愛知の史跡めぐり

愛知県の史跡を巡り、その記録を掲載します。

勝幡(しょばた)城 愛西市

2015年07月22日 14時52分02秒 | 愛西市

勝幡城の石碑

勝幡城
 愛西市と稲沢市にまたがる城がありました。勝幡城といいます。勝幡城は織田信長の父織田信秀の居城です。元来、織田信長の家系は尾張地方の南のほうを治めていた清洲織田家(大和守家)の家臣の一人でした。家臣は清洲三奉行と呼ばれ、織田信長の家系は織田弾正忠家と呼ばれていました。その織田弾正忠家の館が勝幡城です。
 勝幡城の近くには津島があります。津島は戦国時代には流通の拠点だったそうです。その津島と国府があった稲沢を三宅川で結び、織田信秀はそこから巨万の富を得て、尾張の覇者になったと案内板で説明されていました。

塩畑が勝幡に
 なお、勝幡とは、もともとは塩畑で、織田氏が縁起がよい名前に変えようということで勝という字を当てて勝幡にしたそうです。なんと勝幡町の近くに「勝幡町塩畑」という地名が残っていました。

名鉄勝幡駅に展示してある勝幡城の模型。こんな模型があるとは、知りませんでした。この模型を見ると、勝幡城が水に囲まれていることが分かります。自然の地形(川など)を利用した要害であったことが分かりました。

織田信長が生まれたのは勝幡城
 勝幡城で最近話題になっていることは、織田信長が生まれたのが那古野城(現名古屋城二の丸あたり)ではなく、この勝幡城だということです。愛西市教育委員会の石田泰弘さんという方が、山科言継の日記「言継卿記」や「尾州古城志」などの記述をもとに、那古野城では年代が合わず、「尾州古城志」に勝幡城で生まれたとの記述があることから、勝幡城生誕説を唱えました。

町おこし
 勝幡町では、織田信長が生まれた町として町おこしをしています。名鉄勝幡駅は再開発され、駅の外に信長の父である織田信秀と母である土田御前が信長を抱いている像が建てられていました。

また、信長のオブジェもありました。「水郷の吉法師」です。


勝幡は頑張っていました。今も昔も商魂がたくましいなあと思いました。

奥津神社 愛西市

2015年07月21日 17時58分39秒 | 愛西市
 梅雨が明けて大変いい天気が続いています。学校は夏休み。なんか開放感があります。
今日は愛知県の西のほうを訪ねました。

奥津神社

奥津神社
 奥津神社というところに行きました。奥津神社は昭和51年(1976年)に3面の鏡が紹介されたことで有名になったそうです。その鏡とは三角縁神獣鏡だそうです。三角縁神獣鏡は、邪馬台国の卑弥呼が中国の魏という国からもらってきた鏡として有名です。ただし奥津神社の神獣鏡は伝来が明らかではないので、そのまま卑弥呼のものというわけではありません。

元古墳
 この神社は、実は古墳らしいです。直径25m、高さ3.3mの円墳らしいです。3面の神獣鏡はこの円墳から出土したものらしいです。それを神社がずっと保存していたらしいです。鏡は現在熱田神宮に納められているそうですが、3つのうち、2つは京都にある古墳から出土したものと同型のものだそうです。京都と尾張に何か関係があったようです。

神社の境内の北側の様子。右のほうに盛り上がっています。神社は頂上付近を平らに削ってつくられたのではないかと思います。

大聖寺城 石川県加賀市

2015年07月18日 22時07分17秒 | 石川県
加賀市に用事がありましたので、ついでに大聖寺城を訪れました。

大聖寺城とは
 案内掲示板によれば、築城は南北朝以降で、加賀の一向一揆でも登場しているそうです。織田信長の後、戸次広正、拝郷家嘉、柴田勝家、山口宗長(小早川秀秋の重臣だそうです)と続きました。山口宗永は慶長5年(1600年)の関が原の戦いで豊臣方につきましたが、金沢の前田利長(徳川方)に攻められ、討ち死にしてしまったそうです。

本丸跡に建てられていた山口宗長の石碑

 寛永16年に大聖寺藩が成立しましたが、前田氏は徳川に遠慮してこの城を再建せず、ふもとに館を造ったそうです。


現地案内板


ふもとの館があったとされる加賀聖城高校


本丸櫓台跡


櫓台から背後に伸びる土塁、本丸を防御しています。


馬洗い池


本丸と二の丸との間の堀切、右側の階段を上ると二の丸があります。

ということで、今回は時間も少なかったので、ここまででした。次回来るときは樹木の葉がない早春にしたいです。

日近(ひぢか)城 岡崎市

2015年07月12日 14時39分51秒 | 岡崎市

日近城の堀切

 久しぶりのお天気に恵まれました。今だ!と張り切って史跡めぐりを敢行しました。目的地は、岡崎市の日近城です。しかし、やはり夏場の山城はきつい、暑いです。登城口から曲輪1までほんの10分から15分程度なのですが、息があがってしまいました。

日近城とは
 「愛知の山城ベスト50」によれば、築城は文明年間で、作手(つくで)にいた奥平貞昌が西への進出の拠点として造ったようです。城はそのあと、弟の貞直が営んだようです。奥平氏といえば、長篠城を武田勢から守ったあの奥平氏です。そのときの武将は奥平信貞です。(系図右端)日近城の祖奥平貞直は、信昌のおじいさんの弟になります。(ただし、広島城「諸国古城の図」の日近城のコメントでは、「貞昌の子直定が」日近奥平氏の始まりとしています。)


登城口

 日近城の南東に広祥寺というお寺があり、それを過ぎてすぐに案内の看板がありました。ここが登城口です。この看板のすぐ上は、駐車場でした。しかし、登ってみると、道は猪の侵入を防ぐ柵や網で何箇所も遮断されていました。たまたま地域の方が見えて、通らせていただきましたが、もし地域の方がいなければ、断念しなければなりませんでした。
 降りてから気付いたことですが、広祥寺の墓のほうからは、階段が設けられており、遮蔽するものがなく、すんなりと登ることができそうでした。

日近城全景、左は広祥寺

おふうの墓
 さて、城に登る前に「おふうの墓」を参拝しました。おふうとは、日近奥平2代目貞友のむすめです。人質として武田氏にとらわれていましたが、奥平貞友が家康側についたために武田方によって鳳来寺で処刑されてしまったそうです。さらし首となっているのを奥平の家臣がひそかに持ち帰り、この地に葬ったそうです。

向かって左がおふう、真ん中がおふうの祖母貞子、右が仙千代(宗家の子ども)


日近城縄張り図、「愛知の山城ベスト50」作図 高田徹氏)

曲輪Ⅰまでは、短い距離でしたが、暑さのために何度か足を止めていきました。

曲輪Ⅳ

とても小さな曲輪でした。

曲輪Ⅲ

やや大きい曲輪でした。

虎口


上の図で、虎口Bか虎口Cにあたります。線で囲ったところは大きな石です。

曲輪Ⅰ
この虎口を入っていくと、曲輪Ⅱ、曲輪Ⅰに着きます。

曲輪Ⅰは小さな神社になっていました。右の常夜灯、案内板の後ろは、土塁になっています。ずっと、曲輪Ⅰの半分ほどを巡っていました。


曲輪Ⅰにあった案内掲示板

堀切
曲輪Ⅰから降りて曲輪Ⅴのほうに行きますと、曲輪Ⅰから南に伸びている土塁がありました。そして、土塁を降りて、堀の底を北へ上がっていくと、その土塁と曲輪Ⅰを遮断する立派な堀切がありました。(図の堀切H)

堀切H(右が曲輪Ⅰ、左が土塁)

ということで、暑い中、日近城を見学しましたが、なかなか立派な山城でした。しかし、暑いときは山城は避けたほうがよさそうです。

鎌倉街道 小浜(駒場)の里 豊田市

2015年07月10日 14時46分31秒 | 豊田市
雨が続いています。梅雨らしい梅雨の季節になっています。なかなか、史跡めぐりに出かけられません。そこで、日ごろの生活の中で見つけたことをアップします。

鎌倉街道の幟
豊田市に駒場小学校という学校があります。今朝その門の前を通りかかったところ、下のような幟が立ち並んでいました。

右が小学校、小学校の前の歩道に幟が立っていました。

「鎌倉街道 小浜(駒場)の里」と書いてありました。

鎌倉街道とは
鎌倉街道については、この学校の門に看板が立てられていました。

この看板によると、この学校の前の道は、鎌倉街道であったこと、江戸時代までこの当たりは「小浜」と呼ばれていたこと、「銭太鼓」という伝統芸能が鎌倉街道のおかげで伝わっていることなどが書かれていました。

駒場の由来?
しかし、この学校は知立市に近く、池鯉鮒(知立)の宿に差し出すための馬の市が近くにあったことから、「駒場」という地名になったと聞いていました。
この幟「鎌倉街道 小浜(駒場)の里」という文字からは、駒場の地名が「小浜」(おばま、こばま、こはま)から変化して付けられたかのような印象を受けました。

どっちが本当か、もしかしたらどっちも本当かもしれません。ぜひ調べたいものです。