門の両脇にも大きな石が縦に置かれています。

台所

中に入ると南の方に家がありました。写真の右側が台所、左側が附属屋だそうです。
イメージ画がありました。

台所の中央にかまどがあります。

かまど復原

いろり復原

台所の外に出ると、いろいろな史跡の跡がありました。

パンフレットからの図

便所を考える

そのなかからひとつ、トイレの跡に関心を持ちました。ふたつ入れものがあります。おそらく大人数のため、一つの入れものでは間に合わなかったのでしょう。さらに、水洗ではないと言うことです。定期的にここから出すことが必要だったと思われます。

美しい庭園
最後は、庭園です。美しい。

多治比猿掛城址 広島県安芸高田市

2014年12月31日 06時45分10秒 | 広島県
 さて、11月に訪れた広島県の史跡について後半部分がまだだったので、掲載します。
郡山城の次は多治比猿掛城というところです。


案内板

 多治比猿掛城は、毛利元就が郡山城に移り住むまでに住んでいたお城だそうです。幼年、青年時代を過ごした居城だったわけです。ただし、順風満帆ではなかったようですが。明応9年(1500年)に家督を子どもの興元に譲った父弘元とともに多治比猿掛城に移り、大永3年(1523年)毛利家の家督を継いで郡山城に入城しました。


毛利氏の家系図の一部です。

猿掛城に畝状竪堀が
 この城に畝状竪堀が最近発見されたということで、毛利氏の城にはないといわれていた畝状竪堀が毛利氏の城にも存在することがわかったそうです。


市場城址 豊田市小原地区

2014年12月30日 16時24分59秒 | 豊田市
市場城とは(現地案内板より)
 市場城は昔は小原谷大草城と云い、標高380mの山頂にある室町時代の山城である。小原村には当時の山城が11あり、その中でも市場所は主城の役割を担っていた。
 旧記によると、室町時代が始まる応永年間(1394~1482)は足助重春の一族が小原谷市場古城に居城しており、長禄3年(1459)には鱸藤五郎親信が足助の鈴木小次郎忠親から小原村を与えられ領有していた。
 その後、文亀2年(1502)に鱸藤五郎親信が今の市場城を築いてから、第2代肥後守長重、第3代伊賀守直重、第4代越中守重愛までの88年間、市場城は鱸氏4代の居城であった。
 第4代重愛は徳川家康の下で大功をたて、天正11年(1583)に領地を加増され、石垣を積み曲輪を構えるなど城郭の大改修を行って堅城としたが、重愛は天正18年(1590)何らかの理由で改易となり市場城を出城させられ、文禄元年(1592)廃城となった。
 山頂がいわゆる本丸跡で、その南側には石垣が積まれ、西側には二の丸がある。また帯曲輪が二重、三重に巡らされており、「竪堀群」や「枡形門」、「家老屋敷跡」といわれる「さんざ畑」が現存している。
 江戸時代の浅野文庫「諸国古城之図」にも、この市場城が掲載されており、中世の城郭史上貴重なものである。




市場城 第4代城主 鱸重愛は高天神城の戦いで功があった
 市場城は、主に鱸氏の居城だったようです。鱸氏とは、足助鈴木氏の家来だったようです。1502年から1590年までの約90年ここを居城としていたようです。
 また、案内板で「第4代重愛は徳川家康の下で大功をたて」とありますが、これは家康が天正9年、武田勢の岡部元信が籠もる遠江高天神城を攻めたときのことのようです。

「信長公記」巻14「高天神干殺し歴々討死の事」より
三月廿五日、亥の剋、遠江国高天神籠城の者、過半餓死に及び、残党こぼれ落ち、柵木を引き破り、罷り出で侯を、爰かしこにて相戦ひ、家康公御人数として、
討ち捕る頸の注文、
百参十八、鈴木喜三郎・鈴木越中守。拾五、水野国松。十八、本田作左衛門。七ツ、内藤三左衛門。六ツ、菅沼次郎右衛門。五ツ、三宅宗右衛門。弐拾一、本田彦次郎。七ツ、戸田三郎左衛門。五ツ、本田庄左衛門。四拾弐、酒井左衛門尉。拾六、石川長門守。百七十七、大須賀五郎左衛門。四拾、石川伯耆守。拾、松平上野守。弐拾弐、本田平八郎。六ツ、上村庄右衛門。六拾四、大久保七郎右衛門。四拾一、榊原小平太。拾九、鳥井彦右衛門。拾参、松平督。一ツ、松平玄蕃允。一ツ、久野三郎左衛門。一ツ、牧野菅八郎。一ツ、岩瀬清介。ニツ、近藤平右衛門。
頸数六百八十八、


 この中の鈴木越中守が第4代城主鱸重愛のようです。鈴木喜三郎と合わせて138の首をとったと記されています。なお、鈴木喜三郎ですが、「現代語訳信長公記」(中川太古)によれば、鈴木重次とありましたが、ウィキペディアでは、第4代目真弓山城城主鈴木信重が高天神城の戦いで同族の小原城主鱸重愛と奮戦したと記していました。
 なお、「三河物語」では、
 然間、天正九年、辛巳三月廿二日之夜之四つ時分に、二手に分けて切って出る、足助・尾原・石河長土守之持口ハ、・・・

ということで、単に「足助」「尾原」としか登場してこないので、「足助」が誰なのか判りません。日付が「信長公記」と「三河物語」で若干異なっているようです。

いよいよ登城

 さっそく市場城の見学です。

市場城 城主の供養塔
 はじめに、市場城主の供養塔がありました。


この看板に鱸氏の歴代の城主の名前がありました。

 更に進んでいくと、大きな空掘りがありました。


櫓の下の石垣
 空掘りを進むと、大きな石垣がありました。

 案内板に石垣についての説明がありました。
  この石垣の上には櫓があったと言われ、自然の石を利用した野面積みで、さらに折をつけ、守りは厳重である。
 中世の山城は県下には多く残っているが、石垣を築いたものは数少なく、貴重である。


二の丸
この石垣を通り抜けると、二の丸です。


本丸
二の丸から、頂上にでました。本丸です。



 本丸の周りには土塁が巡っていました。その周りに桜のように見えるものは「四季桜」といって春と秋に2回花をつける桜だそうです。ご当地小原ではこの四季桜を観光の一つの目玉にしようと多くの場所に植えています。

市場城の竪堀
 いよいよ竪堀の見学です。



これは、横から見たものですが、けっこう大きかったです。堀も深くダイナミックな感じがしました。


これは、上から見たものです。

枡形門

枡形門です。お城は守りのために門は折れ曲がっていますが、この市場城の枡形門がその原形だそうです。

鳴海地区 名古屋市緑区

2014年12月21日 16時45分42秒 | 名古屋市緑区
 早いもので、もう12月も半ば過ぎ。2014年も年の瀬です。そんな中のんびりと地域の散策をしました。鳴海地区です。鳴海地区は「鳴海小作争議」の主に地主側の人たちが居住していた地域です。
「鳴海小作争議をさぐる―鳴尾少年探偵団ものがたり」という本にあった小作争議関連地図の鳴海地区を見ながら鳴海地区の散策をしました。


訴訟を起こした地主野村家の家
 はじめは、「野村家」です。野村家は小作人たちが「掟米」(小作料)を渋ったときに掟米請求の訴訟をした地主のうちの一人です。地図にわざわざ「野村家」とあるので、おそらくこの家がその地主の野村家だろうと思います。

まわりを塀で囲み、大変広い家でした。さすが元地主と感動しました。

和解案を考えた地主下郷家の家
 次に見たのは、下郷家です。下郷家は小作争議の解決に向けていわゆる「千代倉案」と言う調停案を作った地主の家です。千代倉とは当時の下郷家の屋号です。

 道路(旧東海道)に面して小さな店のようなものがあって、看板に「千代倉」とありました。店には「夢斉工房」とか「そば」とかの字が書かれていました。なんの店なのか、現在も営業しているのかわかりませんでした。しかし、「千代倉」とあるのは昔の屋号を店の名前にしたのではないかと思いました。下郷家は実はこの後ろにあって、それは広大な家でした。さすが元地主とやはり思いました。

調停役をかってでた瑞泉寺
 次は、瑞泉寺です。瑞泉寺はやはり小作争議の調停に一役かったお寺です。瑞泉寺の住職浅井蜜成さんたちが、下郷家が発案した「千代倉案」で調停に当たったようです。

瑞泉寺山門


 道路から見た瑞泉寺。瑞泉寺は曹洞宗のお寺で、教育委員会の案内板によると、「20世呑舟(どんしゅう)は中興の祖とされ、鳴海の豪族下郷(しもざと)弥兵衛の援助により宝暦5年(1755年)堂宇を完成した」とありました。つまり下郷家と瑞泉寺は昔から関係が深かったことがうかがわれます。

鳴海地区の豪族下郷家
 旧東海道沿いに歩きましたが、この道沿いには下郷という古いお家がいくつかありました。

下郷家その2


下郷家その3

 おそらく千代倉下郷家とは何らかの姻戚関係があるもと思われます。瑞泉寺の案内板によれば鳴海の豪族だったので、いくつかの分家があったのでしょう。

旧鳴海町役場跡
 あと、旧鳴海町の役場跡がありました。今は生涯学習センターです。

鳴海町役場跡にたっている生涯学習センター


役場跡の石碑