愛知の史跡めぐり

愛知県の史跡を巡り、その記録を掲載します。

新年

2024年01月02日 07時43分27秒 | 日記
2024年が始まりました。
元旦早々、北陸地方で大変なことが起こりました。被災された皆様が一日も早く救助され、避難されることを祈っています。また、亡くなられた方には、心よりご冥福をお祈りします。

あけましておめでとうございます

2023年01月14日 09時38分05秒 | 日記
あけましておめでとうございます
2023年もよろしくお願いします

「どうする家康」を見ました。
令和の世の中でしかやれないことだとびっくりです。
東照大権現、神君家康公を「弱虫で泣き虫」と。ままごとばかりしている。大高城ではひとり逃亡を図ろうとする。
ありえないです。江戸時代にこんなことを書いたら、市中引き回し、獄門縛り首、さらし首です。
私は、家康に対して特に思い入れはないので、別にどうでもいいのですが、「桶狭間の戦い」については、ちょっと思うところがありました。
①兵糧入れを5月19日とし、同時に丸根砦への攻撃を行っています。しかし、兵粮入れと丸根攻めは同時ではないようです。
「信長公記」では、「今川義元討死の事」の項において、
「今川義元沓懸に参陣。十八日夜に入り、大高の城へ兵粮入れ、」
「案の如く、夜明けがたに、佐久間大学・織田玄蕃かたよりはや鷲津山・丸根山へ人数取りかけ候由、追々御注進これあり。」
「辰の刻に源太夫殿宮のまへより東を御覧じ候へば、鷲津・丸根落去と覚しくて、煙上がり候。」
「天文21年5月19日、午の刻(中略)今度家康は朱武者にて先懸をさせられ、大高へ兵粮入れ、鷲津・丸根にて手を焼き、御辛労なされたるに依って、人馬の息を休め、大高に居陣なり。」

つまり、18日に兵糧入れは終わり、19日は早朝に丸根砦を攻撃し、朝8時ごろには丸根砦は落ち、お昼ごろに家康は大高城で休息をしていたことになります。
ただし、「信長公記」にいう、先に兵糧を入れて後で丸根を攻めたというのは現実的ではなく、ドラマのように、先に丸根を落してから兵糧入れをした方が合理的です。

②甲冑を金色にしていましたが、上記にあるように家康は「朱武者」だったので、金色の甲冑ではないと思います。
③雨ののさなかに義元の討死が大高城に知らされていますが、雨は一時のものだったように思います。
「(信長の軍が)山際まで御人数寄せられ候ところ、俄に急雨、石氷を投げ打つ様に、敵の輔(つら)に打ち付くる。(中略)空晴るるを御覧じ、信長槍をおつ取つて、大音声を上げて、すは、かかれ、かかれと仰せられ、(後略)」

つまり、義元は空が晴れてから討ち取られているのです。

以上、視聴者の方に誤解があるといけないので、十分検討してほしいと思いました。
しかし、大高城の堀の描写は素晴らしくて、現地を見ていると思いました。

大高城の堀跡

お城ブームは中学生、小学生にも 日記

2022年10月02日 14時12分46秒 | 日記
10月2日の中日新聞投稿欄です。

中学生の投稿

出だしが素晴らしいです。「城を見て、皆さんは何を感じられますか」もうすでに城の専門家の雰囲気が漂っています。そして天守閣や石垣の話を縷々述べられて、最後に「城は見た目が美しいだけでなく、いにしえを現代に伝える大切な証人でもあるのです」と、城の歴史的価値を立派に述べられています。中学生にして、ここまでお城を深められているとは驚きでした。また、名前からすると女性の方でしょうか。ひと昔前は、城めぐりは隠居したおじいさんの趣味のように思われていましたが、城ブームの広がりは目を見張るばかりです。「城ガール」は若い?女性の方でしたが、今は小学生、中学生まで広がりを見せています。私も城めぐり愛好家としてがんばらないと、と思いました。


金ヶ崎城見学会にも小学生の城マニアが参加していました。

散歩

2020年05月08日 06時30分28秒 | 日記


コロナで、外出自粛です。
近くの公園を散歩しました。
鳥の声がさわやかだったので、思わず録画してしまいました。
よく聞いていると、カエル(ウシガエル?)の声も聞こえます。
子どもの声は、休校になって行くところがなく公園で遊ぶ子たちの声です。
遠くに見える桜の木の向こうに広場があります。

池に生えているのは、ススキです。人影はあまりありませんでした。
午後4時ごろです。
癒されました。

東海地方で金の製造? 中日新聞

2020年01月23日 05時52分22秒 | 日記

中日新聞1月22日の記事

1月22日の中日新聞に戦国期に関する記事がありました。東海地方でも戦国期に金の製造の跡があったというのです。その場所は、清洲遺跡、鷺山遺跡(岐阜県)、多気北畠遺跡で、そこで出土したるつぼやとりべを調べた結果、それらの土器に金や銀の粒子が丸い形で付着しているのが発見されたそうです。
調査した人は、「戦国大名が近世の大名へと変貌する過程を調べる上で、信長らを生んだ東海地方で金属加工を確認できたことは意義深い」と話しているそうです。近世への時代の変遷と金の製造がどういう関係があるのか、そもそも近世の大名とは何なのかと考えさせられるコメントでした。