久しぶりのアップです。4月、5月は野暮用が多く、なかなか史跡めぐりに出かけられませんでした。唯一福井県の一乗谷城に行きましたが、アップする時間もなく、今日に至ってしまいました。今日は岡崎のほうに史跡めぐりに出かけましたので、その記事をアップします。一乗谷城は日を改めましてアップします。
古戦場「小豆坂」のすぐ近く
諸国古城の図に「生田屋敷」というのが紹介されています。その解説文には、「本図は堀に囲まれた屋敷跡よりも、『小豆坂』という峠道を中心とした周辺地形の方が大きく描かれている。小豆坂は、天文17年(1548年)に今川義元と織田信秀が戦った古戦場であり、永禄7年(1564年)には徳川家康もここで三河一向一揆と戦っている。『駿河勢此所野二陣ヲ取由』との注記もあることから、本図は小豆坂を意識して作成されたと考えられる。」とありました。
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三河一向一揆における小豆坂の戦いは、本ブログでも紹介しました。(タイトル「小豆坂古戦場跡 岡崎市」)しかし、生田のことが出てくるのは、「信長公記」です。
天文11年(1542年)8月上旬駿河の今川義元の軍勢が三河の正田原へ攻め寄せ、陣を7段に展開した。その時、三河の安祥の城は織田信秀が守っていた。駿河勢の由原と言う武士が先陣で、小豆坂へ軍勢を繰り出した。そこで信秀は安祥から矢作へ出撃し、小豆坂で信秀の弟たち信康、信光、信実らとともに敵と接触し、一戦に及んだ。(現代語訳「信長公記」、太田牛一著、中川太古訳、KADOKAWA)
この「正田原」が生田屋敷の辺りと思われます。
行ってみると、そこは田んぼでした。そして田んぼの中に石碑が建てられていました。
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なぞ多き生田屋敷
左下に、この石碑についての説明がありました。
生田城
明和年間、生田四郎重勝が徳川家康公の姫御前が豊前の国中津藩に御輿入れになった際に附添武士として栄任され時の庄屋本間幾衛門重勝に其の後始末を一任され廃城となった。
昭和55年5月吉日
本間淳治建立
明和年間は、西暦で1764年から1772年です。徳川家康の姫御前とは亀姫ではないかといわれているそうですが、年代が合わず誰なのか不明です。
いずれにしても、生田屋敷は庄屋の本間さんに引き継がれ今日に至っているのではないかと思われます。本間淳治さんとは、庄屋本間幾衛門重勝さんの子孫ではないかと思います。
古戦場「小豆坂」のすぐ近く
諸国古城の図に「生田屋敷」というのが紹介されています。その解説文には、「本図は堀に囲まれた屋敷跡よりも、『小豆坂』という峠道を中心とした周辺地形の方が大きく描かれている。小豆坂は、天文17年(1548年)に今川義元と織田信秀が戦った古戦場であり、永禄7年(1564年)には徳川家康もここで三河一向一揆と戦っている。『駿河勢此所野二陣ヲ取由』との注記もあることから、本図は小豆坂を意識して作成されたと考えられる。」とありました。
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三河一向一揆における小豆坂の戦いは、本ブログでも紹介しました。(タイトル「小豆坂古戦場跡 岡崎市」)しかし、生田のことが出てくるのは、「信長公記」です。
天文11年(1542年)8月上旬駿河の今川義元の軍勢が三河の正田原へ攻め寄せ、陣を7段に展開した。その時、三河の安祥の城は織田信秀が守っていた。駿河勢の由原と言う武士が先陣で、小豆坂へ軍勢を繰り出した。そこで信秀は安祥から矢作へ出撃し、小豆坂で信秀の弟たち信康、信光、信実らとともに敵と接触し、一戦に及んだ。(現代語訳「信長公記」、太田牛一著、中川太古訳、KADOKAWA)
この「正田原」が生田屋敷の辺りと思われます。
行ってみると、そこは田んぼでした。そして田んぼの中に石碑が建てられていました。
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なぞ多き生田屋敷
左下に、この石碑についての説明がありました。
生田城
明和年間、生田四郎重勝が徳川家康公の姫御前が豊前の国中津藩に御輿入れになった際に附添武士として栄任され時の庄屋本間幾衛門重勝に其の後始末を一任され廃城となった。
昭和55年5月吉日
本間淳治建立
明和年間は、西暦で1764年から1772年です。徳川家康の姫御前とは亀姫ではないかといわれているそうですが、年代が合わず誰なのか不明です。
いずれにしても、生田屋敷は庄屋の本間さんに引き継がれ今日に至っているのではないかと思われます。本間淳治さんとは、庄屋本間幾衛門重勝さんの子孫ではないかと思います。