愛知の史跡めぐり

愛知県の史跡を巡り、その記録を掲載します。

品野(しなの)城 瀬戸市

2018年09月24日 06時38分09秒 | 瀬戸市
9月23日、三連休中日、品野城に行きました。


品野城のある秋葉山

品野城は、尾張と三河の中間点に位置し、織田氏と松平氏(今川氏)の取り合いになったお城です。


品野城の位置

品野城は、建保年間に大金重高によって築かれたそうです。その後、戸田氏、坂井氏が城主となりました。享禄2年(1529)織田氏に与する坂井氏と松平清康が戦い、品野城は松平清康によって攻められ落城します。(第1次 品野城の戦い)
その後松平清康は、品野城を親族の松平信定に与えました。松平信定から3代松平氏が続きました。(信定→家重→家次)松平家次の時、織田氏が攻撃をしてきましたが、松平家次は反撃して、これを退けました。松平家次は、その後安城の桜井に移動し、品野城には、藤井松平家の松平信一、戸田直光が入ります。が、結局織田信長に攻撃され、品野城は廃城になったそうです。(第2次 品野城の戦い)

さて、品野城は登城することが困難とどの情報でも言っています。しかし、登り口を紹介しているサイト(「愛知のお城めぐり」)があったので、それを参考に登りました。麓の稲荷神社の北側から登るコースです。確かに道はありましたが、個人の家の道のようでした。


稲荷神社北コース入り口

しばらく行くと、本当に個人の家につき、道はそこで終わっていました。しかしよく見ると、少し戻ったところの右側に木のトンネルのような道がありました。「これだ」と思い、くぐっていくと、やはり山のほうに通じていました。途中には、石垣みたいなものがあり、なんとなく雰囲気を感じました。


雰囲気のある石垣

ネットの指示通りに歩いていきますと、やがて小さな沢のようなものに出くわしました。お城は、沢の右側(南)にあるので、沢を渡りました。すると、ものすごい登りです。道はありません。藪の中を枝に体をたたかれ、蜘蛛の巣が顔にかかり、それでも一生懸命に登りました。途中何回か休憩し、やっとの思いで登りました。
頂上にたどり着けたのは、頂上に「お稲荷様」の祠があるとネットに紹介してあったからです。そうでなければ、どこが頂上やら、本丸やら分からなかったと思います。


本丸・お稲荷様の祠

残念なことに崩れてしまっていて、跡形もありません。なんとか修復してほしいなあと思いました。

頂上付近は平らな地形になっていたので、おそらく本丸だと思われます。そして、本丸の北側に虎口らしきものが見えました。土塁があまりに低いので違うかもしれません。


虎口らしき跡

しかし、本丸南には素晴らしい堀切がありました。


本丸南の堀切

上から撮影にしたので、わかりにくいと思いますが、これは素晴らしい堀切でした。

今回は北側からの登城でしたが、南側からも登っている方もあるようです。いずれにしても品野城は、登るのが至難(しなん)の城のようです。以前訪れた瀬戸市の一色山城も登城口が分からず苦労したことがあります。瀬戸市教育委員会さん、よろしくお願いします。
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入尾城 瀬戸市

2018年06月17日 16時23分57秒 | 瀬戸市
久しぶりの史跡めぐりです。「日本城郭体系9」に、入尾城がありました。

入尾城は、平安時代の末に平良兼の子孫滝口影貞によって築城されたそうです。
瀬戸市で最も古いお城だそうです。
この地は、水野郷と呼ばれ、滝口氏は後に水野氏を名乗ったそうです。水野氏と言っても、水野忠政の知多半島の水野氏とは別系統だそうです。(知多の水野氏は源氏が源流だそうです。)
水野氏は、室町時代の初め頃内紛が起き、勢力が衰え、時の城主水野致高(むねたか)が美濃守護の土岐持益に仕え、美濃の野尻村に移ったので、入尾城は廃城になりました。応永年間(1394~1428)のころだそうです。

入尾城の位置(Yahoo地図より作成)
入尾城は、北に高座山、玉野川(庄内川)、南に東谷山などに囲まれた天然の要害です。

入尾城は、現在は八幡神社になっています。

八幡神社鳥居

八幡神社本殿

この八幡神社の鳥居や常夜灯は「皇紀二千六百年」と記されていました。戦前にリニューアルしたようです。
また、名木として「アベマキの木」があり、それが「みずの名木物語」として紹介されていました。この辺りを「水野」と昔から呼び、現在に伝わっていました。昔の地名が残っていることは、とてもうれしいことです。

みずの名木物語


入尾城南の東谷山
入尾城のすぐ南側にありました。


入尾城北の玉野川(庄内川)
かなりの渓谷になっていました。

山と川に囲まれた要害であることがよくわかりました。
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一色山城 瀬戸市

2015年03月01日 08時14分49秒 | 瀬戸市
「愛知の山城ベスト50」に、「訪ねてみることをお勧めする」とあったので、行ってみることにしました。この本にもあるように、石碑も案内板もないというので、不安ではありましたが、どうにか見学することができました。(たぶん場所はあってると思います)

一色山城とは
「愛知の山城ベスト50」によれば、築城年等はっきりしたことは分かっていないそうです。しかし、伝説があり、それによると天文3年(1534年)に磯村左近が感応寺の和尚と囲碁の対戦中に品野秋葉城主松平家重、落合城主戸田家光が攻めてきたそうです。磯村左近は悠々と碁を打ち続け、打ち終わると戦場に駆けつけましたが、討死したそうです。

桜井松平氏の2代目は?
なお、「愛知山城ベスト50」によれば、松平家重は、松平宗家、松平清康と反目していた桜井松平信定の子どもとなっています。ところが、ネットで調べると桜井松平家の2代目、つまり松平信定の子どもは松平清定であるとしているものが多いです。松平信定の孫は松平家次で、三河一向一揆で一揆側に味方した武将です。これは大体一致しています。桜井松平家の2代目は清定なのか、家重なのか調べてみたいです。

登城口はどこ
さて、一色山城に戻りますが、城址は本当に看板も何もなくて、「愛知山城ベスト50」で詳しく所在地が書いてあったのでよかったですが、知らなければ通り過ぎて行ってしまったでしょう。


「ほたるの里」の看板から2つ目の40キロ規制の看板の近くに登城口があるとのことでしたので、慎重に歩いて行きましたが、それらしい入り口も見当たりません。この標識を通り過ぎると左側はずっとフェンスになっていて、山に入ることができません。そこで思い切って入れそうなところから入ると、道らしきものがあって、「ああここでよかったんだ」と安堵しました。

一色山城概要図「愛知の山城ベスト50」より

Ⅰの曲輪
しばらく道らしき道を南下していくと、1メートルから2メートルくらいの小高い盛土が見えました。たぶんⅠの曲輪です。

北のほうから簡単に城に行き着くことができるということは、それだけ防御が甘いということかと思いましたが、このⅠの曲輪のまわりは切り立った崖になっていて、一箇所以外は昇り辛いものとなっていました。

Ⅰ曲輪北側の崖


櫓台、虎口
Ⅰ曲輪の中央東側に虎口跡、櫓台跡らしきものがありました。


土橋
Ⅰ曲輪とⅡ曲輪の間の土橋跡です。

西側の堀跡です。


腰曲輪
西側一帯を腰曲輪で防御していました。


「愛知の山城ベスト50」では、ほかに「馬出し、枡形虎口など備えたメリハリの利いた縄張り」と紹介されていましたが、私にはよく分かりませんでした。今度行くときにはもっと注意してみたいと思います。

ぜひ看板設置を
今回看板なしの山城に初めて挑戦しましたが、看板のありがたさがしみじみと分かりました。研究者にとってはこれが当たり前なのですが、われわれ学習者には案内板は必要不可欠です。瀬戸市の職員の皆さん、どうか案内板をお願いします。
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瀬戸蔵 瀬戸市

2013年03月09日 12時40分17秒 | 瀬戸市
 2013年2月瀬戸市に行きました。瀬戸市では、「瀬戸蔵」を訪れました。瀬戸蔵は、瀬戸市の「瀬戸焼き」について知る施設です。
 中に入ると大きなひなだんが目に入りました。もうすぐおひな様なので、かざってあるのでしょう。

 近くで、おひなさまに絵付けをするイベントを行っていました。すこしでも瀬戸焼きに親しんでもらおうという瀬戸焼き職人の心意気を感じました。ただ、参加費が1,500円と少し高かったので、気になりました。

 瀬戸蔵には、瀬戸焼きで使われる道具が展示してありました。
瀬戸物を作る部屋を「モロ」と呼ぶそうです。「室」という字の読み「ムロ」が変化したのではないかと、近くのガイドのボランティアさんが教えてくれました。

 これは、取ってきた土をまぜる機械です。そのままでは当然つかえないので、瀬戸焼きの材料になるようにいろいろな土をまぜているのです。

 この機械は、まぜ合わせた土から水分をしぼりとる機械です。手前のハンドルをまわして圧力をかけていくようです。

 土は、この機械で適切な固さになるそうです。上の車の部分がくるくると回っていました。

 ここが、ろくろを回して瀬戸物を作る場所です。

 ここは、絵付けをする場所です。

 この道具は、ろくろで作れない角ばったものを作るときの「型」です。この中に粘土を入れて固めます。

 釜までが展示されていました。燃料は石炭のようです。

 最後は、名鉄の「尾張瀬戸駅」です。瀬戸市でできた焼き物は、この電車に乗って名古屋の方に行きました。電車も展示してありましたが、「堀川」行きとなっていました。



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