愛知の史跡めぐり

愛知県の史跡を巡り、その記録を掲載します。

松平記(26) 松平記

2022年06月28日 08時41分21秒 | 松平記

松平記p26

翻刻
候、竹千代殿の御成人の間は今川殿へ御知行も預り分と
被仰候、駿府より代官を御申付候間、御譜代衆迷惑仕候事
無是非次第也
一 弘治元年尾州前田の蟹江の城三州衆、駿府州、押寄攻(せめ)られ
松平和泉守先年高名の者彼家中に多し、松平久助、松平新
助、松平隼蔵、鈴木佐(すけ)左衛門、今井加兵衛、梅村喜八郎いつれ
も高名いたす、中にも川合帯刀ハ鎗を合、川合才兵衛ハ組
打を致し、武井角左衛門、大橋新三郎ハ討死仕候、大久保新
八、同甚四郎、同七郎右衛門、同次右衛門、阿部四郎五郎、杉浦
八郎五郎父子、七本鎗高名

現代語
候。竹千代殿が成人されるまでの間は、今川殿に知行地も預かりと仰せられた。駿府より代官が来て、松平の譜代衆は迷惑であったが、致し方がないことであった。
一 弘治元年(1555)、尾張前田の蟹江城に三河衆、駿河衆が攻め寄せた。松平和泉守には先年に高名を立てた者が家中に多く、松平久助、松平新助、松平隼蔵、鈴木佐左衛門、今井加兵衛、梅村喜八郎いずれも高名を致した。中でも川合帯刀は、鑓を合わせ、川合才兵衛は組討した。武井角左衛門、大橋新三郎は討死された。大久保新八、大久保甚四郎、大久保七郎右衛門、大久保次右衛門、阿部四郎五郎、杉浦八郎五郎父子は七本鎗として名をあげた。

コメント
松平氏の知行地も預かりということで、実質今川家の領地となっていたようです。松平氏の譜代の家臣たちは、今川からの監視を受けて、暮らすことになります。「三河物語」でいう所の松平譜代の苦難の時代です。年貢は今川にとられ、今川からの扶持(給料)もなく、譜代たちは「手作りをして年貢石米をなして、百姓同然に鎌、鍬を取り、妻子を育み、身を扶け、有られぬなりをして」、駿河衆に気を遣い、戦があれば先陣をきらされ、何人もの人が死んだと大久保忠教は嘆いています。
弘治元年の蟹江城の戦いは、松平廣忠(あるいは今川勢)が蟹江城を攻略したとだけネットでは記載されていますが、この松平記がより詳しく記述されています。攻めたのは、松平和泉守、松平久助、松平新助、松平隼蔵、鈴木佐左衛門、今井加兵衛、梅村喜八郎で、手柄を立てたようです。川合帯刀が槍を合わせ、川合才兵衛は組討を致しと特筆されています。武井角左衛門、大橋新三郎は討死したと記録されています。これらの武将は、松平家の家臣たちであったろうと思います。大変な中でも戦で手柄を立てていると三河武士の武勇伝として書かれています。その最たるものが「七本鎗」の記述です。
「七本鎗」は小豆坂の戦いでも出てきました。よく聞くのは、「賤ヶ岳七本鎗」です。名前を覚えるのに役立つ手法だと思いました。昭和では「三人娘」とか「御三家」とか三がよく使われます。

松平記(25) 松平記

2022年06月07日 16時59分33秒 | 松平記

松平記p25

翻刻
(三)河衆大久保等を付て西野まで送り申候、其時竹千代殿岡
崎へ帰り、扨駿河へ人質に御下向候時、天野三兵など御供
に下り、宮の前に御屋敷有、福島土佐と申者を今川殿より付
被申ける
一 天文十八年春の比より廣忠御煩有、三月六日御逝去被成
法名道幹と奉申、御年廿四歳、今川殿御かけにて三河国大
かた治り申候の処に、如斯果報これなき次第也、御家督の竹
千代殿駿府に御座候間、三河衆半分ハ皆今川殿へ出仕被
申、殊に一門の中にても一分を被立し人々、大給和泉守殿、
酒井将監殿、同左衛門尉殿、桜井内膳殿などは皆在府被成

現代語
三河衆の大久保等を付けて(織田三郎五郎信広を)西野まで送っていった。その時、竹千代殿は岡崎に帰り、駿河へ人質として下向なされたとき、天野三兵などがお供をし、宮の前のお屋敷に住まわれた。福島土佐と申す者が今川殿より御目付として付けられた。
一 天文18年(1549)春の頃から廣忠殿は病気になられ、3月6日逝去なされた。法名を道幹と申され、御年24歳であった。今川殿のおかげで、三河国は大方が治まったところ、このような果報はないというものである。跡継ぎの竹千代殿が駿府におられるので、三河衆は半分が今川殿に出仕なされ、とくに一門の中でも一分を立てられている大給和泉守殿、酒井将監殿、同じく左衛門尉殿、桜井内膳殿などは、皆駿府におられた。

コメント
竹千代と共に駿府に付いていった天野三兵は、天野康景というそうです。三河一向一揆の時も一族が一向衆であったが、康景は家康について戦ったそうです。後に本多重次、高力清長と共に三河三奉行と称され、「仏高力、鬼作左、どちへんなきは天野三郎兵衛」(清長は寛大、重次は剛毅、康景は慎重でそつが無い)と評価されたそうです。(ウィキペディア)
松平廣忠の死については、諸説あります。「松平記」、「三河物語」は病死としていますが、他に岩松八弥による殺害説、一揆による殺害説などがあるそうです。NHK大河「麒麟がくる」では、信長が刺客をおくり、廣忠を暗殺するという設定になっていました。ただ、信長は、父信秀に叱られてしまいますが。
さて、竹千代が駿府にいる関係で、大給松平などが駿府に居住させられていますが、このことが桶狭間の戦いの後に家康が今川家から独立する時や三河一向一揆の時の西三河の情勢に絡んできている気がしました。つまり、これらの武将が今川側として家康と対峙することになるのではないかと思いました。

愛教労城の会見学会報告 大高城・鷲津砦 5.29

2022年06月03日 10時19分56秒 | 愛教労 城の会
日時  :2022年5月29日(日)13:00

今回は、初めて名古屋市の城をめぐりました。桶狭間の戦いの舞台となった大高城、鷲津砦です。この戦いの舞台となった城は、他に鳴海城、丹下砦、善照寺砦、中島砦、丸根砦などがありますが、時間や天候の関係で鷲津砦、大高城の2つに絞ることにしました。
交通の便が良いせいか、多くの方に参加していただきました。二人ほど都合で不参加となりましたが、当日は15人の方に参加していただきました。
はじめは鷲津砦です。

鷲津砦にて

鷲津砦は、石碑設置の際「大体この辺を想像したるに過ぎず。」とし、当該地である字「鷲津山」のほかに字「鷲津」地内にも候補地があるそうです。(ウィキペディア)ということで、鷲津山には、遺構はないと思われましたが、土塁跡らしきものが見られました。
また、砦の中心の曲輪はこの山の北の方にあるらしいということで、その推定地にも足を運びました。そこからは、南北に視界が開かれ、南の大高城だけではなく、北に鳴海城も見ることができました。

次は大高城です。

大高城の堀跡

いったん大高駅に戻りそこから大高城まで歩きました。大変暑い日で、最高気温が33度だったそうです。しかし、体調を崩される方も見えず、無事大高城につきました。
 大高城では、本丸の八幡神社が地域の人の手で維持されていることや本丸の西北に掘られた堀跡に入り、その深さを実感することができました。
 また、風通しの良いところで、桶狭間の戦いについて、今川義元が大高城まで行っていたという最近の説について話し合いました。

参加者の感想
大高駅にいつもより多くの方が集まっていたので、参加しやすければ参加したいという方がたくさんいるのだなと思いました。
あの後、ついでに大高緑地公園そばの丸根砦にも寄ってきました。鷲津砦跡と大高城跡がよく見えました。
でも周りに緩衝地帯が少なく守りにくい砦で、真っ先にやられそうだなと感じました。
こちらも砦跡のすぐ脇まで家が建っていました。ここは鷲津砦と違って頂上が狭いので砦の位置が問題にはならないだろうなとも思いました。
一緒に回ったところについては感想がかぶるので、その後のことを書かせてもらいました。
次回は10月。都合がよく参加できればと思います。またよろしくお願いします。(O)