愛知の史跡めぐり

愛知県の史跡を巡り、その記録を掲載します。

丹野城(3)御堂山頂上 蒲郡市

2019年11月03日 05時36分04秒 | 蒲郡市

丹野城は、下のような感じでした。

丹野城スケッチ

特に西側の堀切は見ごたえがありました。

丹野城西側堀切、北から撮影

さらにこの堀切の向こう側に石積みの跡がありました。

堀切の石積み

この城ができたのは1469年なので、応仁の乱が始まったばかり、戦国時代が始まったばかりの頃です。その時代にこの363mの山の頂上に石積みが造ってあるのは、すごいと思いました。堀切に石積みということで、若狭国吉城を思い出しました。

この堀切を降りると、そこに標識があり、堀切に向かって左側は住居跡という表示でした。「えっ、ここに住んでたの?」こんな高いところに人が住んでいたとは驚きでした。


堀切にあった標識


住居跡の腰曲輪

堀切から左(北側)に広い平らな区域があり、腰曲輪のようですが、人が住んでいたようです。

そして南側の高まりの壁に石積みの跡のようなものが見られました。


石積みの跡

改めて石碑の銘文を読むと驚愕の内容が書かれていました。
「城郭は山陵を利用した高さ4メートル程の土塁が南東に伸び本丸跡もこの土塁に添って東側に巾約8メートル長さ約50メートルの平地の中にあり、土塁の中央部附近には石積や監視通路が現存する」
土塁は見当たりませんし、平地は腰曲輪状に北側にあります。土塁中央部に石積や監視通路が現存すると言っているので、南側の高まりは曲輪(本丸)ではなく、土塁なのでしょうか。どういうことなのか、さらに検討したいと思います。

丹野城 おしまい

丹野城(2)砥神山から御堂山へ 蒲郡市

2019年11月02日 05時31分13秒 | 蒲郡市
砥神山からの絶景を眺めた後は、御堂山に向かって進んで行きます。砥神山から、御堂山のふもと(キャンプ場)までは、尾根線上に登山コースがあり、わりと楽な道でした。途中、潮見展望台があり、そこで休憩をしました。

潮見展望台からの眺め 間近に見えるのが砥神山

しばらく歩いていますと、ようやく右手にキャンプ場が見えてきました。ここまでくれば、あと一息です。

キャンプ場から見る御堂山

このキャンプ場の近くに御堂山(丹野城)への登り口があります。

御堂山(丹野城)への登り口

この御堂山(丹野城)も結構険しい道でした。急こう配で、特に最後に急峻な石段があり、へとへとでした。しかし、そういう人を励ますかのように石仏がいたる所に鎮座し、見守ってくれていました。

御堂山(丹野城)頂上近くの石仏

やっと丹野城に着きました。眺めは最高です。

丹野城からの眺め

丹野城 つづく

丹野城(1)砥神山(とがみやま) 蒲郡市

2019年11月01日 06時51分15秒 | 蒲郡市
10月28日、丹野城に登りました。丹野城は、御堂山の頂上にあります。御堂山は登ったことがありませんので、ネットで登り方を調べました。すると、近くの砥神山を経由して御堂山に至るルートが紹介されていました。山登りのコースとしてちょうどいいと思い、このコースで丹野城を目指すことにしました。

砥神山、御堂山(丹野城)登山コース(国土地理院地図より作成)

丹野城については、面白いお話がありました。
「文明元年(1469)備後州の剌史(しし)、萩原芳信が全福寺(礎石が現在市指定史跡)の資産を取り掠め山頂に拠って城郭を築き、あるところの仏器を融して兵器となす」全福寺の僧徒を動員して構築した山城である。その後萩原芳信が備後林(現御津町赤根)で死亡してから全福寺とともに荒廃した
<昭和49年3月7日指定 蒲郡市教育委員会>

※刺史とは、国司のことで唐風の呼び名です。

御堂山ふもとの掲示板

これは、御堂山のふもとにあった案内板の説明です。頂上の石碑(平成6年、1994、相良町西共有)にはもう少し詳しく解説があり、萩原芳信が死亡したのは、翌年(文明2年、1470)で、牛久保の牧野氏が攻めてきたことで死亡し、しかもネットでは、家来の寝返りによって死亡したということらしいのです。なんとも、かわいそうな武将でした。

御堂山頂上の石碑


ふもとのファミマから見た砥神山

ここからちょっと登ったところに砥神山の登山口があります。

登山口

右側の山道を登っていきます。途中、面白い石がありました。

亀石


カエル石

しかし、陽気な石とは裏腹に登山は大変でした。特に急な石段が続き、休み休みでした。

砥神山山頂(行者尊像)

やっと頂上につきました。眺めも最高でした。

砥神山山頂からの眺め

丹野城 つづく