愛知の史跡めぐり

愛知県の史跡を巡り、その記録を掲載します。

霧の犬山城

2024年02月26日 05時36分18秒 | 犬山市
2月20日、愛知県地方は濃霧に覆われました。
そんな中、一枚の写真が友人から送られてきました。
犬山城です。
まさに天空の城です。
ちょうどテレビで霧の中に浮かぶ犬山城が紹介されたばかりで、
「まさか、放送の翌月に本当におきようとは思いませんでした。」
とのことでした。
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桃太郎神社 犬山市

2017年10月09日 06時38分09秒 | 犬山市
10月8日、犬山方面に用事がありましたので、ついでに「桃太郎神社」に行きました。
先日テレビで桃太郎伝説は、岡山だけではない、日本各地にあるということで、愛知県の桃太郎神社と四国の桃太郎伝説の地が紹介されました。
そこで、一度行ってみようと思いました。

桃太郎神社は、先日出かけた「木曽川鵜飼」の渡し場の少し上流にありました。

桃太郎神社の位置(Googleマップより作成)

神社に着くと道沿いに大きな鳥居がありましたが、鳥居の下には、サルが座って出迎えていてくれました。

桃太郎神社の鳥居

鳥居をくぐると右側に岩があり、なんとおばあさんが洗濯をした時の足跡が遺っている岩だそうです。

おばあさんの足跡が遺っているという岩

上から見たかったのですが、柵があって入れませんでした。

参道の右手には、なにやら銅像がありました。

桃太郎神社の創建者、川治蘇山という人の像

像の後ろに、「明治27年1月2日栗栖に生る。犬山観光開発の先駆者にして此地に公園を設け桃太郎神社を祭祀す。昭和48年1月吉日建立」とありました。

ネットで調べると、この桃太郎神社は、川治蘇山こと川治宗一さんが栗栖の村をなんとか発展させたいと、桃太郎神社を造ったそうです。今の宮司は2代目の川治桃光さんというそうです。

奥のほうに本殿がありました。突き当たって左手です。鳥居の代わりに桃の輪郭のアーチになっていました。

桃太郎神社本殿

この本殿の右側に歌碑がありました。
案内板によると、野口雨情、鳥観図大家吉田初三郎、御歌所奇人坂正臣翁という人の3人の歌の石碑がありました。どういう関係でしょうか。

記念歌碑

そして本殿の反対側には「宝物殿」がありました。宝物殿の入り口に鬼が背中に人が乗れる格好で四つん這いになっていました。曰く「やさしい鬼です。せなかへどうぞ」
思わず「泣いた赤鬼」を思い出しました。あの話でも優しい鬼は、赤鬼でした。子どもさんが来られて、背中に乗ったところをパチリということを狙ったものと思われますが、なんだか鬼がかわいそうに思えました。

宝物殿入口の「やさしい」鬼

宝物殿の中には、嘘かまことか鬼のミイラの写真であったり、鬼の体の一部の化石であったりが展示されていました。話しのタネとしては面白いと思いました。

戦時中に、この桃太郎が戦意創出のために利用され、日本兵は桃太郎、連合軍は鬼(まさに鬼畜米英です)として描かれ、それが子どもたちの読み物として登場していたことが展示されていました。

こどもたちの心を育てる昔話が戦争に利用されてはならないことを暗に訴えているのかと思いました。
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木曽川鵜飼 犬山市

2017年09月22日 13時58分18秒 | 犬山市
9月16日(土)、愛教労(愛知県教職員労働組合評議会)の企画する木曽川鵜飼見物に参加しました。鵜飼と言えば、長良川鵜飼が頭に浮かびますが、木曽川でも行われています。
ネット「木曽川うかい」のサイトで紹介していましたので、それを記載します。

鵜飼は、美濃国では702年(大宝2年)の各務郡中里の戸籍「鵜養部目都良売(うかいべめづらめ)」の記述が最も古い資料です。この資料から木曽川うかいの起源は、今より1300年前と考えられています。犬山では、今から340余年前に犬山城3代目城主成瀬正親公が御料鵜飼として始められ鵜匠を保護したと言われています。昔は漁として行っていたため、満月・水の濁ったときは鵜飼をとりやめていましたが、明治42年頃より観光を取り入れて行っているため、増水・台風時以外のときは行われています。

当日は台風が沖縄・九州に来ていて雨模様でした。しかし、木曽川には犬山城があり、犬山城を木曽川から見上げながらの鵜飼は、また格別でした。


船から見た鵜飼舟乗船場


見物の船ででた弁当。鮎づくしでした。おいしかったです。


木曽川から見る犬山城。白く光る点は、雨です。安物のデジカメなのできれいに写りませんでした。


鵜飼の様子

鵜飼は間近まで近づいて見ることができました。10羽ぐらいの鵜をひも(綱?)で操り、鵜が魚を飲み込むと、その鵜だけひもで船の中に入れ、魚を吐き出させていました。
暗い中で、鵜はどうして魚が分かるのか、鵜飼は10羽の鵜の中から、魚を飲み込んだ鵜がどうしてわかるのかとても不思議でした。鵜が魚をお腹まで飲み込まないのは、首の根元をひもの輪っかで止めているからだそうです。

これは名人業であると思いました。人間国宝にしてもいいくらいに思いました。
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犬山城発掘調査見学会 犬山市

2017年06月27日 14時18分58秒 | 犬山市

発掘現場

6月25日(日)犬山城で発掘調査見学会が行われました。新聞で偶然案内の記事を見つけ、面白そうなので出かけることにしました。ネットで、犬山市教育委員会の記事を読むと西御殿という史跡の発掘を行っているようでした。場所は、旧犬山市体育館ということでした。時間は10時30分からで、やや中途半端な時間でした。そこで先に犬山城を見学して、その後で見学会に参加することにしました。10時から受付が始まりました。日曜日ということもありましたが、いろんな人が見えて、お城ブームを目の当たりにする思いでした。後で職員の人の会話から「160人を超えたよ」ということが分かりました。待っている間に展示してある出土品などを見ました。

西御殿遺跡から出土した茶碗類

主に陶器が置いてありましたが、けっこういい生活をしていたことが窺えました。

また現場には犬山城白帝文庫蔵の「西御殿図」が掲示してありました。犬山市白帝文庫とは犬山城の旧所有者が犬山城の文化財を管理するためにつくられた財団法人です。理事長は成瀬さんといって、犬山城主の子孫の方です。この図は無断掲載禁止なので、残念ながらアップすることはできません。

西御殿とは
現地説明会の資料によれば、西御殿とは、寛文年間(1661~1673)ごろに造られ、政庁として使用されるとともに、江戸や名古屋にいることが多かった犬山城主の成瀬氏が犬山に滞在しているときは、住居としても使用されたそうです。天保13年(1842)焼失しましたが、すぐに再建されました。
慶応4年に犬山藩が誕生した時は、西御殿が藩庁となったそうです。明治4年(1871)の廃藩置県により犬山県ができた時は、西御殿が県庁だったそうです。その後、西御殿の地に公会堂などが建てられ、昭和38年(1963)には犬山市体育館が建てられました。
しかし、その体育館も老朽化が進み、このたび新たな体育館を市の羽黒地区に建設し、旧体育館は平成28年(2016)11月から平成29年(2017)3月にかけて撤去工事をしました。
今回の発掘調査は平成29年(2017)5月から実施されていました。

全体説明会
いよいよ説明会が始まりました。はじめは市の職員の方の全体的な説明です。人がたくさんいて、しかも大型テレビでの説明だったので、前にいる人は私も含めて座ってみることになりました。座っているとだんだん足腰が痛くなってきました。うーむ年齢を感じました。

全体の説明

溝跡
全体説明の後は30人ずつのグループに区切って現地の説明です。はじめに目にしたのは溝の跡でした。土の色によって遺構の存在を見るそうです。色が明るいところは元々この場所にあった土で、黒っぽいのは後で持ち込まれた土だそうです

溝跡(黄色の文字は合成です。)

根石、三和土跡
次は柱の礎石の下に埋める根石跡と三和土(たたき)の跡です。礎石がそのまま出ているのかと思いましたら、礎石の下に根石というものを埋めて、その上に礎石を置くそうです。今回は、その根石が見つかったということです。後ろの三和土(たたき)の跡は看板にも?がついている通り、三和土(たたき)ではないかということです。三和土(たたき)とは土間のことだそうです。

柱の根石跡、三和土跡(?)

井戸跡
そして次が今回の発掘調査の一番の成果ともいわれる井戸跡です。下の方までは掘っていませんが、全部掘るとけっこうあるだろうということです。また、円の半分だけにしているのは、上に土がどれだけ埋まっているかを残しておくためだそうです。周りの石があんまりきれいなので、「この石は当時の石ですか」と質問したら、「当時の石です。」と答えていただけました。

井戸跡

見学会は30人ずつ一列で写真のようにぞろぞろと並んで見ました。

見学会の様子

見学会には、元犬山市長の石田さんの姿も見えました。現在の教育長と和やかに話をしていました。
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長久手古戦場(5) 犬山市

2014年04月27日 09時57分54秒 | 犬山市
小牧長久手の戦いの経過
小牧長久手の戦いの経過をまとめると、以下のようになります。<Wikipedia参照>

天正12年(1584年)

小牧の戦い
3月13日 池田恒興、秀吉軍に寝返り、犬山城を占拠
3月17日 秀吉軍、森長可、尾藤知宣と家康軍、酒井忠次、榊原康政が戦う。(羽黒の戦い又は八幡林の戦い)秀吉軍が敗北する。
3月18日 家康、小牧城を占拠し、周囲に砦、土塁を築く。
4月5日  秀吉、楽田城に着陣する。

長久手の戦い
4月6日 秀吉軍(池田恒興、元助、森長可ら)三河岡崎を目指して出撃(中入)
4月9日 秀吉軍(池田恒興ら)、岩崎城(丹羽氏重ら)を攻める。(岩崎城の戦い)秀吉軍の勝利。
    家康軍(水野正重、榊原康政ら)、白山林で休息している秀吉軍(羽柴秀次ら)を奇襲す。秀吉軍の敗走。(白山林の戦い
    秀吉軍(堀秀政ら)、桧ヶ根で家康軍と戦う。(桧ヶ根の戦い
    家康、色金山に着陣。御旗山あたりに約9000人の陣を敷く。(家康、井伊直政、織田信雄ら)
    秀吉軍、長久手あたりに約9000人の陣を敷く。(池田恒興、森長可、池田元助、池田輝政ら)
    長久手の戦い又は仏ヶ根の戦い。森長可討死、池田恒興討死、池田元助討死、家康軍の勝利。
5月1日 秀吉、大坂に帰還。

竹ヶ鼻城の戦い
5月6日 秀吉、信雄側の武将、不破広綱(竹ヶ鼻城)を攻める。(竹ヶ鼻城の水攻め)家康、信雄が出陣してこないため、命を助けることを条件に開城させる。

蟹江城の戦い
6月   蟹江城の戦い。家康・信雄軍の勝利。

末森城の戦い
9月   末森城の戦い 家康側武将佐々成政(越中国)が、秀吉側武将前田利家(加賀、能登国)を攻める。末森城(石川県羽咋郡宝達志水町)で戦う。前田が佐々を撃退する。
11月11日 秀吉と信雄が和睦

羽黒の戦い

 上記の年表ように、3月17日秀吉軍森長可らが、家康軍と戦った戦です。古戦場跡の案内は、名鉄羽黒駅の近くにありました。羽黒小学校の南東側に羽黒八幡宮という神社があり、その辺が戦いの中心だったようです。


羽黒の戦い(八幡林の戦い)を伝える案内板。羽黒八幡の竹林の北にありました。

この戦いで、森長可は敗戦し、家臣の野呂助左衛門・助三父子を戦死させてしまいました。その碑が名鉄の東側に建てられていました。

野呂父子の石碑(大正7年羽黒青年会によって建てられた)
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