愛知の史跡めぐり

愛知県の史跡を巡り、その記録を掲載します。

諸輪(もろわ)城 東郷町

2018年03月31日 14時02分42秒 | 東郷町
世の中はすっかり桜の季節になりました。

近くの神社の桜(3月26日撮影)

3月31日、東郷町に出かけました。
諸輪(もろわ)城です。
諸輪城は北、中、南の3つの城があったそうです。

諸輪北城
丹羽氏識(うじさと)の隠居後のお城だそうです。
丹羽氏識は、小牧・長久手の戦いで徳川家康側について、豊臣秀吉軍と戦った丹羽氏次・氏重兄弟のおじいさんに当たります。丹羽氏識は、岩崎城の城主でした。当時から徳川家康側についていて、織田信長と対立していました。しかし、織田信長と徳川家康が同盟を結んだ後に、隠居してこの地に来たそうです。

丹羽氏系図(抄)ウィキペディアより作成

横山の戦い
さて、この丹羽氏識には、叔従父丹羽氏秀との戦いがありました。丹羽氏の本家争いです。当時藤島城に居た叔従父の丹羽氏秀は、織田信長に味方していて、徳川家康に味方していた丹羽氏識を倒そうとしたそうです。織田信長は、丹羽氏識のいる岩崎城を目指して攻めてきましたが、丹羽氏識・息子の氏勝は横山のあたりに待ち伏せして、織田信長の軍を散々な目に合わせたそうです。織田信長軍は、今の赤池から平針の方面へ逃げ散ったそうです。また、丹羽氏秀は豊田の広美のほうに去ったそうです。
この戦いは、丹羽氏の記録「丹羽氏軍功録」にはありますが、「信長公記」にはないそうです。織田信長にとって負け戦なので書かれなかったのだろうということです。
(「岩崎城だより」 NO3 館長の話 より)

藤島城
ついでなので藤島城にも行ってきました。

藤島城跡の石碑

石碑をじろじろ眺めていましたら、地域の方に話しかけられました。そしていろいろと教えていただきました、「この石碑は、お屋敷の南端で北側にもっと大きな屋敷が広がっていた。藤島というのはもともとは福井のほうから来たと言われている。福井にも藤島城というのがある。織田氏が福井から来た時に、この城の人も一緒に来たのではないか。」
というものでした。この城の丹羽氏秀が織田方に与していたことと話が合います。福井に藤島という地名があることも間違いないことです。(有名な藤島高校もあります)おじさんの話に大変興味を持ちました。

上城保育園
話を戻して
諸輪北城は、現在は上城保育園だそうです。

上城保育園

桜が満開でした。上城というのは、おそらくここに城があったということから付けられたのではないかと思います。上というのは、上市の上だと思います。というのは、3つ城に呼応するかのように北城に上市、中条に中市、南城に下市という集落があるのです。なので、上市の上と北城の城を合わせて「上城」となったのではないでしょうか。あくまでも想像ですが。

上城保育園は写真のように階段で登っていくほどの高台にあり、城があったことの痕跡が残っていました。

諸輪中城
次に中城があったという清安寺に行きました。中城も丹羽氏識の隠居後のお城のようです。

清安寺 残念ながら本堂は工事中で足場と青いシートでおおわれていました。

この寺は「道休山 清安寺」と言います。道休というのは、丹羽氏識が隠居した時の名前です。これにちなんで道休山というそうです。痕跡はないかとぐるっと歩いて回りましたが、見つかりませんでした。

諸輪南城
最後は南城があったという尾三消防署です。
諸輪南城は、丹羽氏ではなく柘植道昌という人が築城したようです。今は尾三消防署です。

尾三消防署

豊原三千坊 福井県坂井市

2018年03月26日 14時49分41秒 | 福井県
お久しぶりです。
季節もよくなり、暖かくなりました。
今年の冬は北陸や東北ですごい雪が降り、寒い冬でした。

さて、3月25日(日)若越城の会で見学会がありましたので、はるばる出かけて参加しました。
丸岡インター近くの「豊原三千坊」というところです。
豊原寺は、パンフレットによれば、
大宝2年(702)、泰澄大使によって開かれたそうです。泰澄大師と言えば白山平泉寺を開いたのも泰澄大師でした。平泉寺とゆかりのあるお寺のようです。戦国時代には、一向一揆の拠点となったため、織田信長に焼き払われたそうです。織田信長の家臣柴田勝家の養子である柴田勝豊が丸岡に城を築いたときに山から下りたそうです。それまでの場所には「華蔵院」という建物が残ったそうです。明治の神仏分離により廃寺となり、白山神社だけが残ったそうです。


豊原三千坊案内掲示板


豊原三千坊資料館

資料館で、館長(?)さんの豊原さんからいろいろ説明を聞きました。
中にはいろいろな仏像や資料がありました。

薬師如来像(パンフレットより)


阿弥陀如来像(パンフレットより)

この資料館は、豊原さんが自分のお金で建てられたそうです。
市からの助成は、ここにある文化財を修復するときにだけ出るそうです。
ここにある仏像もかなり傷んでいて、修復が必要だとおっしゃっていました。
それにしても、文化財の維持管理にもたくさんお金を出してほしいと思いました。

予定では資料館見学で終了でしたが、せっかくなので周りを散策することになりました。
豊原さんにガイドをお願いしました。

ずんずん登っていきますと、最初に見えたのが豊原の滝でした。
ここで修業をしたそうです。

豊原の滝

さらに登っていくと、集落跡がありました。
豊原さんは小さいとき、ここに住んでいたそうです。
しかし、今は誰も住む人はおらず、家もありません。
一部は、キャンプ場になっていました。
この集落ももっと昔は、豊原寺の門前町でした。

その中心辺りに「延命地蔵堂」という建物がありました。

延命地蔵堂 中を覗いてみましたが、保護のための青いシートに覆われていて、地蔵様を拝むことはできませんでした。

集落の跡地を進んでいきますと「豊原寺跡」という看板がありました。
ここが最後まで残っていたという「華蔵院」のあった場所です

豊原寺跡 写真の右手奥がが華蔵院跡です。

さらに奥へと進んでいきますと「閼伽井(あかい)」という泉がありました。
飲むと不老長寿になるそうです。

閼伽井 実際に城の会の人たちが飲んでいました。私も飲みました。

最後に、豊原寺が丸岡に下りるまであった旧白山神社の後に行きました。

白山神社(旧)

建物の左右にはたくさんの石仏がありました。観音様でした。

白山神社の石仏

なお、神社なのに、どうして石仏があるのかと言えば、昔は本地垂迹で日本の神社の神様は、仏教界の仏や菩薩、天、明王などの化身と考えられていたからです。