愛知の史跡めぐり

愛知県の史跡を巡り、その記録を掲載します。

七尾城(3) 石川県七尾市

2020年01月22日 05時58分08秒 | 石川県
安寧寺跡より先は行きづらかったので、戻ることにしました。二の丸、三の丸の曲輪群より一段低いところに道がありましたので、その道を通って行きました。途中、寺屋敷跡がありましたので、そちらも見てみることにしました。そこには、小さな山がありました。雑草を積んでできた山なのかと思いましたが、後でパンフレットで調べてみますと、寺屋敷跡にその小山の絵が描かれてありました。一体何でしょうか。疑問です。

寺屋敷跡の小山

二の丸とその曲輪群を見た後に本丸に行きました。


本丸を下から見る 本丸は、三段の石段がありました。

また、本丸に上がる階段は石段になっていて、右側は登り石塁のようになっていました。

本丸への階段

本丸からの展望は抜群でした。特に、七尾湾が見え、絶景でした。畠山氏は、日本海の様子が城から手に取るように見えていたのだと思いました。

本丸から七尾湾を望む


本丸の城山神社

神社に向かって右手には大きな土塁がありました。ただし、この土塁は外枡形虎口の一部でした。

本丸西の土塁


本丸西の外枡形虎口
写真の左側の土塁が本丸内側から見た先の土塁です。土塁の外側は石垣が貼られています。写真は本丸の外から写しています。


本丸外枡形虎口の一部、石垣の様子

本丸の横には素晴らしい枡形虎口がありました。

最後、外枡形から西の丸に行ってみましたが、西の丸は草原で未整備でした。残念

西の丸

七尾城 おしまい

七尾城(2) 石川県七尾市

2020年01月21日 06時50分00秒 | 石川県
本丸には行かず、右の方の遺構を先に見ることにしました。調度丸の上が桜馬場で、そのさらに奥が温井(ぬくい)屋敷跡です。温井とは、重臣の名前です。七尾畠山氏の重臣は他に遊佐氏、長氏と言った人がいます。北から越後の上杉氏、南から織田氏が迫ってくる中で、いろいろな戦いが繰り広げられたようです。一言では言い表せないので、今回はパスです。


温井屋敷跡

温井屋敷は、城への虎口のすぐ近くにあったようです。温井屋敷のすぐ近くに九尺石がありました。1尺は約30cmなので、9尺では2m70cmそんなの大きいとは思いませんが、大きな石であることは間違いありません。
ここに上がる城道もあるので、この九尺石のあるところは、城の虎口で、この石は鏡石だったのかも知れません。そうすると、温井氏はこの七尾城の中で正面の虎口を守る大切な場所に位置していたことになります。逆に言えば、畠山氏の信頼が厚かったとも言えます。


九尺石

九尺石から戻ると、二の丸、三の丸への道が続きます。

二の丸へ

珍しいことですが、二の丸に「史跡 七尾城跡」と銘打った案内板がありました。全体的な案内板は普通は本丸に一つあるだけなのですが、七尾城では、二の丸に全体の案内板があり、特にここでは二の丸について詳しく述べられていました。


二の丸の案内板

二の丸から三の丸にかけては、大きな堀切がありました。


二の丸と三の丸の間の大堀切


三の丸

三の丸の先には安寧寺跡がありました。安寧寺跡には、畠山氏の墓碑がありました。


畠山氏の墓碑

七尾城 つづく

七尾城(1) 石川県七尾市

2020年01月20日 07時25分10秒 | 石川県
次の日は、七尾城に行くことにしました。七尾城は、有名なお城で日本100名城にも名を連ねています。名門畠山氏の支流によって16世紀前半につくられた城です。天正5年(1577)に越後の上杉謙信に攻撃され落城しました。

七尾城に登るには、下の資料館のあたりから登る方法と車で本丸近くの駐車場まで行く方法と2通りあるそうです。私は時間の関係で、後者の車で駐車場に行く方法を選択しました。


七尾城復元図
上の図で駐車場は右側の長屋敷のところになります。赤い字で「現在地」と書かれているところです。本丸めざして進もうとすると、さっそく左側に堀切が見えました。

長屋敷と本丸の間の堀切

堀切を横目に見ながら道に沿って登っていきますと、調度丸に出ます。そしてここから石垣が見えます。素晴らしい石垣です。「本丸」、「桜馬場」、「温井屋敷」の下の石垣だと思いますが、三方から石垣が囲み、来城者を圧倒したものと思われます。


調度丸から見る石垣


大手道から見上げる石垣

この石垣はおそらく下の城下からも見えていたのだと思います。畠山氏の権力を誇示するに余りある石垣だと思いました。



調度丸から大手道を見下ろす

調度丸から大手道を見下ろすと、遠くにかすかに下の様子が見えます。つまり、下からもこの三つの壁のような石垣が、しっかり見えていたのではないかと思います。

石垣

石垣は段々になっています。こういう造り方は、小牧城で見られます。先日行った若狭の国吉城の石垣も段々になっていました。技術的に高石垣が造れなかったので、このように段状にしたのですが、下からあるいは遠くから見れば1枚の大きな石垣の壁に見えます。敵には、この七尾城が高い、大きな石垣で守られているという印象を与えた事でしょう。

七尾城 つづく

大聖寺城 石川県加賀市

2015年07月18日 22時07分17秒 | 石川県
加賀市に用事がありましたので、ついでに大聖寺城を訪れました。

大聖寺城とは
 案内掲示板によれば、築城は南北朝以降で、加賀の一向一揆でも登場しているそうです。織田信長の後、戸次広正、拝郷家嘉、柴田勝家、山口宗長(小早川秀秋の重臣だそうです)と続きました。山口宗永は慶長5年(1600年)の関が原の戦いで豊臣方につきましたが、金沢の前田利長(徳川方)に攻められ、討ち死にしてしまったそうです。

本丸跡に建てられていた山口宗長の石碑

 寛永16年に大聖寺藩が成立しましたが、前田氏は徳川に遠慮してこの城を再建せず、ふもとに館を造ったそうです。


現地案内板


ふもとの館があったとされる加賀聖城高校


本丸櫓台跡


櫓台から背後に伸びる土塁、本丸を防御しています。


馬洗い池


本丸と二の丸との間の堀切、右側の階段を上ると二の丸があります。

ということで、今回は時間も少なかったので、ここまででした。次回来るときは樹木の葉がない早春にしたいです。

金沢城(7) 石川県金沢市

2015年06月28日 07時51分04秒 | 石川県


河北門
兼六園はパスをして、石川門から河北門、大手門のほうに行きました。

三の丸北園地から河北門を見る

河北門は枡形門で、門を入って右に折れますと、下り坂になっています。その坂が河北坂です。大学があった頃は、その坂を降りるとグランドがあり、左に折れて教養部、理学部があったように思います。右に折れると体育館がありました。今は新丸広場と呼ばれているところです。

河北坂の下から河北門を見る。
写真の右側の石垣は大学があった頃にも存在していたように思います。

戦争の跡
さて、場内の案内ボランティアさんの話によると、戦時中にここが陸軍の駐屯地になっていたわけですが、この河北門が曲がっているのが、よくないということで真っ直ぐにしてしまったそうです。大学があったときには門はすでになく、坂しかありませんでした。そういえば、本丸跡を見学したとき、戌亥櫓跡の近くに怪しいトンネルがありました。

怪しいトンネル

これもボランティアさんにお伺いしたら、陸軍が弾薬庫に使っていたようだといっていました。これは本丸跡の一部なので、見事に遺跡が破壊されてしまいました。戦争中だから仕方がないのか、戦争中でもやっていいことと悪いことはあるか、議論の余地はありそうですが、戦争によって文化が破壊されることは、間違いなさそうです。

大手門

石垣として残っていました。この石垣の対面にもう一つ石垣があり、門であることが確認できます。この門の外は、公園の外になります。