愛知の史跡めぐり

愛知県の史跡を巡り、その記録を掲載します。

安土城(2) 滋賀県近江八幡市

2016年07月07日 15時36分24秒 | 滋賀県
大手道
大手門の付近を見学した後は、いよいよ大手道です。ここに入るには入山料が必要でした。700円です。この遺跡の所有者でしょうか、摠見寺(そうけんじ)が受付をしていました。

大手道は、かなり長い石の階段でした。入るとすぐ上の方にスプリンクラーがあり、霧のようなものが出ていました。大変涼しかったです。

大手道

伝羽柴秀吉邸跡
大手道を登り始めるとすぐ左側に「伝羽柴秀吉邸跡」がありました。伝羽柴秀吉邸跡は、下段と上段の構成になっています。

伝羽柴秀吉邸跡の図(現地案内板)

櫓門
下段の入り口は、櫓門だったそうです。

下段の入り口。画像の手前部分に大きな櫓門があったそうです。


櫓門の復元画像(安土城考古博物館「安土城・1999」)

礎石からこうした櫓門があったことが分かったそうです。

「礎石は鏡柱を置く巨大な礎石や添柱用の小さな礎石など、大小あわせて9個発見しており、最大のものでは0.8m×1.4mの大きさがあります。これらの礎石の配列と両側の石垣の様子から、この建物は脇戸付の櫓門であることがわかりました。」(現地案内板)

すごいですね。礎石からここまでわかるとは。

「1階を門、2階を渡り櫓とする櫓門は、近世の城郭に多く見られるものですが、秀吉邸の櫓門はその最古の例として貴重です。」

と、案内板はその歴史的意義を語っていました。なるほどこれは近世の櫓門です。

近世の櫓門、金沢城橋爪門(二の門)

下段は、厩(うまや)だったそうです。現代風に言えば「駐車場」でしょうか。馬6頭が飼えるものだったそうです。

秀吉邸上段
上段が秀吉邸の本殿だったようです。

上段には礎石が並んでいました。

上段に残された礎石から上段の様子がわかったそうです。

秀吉邸全容の復元画像((安土城考古博物館「安土城・1999」)

なんとも立派な屋敷です。さすがは有力織田家家臣ですね。

安土城(1) 滋賀県近江八幡市

2016年07月06日 14時41分59秒 | 滋賀県
安土城に行きました。行かなければと思いつつ、なかなか行かない日が続いていましたので、思い付きでしたが、思い立ったが吉日とばかり突然に行きました。

大手門付近
安土城に着くと、さっそく石垣(石積み)が迎えてくれました。

安土城大手門付近

天主の模型
無料の駐車場から大手門の方へ行きますと、途中休憩所がありましたので、中に入ってみると、なんと安土城天主の模型がありました。

安土城天主の模型。

この模型は、5・6階部分を1/7のスケールで再現しているそうです。

4つの門の意味
さて、大手門付近は案内板で以下のようになっているようです。

大手門付近の図(現地案内板)赤字は書き加えました。

大手道の出口に大手門があり、左右に石積みがあったということです。


大手門推定地と左右の石積み

さらに、左右の石積みには4つの出入り口があったらしいです。4つの出入り口のうち3つが平虎口(普通の出入り口で、防御性が弱い)、西端の虎口が枡形になっています。

平虎口は、公の時の門?
このことに関して、現地案内板では、「織田信長は、安土城に天皇の行幸を計画していたことから、城の正面を京の内裏と同じ三門にしたのではないか、西枡形虎口以外の三門は行幸などの公の時に使用する門であったと推定されます。」としています。

身分ごとの門の使い分け?
しかし、千田嘉博「信長の城」によれば、「なお、大手道の起点になった山麓には石塁を設けて四つの門を開いていました。これも行幸のためではなく、室町時代から戦国期の武家儀礼に則った身分ごとの門の使い分けと考えるべきだと思います。人々が出入りできる門を区別して権威のありかを演出したのです。」と、行幸説を真っ向から否定しています。


西側石積みに設けられた平虎口


西側石積みに設けられた枡形虎口

どちらの説が正しいのか、分かりません。