愛知の史跡めぐり

愛知県の史跡を巡り、その記録を掲載します。

小牧山城見学会(2) 小牧市

2020年10月30日 06時47分45秒 | 小牧市
曲がりくねった上半分の大手道を行くと、大きくえぐられて、壁になっているようなところに出ました。もともとは石垣が貼ってあり、大手道を登ってきた者に見せる目的で造らせたそうです。ここでも、「見せる」城の遺構がありました。

本丸に造られた石垣の壁の跡

本丸の頂上の方に登っていきますと、模擬天守への階段の脇に石垣の跡がありました。裏込石がそのまま見えています。

露出している石垣の跡

模擬天守の入口に銅像がありますが、その下の大きな石は、花崗岩だそうです。他の石垣の石は、小牧山にあるものを切り出していますが、花崗岩は小牧山にないので、どこかから運んできたものと考えられています。どのようにして運んできたのか、謎になっているそうです。現在は、二つに割られています。

2つに割られている花崗岩

模擬天守ですが、モデルにした建造物は、京都の西本願寺飛雲閣だそうです。名古屋市在住の平松茂(故人)が私財を投じて建設したのだそうです。ので、瓦に平松さんの紋が彫ってあるそうです。

模擬天守瓦の平松氏紋

模擬天守を後にして、下っていきました。途中徳川家康による竪堀がありました。かなり深くえぐってありました。

小牧山中腹の竪堀

また、石垣のために使った石の石切り場もありました。

石切り場

この後、「れきしるこまき」の展示物を見て、見学会は解散しました。

小牧城は、現在発掘調査が継続中で、特に信長の遺構が多く見つかっています。以前は、岐阜攻めの砦のような位置づけでしたが、今は、本格的な城下町をめざしていたこと、また岐阜、安土につながる城づくりの原点であることが判明しつつあるそうです。小牧山城は、目が離せません。

小牧山城見学会(1) 小牧市

2020年10月29日 08時18分40秒 | 小牧市

見学会に参加する桶狭間保存会

10月25日、桶狭間古戦場保存会の主催する小牧山城の見学会に参加しました。小牧山城を案内してくれたのは、名物ガイドと言われる鵜飼公俊さんでした。名物ガイドと言われるだけのことはあり、大変楽しい案内をしていただきました。

最初に訪れたのは、「れきしるこまき」という展示館です。昨年の4月にオープンしたばかりの新しい展示館です。小牧山城は、石垣の発掘など近年発掘調査が盛んに行われています。そうした近年の発掘調査での成果を展示する施設のようです。

「れきしるこまき」


城下町小牧を説明する名物ガイドの鵜飼さん

小牧が、信長によって城下町として整備されていたことを説明していただきました。紺屋町とか鍛冶屋町のように、一箇所に同じ業種の手工業者を集めていたそうです。また、まちのインフラとして下水道が造られていたということでした。

「れきしるこまき」を出た後、小牧山の南側に大きな土塁が見えました。

大きな土塁

この土塁は復元ですが、徳川家康が、豊臣秀吉と初めて戦った「小牧・長久手の戦い」の時に造ったものです。

次は、大手道を登ります。大手道は、はじめ真直になっています。

大手道を中間点から見下ろす

大手道はなぜまっすぐか
ガイドさんに、「大手道はどうして真直なのか?」と質問しました。すると「それはね、見せるためだよ。この道の先に立派な御殿があって、それを城下町の人々に見せることが目的なんだよ」と教えてくれました。

以前読んだ、「信長の城」千田嘉博2003では、このことについて、以下のように述べていました。
「直線的な大手道は防御を考えていないので、戦うことを考慮していなかった宮殿的な城と評価する説があります。そうすると小牧山城も宮殿的な城だったということになります。しかし、城をそのように評価することは間違いです。」

では、どうして真直なのか。
千田氏の説を要約すると、真直な大手道は、山の中腹、山麓に住まわせた家臣たちの連絡道を兼ねていた。また、家臣たちの住居は、中心(信長)に対して防除性が弱く造られていた。これに対して、中心部、つまり信長の居住空間は、大手道がまがりくねり、石垣で固め、かなり防御性の強い空間となっている。信長は、これまでの家臣と信長との関係性を変え、中央集権的な関係を築こうとしたと言います。
「家臣の屋敷があった山麓・山腹では、意図的に防御性の弱い直線道として大手道を建設し、信長がくらした中心部分だけを防御性に富んだ屈曲した大手道にしたのです。」(「信長の城」千田嘉博2003)

しかし、今回のガイドさんの説明で「見せるため」とのことでした。安土城では、確かにそういう要素があったかもしれません。また、天皇行幸を視野に入れて大手道を直線にしたことは考えられます。小牧城の段階で信長にそうした発想がすでにあったのでしょうか。また、直線の大手道の先は竪堀があるだけで、建物はありません。疑問が残りました。

信長は城に住んでいたか
信長が小牧山のどこに居住していたかということでも、あっさり、「麓の信長館でしょう。山頂に住むことは考えにくい。」と、山上での居住は否定されました。この千田嘉博氏の本でも、NHKの番組でも信長は、小牧山城、岐阜城、安土城で山の頂上に暮らしていることになっていたように思います。また、ガイドさん自らが案内してくれた上半分の屈曲した部分の大手道の発掘調査から道に排水溝が設けられていることが分かったそうです。そこから、案内板には、「この調査結果からも長期間の在城を前提として築かれた本格的な城であったことがうかがわれます。」と書かれており、信長が山上の館に住んでいたことがうかがわれます。ガイドさんの説明に疑問が残りました。

大手道の説明版

石田三成ゆかりの地 滋賀県長浜市石田町

2020年10月23日 09時12分00秒 | 滋賀県
横山城は道を間違えて、延々と北上しましたが、疲れてきましたので、途中で降り、山の西側に出ました。出た集落は、垣籠(かいごめ)町でした。このあたりは、用水の水がとてもきれいで、ウグイの子どもが用水に群れて泳いでいました。
しばらく南下していますと、堀部という集落に入りました。すると「石田大師堂」というお堂がありました。もう、この辺から石田三成の雰囲気が出てきていました。向かいの柱には、直江兼続の説明板がありました。

石田大師堂

直江兼続の説明柱

この辺りでは、石田町だけでなく、近隣の集落も石田三成の顕彰に参加しているようです。

いよいよ石田町です。ここが、石田三成の生誕地だそうです。石田会館で学習しようと意気込んで入口まで行きましたが、「コロナのため休館」ということでした。二つ目の失敗です。もっと下調べをしっかりしなくては・・・
しようがないので、会館の外にあった顕彰碑を見て帰ることにしました。

石田会館


石田三成顕彰碑

横山城(2) 滋賀県長浜市

2020年10月22日 07時59分39秒 | 滋賀県
曲輪の周りには土塁の跡が見受けられました。

曲輪南側の土塁跡

そして、北城へ通じる道の始まりに井戸跡がありました。安全のため、柵で囲ってありました。よっぽど深い井戸なのでしょう。

井戸跡

また井戸のすぐ近くから北東方向に大きな竪堀がありました。

竪堀

南城から北城へは少し登りになっていました。北城が横山城で一番高い所になると思います。312mです。

北城から伊吹山を見る

この眺めは壮大でした。伊吹山と横山の間の集落も見え、最高でした。また、西の方には長浜市の町並みが見えました。

北城から西を見る

このあと大失敗で西側の道に入るべきところを北側の道に行ってしまい、南西側の曲輪や堀切を見ることができませんでした。残念でした。

横山城 おしまい

横山城(1) 滋賀県長浜市

2020年10月21日 11時31分03秒 | 滋賀県
お久しぶりです。コロナ禍の中、ついつい出かけることがおっくうになっていました。しかし、知人がいろいろと山城の散策を行っていることで、何かせかされているような気がして、とりあえず、滋賀県の横山城を訪ねました。
ということで、あまり下調べをせずに行ったので、いくつか失敗をしてしまいました。

出発は横山城のふもとのお寺大原観音寺です。

大原観音寺山門

山門前の池の横を通り、山に入りました。すると、すぐに道が三つに分かれていましたので、真ん中の道を行きました。

横山城の登城路(滋賀県教育委員会「近江城郭探訪」2006より)

かなり急な(私にとって)登り坂の山道でした。しかし、なかなか着きません。感覚としては、上の図の大原観音寺の北を登るコースを選んだつもりでしたが、途中で石田町からのコースとぶつかってしまいました。

峠の道

この峠の道から頑張って歩いてようやく横山城の南城が見えました。横山城は、南城と北城があり、北城から南西に曲輪が延び、Yのような形になっています。

横山城概要図(現地案内板)

曲輪の中に大きな梵鐘がありました。

南城の梵鐘

この梵鐘は、下の大原観音寺の案内板によると、以下のようです。
「昭和初期に昭道が玉泉院で僧となり、修行托鉢に毎日出かけ信者の方に懇願し、荒れた城跡の整備に力を入れ、昔を偲んで梵鐘を寄進し、三尊佛及び登山道~城跡~下山道に33体の観音様を祭られました。
 この梵鐘は、昭和12年に朝日区民の大人から子供までが総出でソリに乗せ城跡まで運んだそうです。
 戦時中に寺の鐘は全て軍の命令により国家に強制的に供出させられ、色々な兵器に使用されましたが、歴史ある古い観音寺の梵鐘は供出からまぬかれました。心配された城跡の梵鐘は、昭道和尚が
「戦没した武士の霊と他国との戦争で戦死した軍人の霊を誰もが鐘をついて冥福を祈り追弔するための梵鐘」と強く主張され同じく供出から免れ今日に至っています。
 梵鐘堂は、三十数年前に朝日区民により一度修復されたそうですが、倒壊寸前と傷みが激しくなったため改修(建替え)工事を行いました。 平成26年10月吉日」

「観音寺山を愛する会」による説明です。

この梵鐘が戦争の兵器にならずに済んでよかったと思います。人々の安全や平和を祈るための梵鐘が、真反対の人を殺傷する武器になるという、戦争の狂気を改めて見た思いでした。