さて、武豊町ではもう一つ見たいものがあります。それは旧国鉄武豊停車場の転車台です。
愛知県の文化財のサイトによれば
転車台は、平成11年(1999)8月、武豊町立武豊小学校の5年生児童が「総合的な学習の時間」の授業の課題で、町の史跡を調べる歴史探訪に出かけた際に発見した遺構である。同年12月、小学生は学習の総仕上げとして、町長から町の歴史について話を聞いた際に保存を要望、これを契機に復元、保存の検討が始まった。転車台は、風雨にさらされ、傷みも激しかったが、小学生の声が町長に届き、平成13~14年度(2001~02)に、覆屋をかけるなど保存修理等が行われ、現在に至っている。
とのことで、なんと小学生が発見した文化財というのです。
早速行ってみると、屋根がつけられ柵に囲まれていました。
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転車台全景
柵の中には丸い転車台がありました。
転車台
この転車台は、機関車の向きを変えたり、貨物の向きを変えたりするときに使われていたようです。
明治19年(1886)、武豊線が愛知県で最初の鉄道として武豊から熱田まで開通したそうです。愛知県で最初というのは驚きでした。名古屋、東京間ではなく海と結ぶための鉄道が最初だったのです。
武豊停車場跡地の石碑
武豊線によって武豊の町は大きく変わったそうです。海外から輸入された大豆や塩を原料とするみそ・たまりなどの食品産業が飛躍的に成長したそうです。また窯業、綿布などの産業も盛んになり、地域住民の生活に大きな変革をもたらしたと資料館のパンフレットに書いてありました。
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武豊港ジオラマ 停車場跡地のすぐ横の武豊地域交流センターにありました。
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停車場跡地から見えるみそ・たまりの製造工場
しかし昭和30年代高度経済成長の時には輸送手段がトラックに移り変わる中で、昭和40年(1965)武豊港の貨物運輸業が廃止され、武豊駅と武豊港間の鉄道も廃線となったそうです。
しかし、現在は衣浦臨海工業地域の一角を担い、それなりの発展を遂げていると思われます。
停車場跡地から見える臨海工業地域の工場
愛知県の文化財のサイトによれば
転車台は、平成11年(1999)8月、武豊町立武豊小学校の5年生児童が「総合的な学習の時間」の授業の課題で、町の史跡を調べる歴史探訪に出かけた際に発見した遺構である。同年12月、小学生は学習の総仕上げとして、町長から町の歴史について話を聞いた際に保存を要望、これを契機に復元、保存の検討が始まった。転車台は、風雨にさらされ、傷みも激しかったが、小学生の声が町長に届き、平成13~14年度(2001~02)に、覆屋をかけるなど保存修理等が行われ、現在に至っている。
とのことで、なんと小学生が発見した文化財というのです。
早速行ってみると、屋根がつけられ柵に囲まれていました。
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転車台全景
柵の中には丸い転車台がありました。
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転車台
この転車台は、機関車の向きを変えたり、貨物の向きを変えたりするときに使われていたようです。
明治19年(1886)、武豊線が愛知県で最初の鉄道として武豊から熱田まで開通したそうです。愛知県で最初というのは驚きでした。名古屋、東京間ではなく海と結ぶための鉄道が最初だったのです。
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武豊停車場跡地の石碑
武豊線によって武豊の町は大きく変わったそうです。海外から輸入された大豆や塩を原料とするみそ・たまりなどの食品産業が飛躍的に成長したそうです。また窯業、綿布などの産業も盛んになり、地域住民の生活に大きな変革をもたらしたと資料館のパンフレットに書いてありました。
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武豊港ジオラマ 停車場跡地のすぐ横の武豊地域交流センターにありました。
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停車場跡地から見えるみそ・たまりの製造工場
しかし昭和30年代高度経済成長の時には輸送手段がトラックに移り変わる中で、昭和40年(1965)武豊港の貨物運輸業が廃止され、武豊駅と武豊港間の鉄道も廃線となったそうです。
しかし、現在は衣浦臨海工業地域の一角を担い、それなりの発展を遂げていると思われます。
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停車場跡地から見える臨海工業地域の工場