愛知の史跡めぐり

愛知県の史跡を巡り、その記録を掲載します。

西尾城(2) 西尾市

2016年10月31日 17時23分53秒 | 西尾市
工事が終わった後に
10月31日、西尾城に出かけました。というのは、前に行ったときは工事中だったのが、どうなったのか、知りたくなったからです。

過去の記事 西尾城 西尾市




2013年9月に訪れた時の公園の様子。看板によると、平成26年(2014)1月23日には、工事が終了しているので、何かできているはずです。

二の丸を復元
行ってみると工事中の柵はなくなっていて、広々とした芝生公園になっていました。そして、そこは二の丸を復元していたのです。


できた二の丸跡公園の案内図

スマホでCGが見れる
左下に「スマホアプリで石垣の上に西尾城がよみがえる」とあります。テレビで姫路城でもスマホでいろんな場面を復元して見ることができるということをやっていました。今どきは、CGの時代なんだと思いました。しかし、私はスマホを持っていないので、残念ながらCGの西尾城を見ることはできませんでした。

天守台と櫓台を復元
西尾城は、本丸ではなく二の丸に天守閣があったということで有名ですが、その天守台および二の丸の丑寅櫓台が復元されていました。

丑寅櫓台


天守台全景 天主は二の丸の北西に造られていたようです。

石垣の石は、ほとんどが他から持ってきた石ですが、発掘によって出てきた石もあるそうです。

中央の石は、発掘で出てきた石を石垣に使っているそうです。

ということで、やっぱりスマホが必要だなと考えさせられました。

岩屋口古墳 東海市

2016年10月24日 19時05分18秒 | 東海市
平洲記念館を訪れたついでに岩屋口古墳を見に行きました。

岩屋口古墳
現地案内板によれば、岩屋口古墳は6世紀から7世紀にかけて築かれたそうです。古墳の全体像は長い年月の間に失われ、今は形が分かりません。残っているのは石室で、長さ8.4m、幅1.7m、高さ2.1mだそうです。土師器、須恵器、刀子(とうす)、馬具等が発掘されたようです。このころこの地に大きな力を持つ族長の勢力があったことがうかがわれるとありました。


石室の入り口。すでに盗掘されている石もあり、新しく補強してあるそうです。


石室内部の様子。奥の方にも大きな石が壁のように積まれていました。

工場の町 東海市
石室の周りは、土を盛り小高い丘上にしてありました。そこから東海市の様子が見えました。海に面して工場が建ち並び、ああ工場の町なんだなあと実感しました。

岩屋口古墳から東海市を見る。正面奥は伊勢湾です。

細井平洲記念館 東海市

2016年10月24日 09時45分09秒 | 東海市
息抜きにお城ではないところを訪れました。東海市の細井平洲記念館というところです。細井平洲は江戸時代の学者です。

細井平洲とは

細井平洲坐像。後ろは平洲記念館の入り口です。

細井平洲は享保13年(1728)、現在の東海市に生まれました。学問にはげみ、24歳の時江戸に出て、嚶鳴館という私塾を開きました。宝暦13年(1763)、米沢藩上杉鷹山の師となりました。上杉鷹山は米沢藩において藩財政を立て直した人物として有名ですが、この細井平洲は、その鷹山の師であったようです。


平洲記念館に立つ「へいしゅうくん」。ここにもゆるキャラがありました。

「学思行」
記念館の前には「学思行」の石がありました。

「学思行」の石。

細井平洲が常々語っていた言葉で、「学び、考え、実行することの三つがそろって、初めて学んだことになる」という意味だそうです。東海市では、「学思行賞」というのが小中学生を対象に毎年送られているそうです。(ウィキペディア)

記念館には上杉鷹山と細井平洲の像がありました。

左が細井平洲、右が上杉鷹山

顕彰活動
記念館の隣に「細井平洲先生旧里碑」というものがありました。

石碑

この石碑は細井平洲が享和元年(1801)に亡くなった後、尾張にいた平洲の門人たちが平洲7回忌のとき、顕彰の為に建立したそうです。そして毎年5月末にこの碑の前で平洲祭というものを行っているそうです。(現地案内板)

初めて知ったことばかりでしたが、郷土の偉人を知ることで、郷土に誇りを持つことは悪いことではないと思いました。

船形山城址 豊橋市

2016年10月17日 12時54分21秒 | 豊橋市
その日、2つ目の城です。船形山城です。

船形山城
豊橋市多米校区自治会のホームページによれば、船形山城は、
「三河と遠江の境にあるため戦略上の重要な拠点となり、駿河の今川氏はここに山城を築いて西進の足掛かりとした。築城の時期は明応年間(1492~1501)とされる。山城は、南東の尾根筋に築かれ、長さ240m、本丸にあたる平坦地を中心に北東隅に大きな空堀があり、西崖下に腰曲輪があった。」
とありました。

愛知の山城ベスト50によれば、明応年間に今川方の武将多米又三郎が戸田宗光らの攻撃を受け、落城したとありました。また、永禄11年(1568)徳川方の武将松平家忠と小笠原廣重が、武田軍への押さえとして、この船形山の砦を守ったそうです。小笠原廣重の息子小笠原信元もここを守ったそうです。

古刹 普門寺
さて、船形山城に行くには、麓の普門寺から行きます。

普門寺山門

普門寺は、奈良時代に行基によって開山した真言宗の寺だそうです。けっこう古いお寺です。船形山城に行くには、鐘楼門を左に曲がって山を登ります。

普門寺鐘楼門。宝永4年(1707)に建立されたそうです。

山道でハイキングのご夫婦に出会う
ここからの山登りが大変でした。船形山城は、標高280m、急な登り道が延々と続き、いささかばててしまいました。しかし、どうにか尾根にまで到達しましたが、道が左右に分かれていて、どっちへ行ったらよいかわかりません。ちょうど休憩のためのベンチが用意されていたので、しばらく休憩していると、偶然ハイキングをしていらっしゃるご夫婦に出会いました。
「この辺りにお城の跡があるのですが、どちらへ行けばよいのでしょうか。」
と尋ねたところ、
「うーん、何か看板のようなものがあった気がするけど、こっちだよ。」
と教えていただきました。
実にありがたかったです。反対方向に行くと絶対に行きつかなかったからです。

尾根伝いにしばらく歩いていきますと、見えました。目印の鉄塔です。
「ありました。あの鉄塔の下が城跡です。」
と、思わずいっしょに歩いてこられたご夫婦に叫んでしまいました。

船形山城の本丸に立つ鉄塔

船形山城は尾根に並ぶように造られていました。

船形山城イメージ図

まず、本丸のすぐ東に堀切がありました。

本丸東堀切。本丸から撮影したので、分かりにくいですが、左右に切られていました。

本丸
本丸は、鉄塔が建てられていましたが、その周囲に土塁の跡がありました。今は、登山道になっています。

本丸、土塁跡

3本の堀切
さらに西の方に進ん行きましたら、見事な堀切が3本ありました。

1本目の堀切


2本目の堀切


3本目の堀切

3本の堀切を確認した後にもう一度本丸付近に行き、山の下の方を見てみました。木が生い茂っていて、よく見えませんでしたが、豊橋市の東の方でしょうか、市街地を見ることができました。昔はもっと眺望が開けていたことと思います。

本丸からの眺望

赤岩山城址 豊橋市

2016年10月16日 10時03分53秒 | 豊橋市
10月に入り、雨が止んだと思ったら、急に涼しくなりました。朝晩は長袖でないと寒いくらいです。しかし、いい天気が続くようになりました。昨日は、絶好の行楽日和でした。
豊橋まで足を運びました。赤岩城址と船形山城址に行きました。両城とも愛知県の東の方にあります。


赤岩城
はじめに赤岩城址を訪れました。この城は、すぐ下を県道4号線が東西に走っています。また、豊橋市中心街から豊鉄が県道4号線に沿って途中まで伸びているので、この県道4号線が重要な道だったことが分かります。赤岩城は、この道を抑えるための城であると考えられます。

牧野氏関連の城
赤岩城は、いつ、だれが築城したのかはわかりません。「愛知の山城ベスト50」によれば、天文年間の吉田城攻めの際、吉田城を守っていた牧野氏の一族である牧野新次郎という武将が、法言寺(赤岩寺)に逃れてきたそうです。赤岩城は赤岩寺の後ろの山なので、牧野新次郎と赤岩城は関係がありそうです。
また、「史跡夜話」というネットの記事では、似たような話が紹介されていて、年代は享禄2年(1529)で、吉田城を攻めたのは、松平清康です。吉田城には牧野氏がいました。(ここは同じ)この時、牧野氏の一族で、牧野新次郎成勝と牧野新三郎成村という武将が、一人は牧野氏の本拠地牛久保城、他の一人はこの赤岩城に逃れたそうです。
どちらにしても、牧野氏との関係が深そうです。

赤岩寺
赤岩城址の麓の赤岩寺で車をとめさせていただきました。

赤岩寺の仁王門(山門)

赤岩寺の本堂の左隣に一対の石灯篭があります。それが赤岩城址への入り口です。

赤岩城への入り口。はじめは分からず山から下りた時に分かりました。

すぐに石の階段がありました。

赤岩城への登りの階段。勾配が強かったので、きつかったです。

辺りは公園になっていて、いくつかの道が交錯していました。「赤岩城址」という看板がないので道が多いと、かえって分かりにくかったです。ちょうど、法事が終わって戻ってこられたお坊さんが見えましたので、道を尋ねてしまいました。親切に教えていただいたので、登ることができました。目印としては、「林間広場」を目指していくと曲輪にたどり着きます。(これも後で分かったことです。)

赤岩城址イメージ

赤岩城址イメージ図。「林間広場」はイメージ図のⅢ郭にあたります。


Ⅲ郭(「林間広場」)

「林間広場」に着きましたが、ここが城址の一角なのか、城址とは別の場所なのかはじめは全く分かりませんでした。

大堀切
辺りをうろうろしていますと、ついに見つけました。大きな堀切です。

Ⅰ郭北側の堀切。左がⅣ郭、右が土塁です。

この堀切はかなり大きいです。豊橋市多米校区自治会のホームページでは幅10m、長さ30m、深さ8mだそうです。「ここを攻め込むのは困難である。」とコメントされていました。

先日福井県若狭町の「堂谷山城址」の堀切を見ましたが、あれに匹敵する大きさでした。

高い土塁
そして、その南側にこれまた大きな土塁がありました。

赤岩城Ⅰ郭北土塁

愛宕神社
山を降りるついでに愛宕神社に寄りました。

愛宕神社。岩にしがみつくように建てられていました。

展望できるところがあったので、そこから見ると、多米町の柳原団地が見えました。

愛宕神社から多米町の眺め。

お寺の奥の山城というのは先に見学した医王寺もそうでしたが、結構多そうです。