愛知の史跡めぐり

愛知県の史跡を巡り、その記録を掲載します。

小渡城址 豊田市

2017年03月28日 22時54分12秒 | 豊田市
3月も下旬。しかしまだ風は冷たいです。学校は春休みです。今日は、豊田市の小渡城址を訪ねました。

小渡城の位置
小渡城址は豊田市の東にあります。矢作川をひたすら上っていき、小渡という所まで行くとあります。

小渡城址の位置 Yahoo地図で作成しました。

小渡まで来たら信号交差点「小渡」(角にサークルKがあります)を右(東)に曲がります。少し細い道ですが、ちょっと行くと風鈴寺駐車場という看板が見えます。小渡城址にはこの増福寺(風鈴寺)から登ります。

小渡城址付近(地理院地図から作成しました)


増福寺(風鈴寺)

風鈴寺はその名の通り寺の至る所に風鈴が吊るしてあり、風が吹くと心地よい風鈴の音が聞こえ、大変穏やかな気持ちになりました。

小渡城には急な斜面を登らなければいけませんが、階段で整備されていて、とても登りやすかったです。標識もあり迷うこともありませんでした。

小渡城址への登り道

階段を登っていると、眼下に小渡の町が見え、眺望も素晴らしかったです。

階段からの小渡の町

小渡城の案内板
小渡城には「全体図」と表示された看板がありました。親切でうれしかったです。

小渡城址全体図

なんとこの図の作成者は千田嘉博氏です。豊田市も大したもんだとよく見てみると、たぶん竪堀であろうと思われるところが曲輪とありました。実際の地形を見ても曲輪らしきものはなかったので、これは写し間違いかなと思いました。

また、初めて知ったのですが、小渡城には畝状竪堀があったのです。「全体図」では「畝状空堀群」と表記してありました。私のバイブルである「愛知の山城ベスト50」でも「畝状空堀群」という表記でした。

土塁状遺構
さて、話を元に戻して、階段と坂道を登りきると、土塁状遺構が左手に見えます。裏に回ると、それは仏様の台座になっていました。

土塁状遺構

そして曲輪にはたくさんの仏さまが陳列していました。

曲輪

ただし、「愛知の山城ベスト50」では土塁が城の主郭に向かって築かれているので、この曲輪は城域に入らないと述べていました。

畝状竪堀
そして主郭の方に向かうと、城の東側に畝状竪堀がありました。まず主郭東の南側に3条

畝状竪堀(南側)

次に北側に2条

畝状竪堀(北側)

あいだに少し間隔がありました。
また、「愛知の山城ベスト50」では横堀と組み合わせているとしています。確かに画像の左側の部分は横堀のようにも見えました。

他の城との関連では、先の千田さんの看板に「畝状空堀群はこの地域だけで、非常に貴重である。戦国期に改修されたと考えられる。」(平成25年)との説明がありました。改修されたのが城全体を指すのか、畝状空堀群を指すのかちょっと分かりづらいですが、畝状空堀が戦国期に造られたものであるとも読めます。

小渡城案内板全体

増福寺(風鈴寺)の近くに会った説明板には、「この遺構(畝状空堀群)は白石城、大坪城(旭地区)市場城(小原地区)や東農の諸城でも確認されており、地域的な結びつきをうかがわせます。」(平成23年)とありました。しかし、城の会の方のお話では、全国各地に畝状竪堀が確認されているので、千田さんが「この地域だけ」というのは間違っているし、畝状竪堀の存在が珍しいからと言って、それを理由に「地域的な結びつき」というのは、どうかなと思いました。

増福寺(風鈴寺)にあった説明板

主郭・副郭
さて、この畝状竪堀を左側に回っていきますと主郭と副郭の間の堀切がありました。

主郭と副郭の間の堀切

副郭には石仏が2体座られていました。そして、その東の先は堀切になっていました。

副郭東の堀切

主郭には石塔がありました。「聖壽万歳」という文字があるのですが、意味が分かりませんでした。できたのは、昭和9年のようです。

主郭の石塔

なお主郭には細い溝のようなものがありました。2条あり、画像の①の溝はぐるっと主郭を半周していました。②は画像のところで止まっていました。溝の間の遺構は、見ようによっては土塁にも見えました。

主郭にあった溝

小渡城は豊田市の東の方でけっこう遠かったのですが、そこに畝状竪堀があったのでびっくりしました。

萩平山(はぎひらさん)城址 豊橋市

2017年03月27日 08時32分55秒 | 豊橋市
もうひとつ2月に登った山城があります。豊橋市の萩平山城址です。


萩平山城址の位置
萩平山城は愛知県の東の方です。

萩平山城はこの地の豪族西郷氏ゆかりの山城です。

西郷氏とはどんな武将でしょう。もちろん、薩摩の西郷隆盛とは関係ありません。
ウィキペディアによれば、室町時代、すでに愛知県の岡崎市や幸田町のあたりに有力な国人として存在していたようです。15世紀半ばには岡崎城を築城していました。しかし、松平清康(徳川家康の祖父)に屈し、岡崎城は松平清康に取られてしまいました。
また、豊橋市の東のあたりに勢力を持っていた西郷氏もありました。この西郷氏が萩平山城に関係する西郷氏です。他に月ヶ谷(わちがや)城、五本松城、西川城などを居城としていました。はじめ今川氏に属していましたが、松平清康が台頭すると、清康に属し、清康が守山崩れで死ぬと再び今川氏に属しました。
ところが永禄3年今川義元が桶狭間の戦いで戦死すると、今度は岡崎城に戻った徳川家康に属しました。その後は徳川方として今川や武田と戦いました。
ということで、今川、松平、武田という有力大名のせめぎあいの中でかなり翻弄された一族でした。


萩平山城全景
萩平山城址の近くに日吉神社がありましたので、そこに駐車させていただきました。

そこから戻るように山の麓の道沿いに行きますと、細い道が左の方に見えますので、細い道に沿って行きます。

萩平山城址への分かれ道

この細い道を少しのぼると左側に「トピー工業線NO5」という小さな標識が見えます。そこから登っていきます。

萩平山城址への登り口


萩平山城址イメージ図

ひたすら山道を登っていきますと、やがて堀切に出くわします。

堀切

堀切からⅡ郭を通り過ぎると、Ⅰ郭との境目の堀が見えます。

堀跡

Ⅰ郭では虎口の跡もあるということでしたが、はっきり確認することはできませんでした。

周りの腰曲輪は確認することができました。

腰曲輪

萩平山城址は標高156mの小高い山にあり、登るのは少しきつかったですが、地図で確認すると平野部に突出したように山があり、見張り台としての砦にはぴったりであると思いました。

伊奈城址 豊川市

2017年03月25日 13時48分17秒 | 豊川市
忙しくてアップできなかったお城を掲載します。

はじめは伊奈城址です。伊奈城址は豊川市にあります。

伊奈城址の位置 Yahoo地図を元に作成しました。

伊奈城は、「三河国二葉松」に、次のように紹介されています。

宝飯郡 伊奈村上嶋古城 本多助大夫忠俊 子息隼人正忠次

伊奈城は本多氏のお城だったようです。本多氏といえば、本多正信、本多忠勝などが有名ですが、どんな関係なのでしょう。

本多正信(近藤正臣)NHK大河ドラマ「真田丸」より

本多忠勝(藤岡弘、)NHK大河ドラマ「真田丸」より

ウィキペディアによれば、下のような系図になるようです。

本多氏系図 ウィキペディアより

これを見ると、本多忠勝と本多正信はほとんど血の繋がりがありません。本多忠勝と本多忠俊(伊奈城城主)は少し関係が濃いようです。

伊奈城は、「諸国古城之図」にも紹介されています。

三河宝飯伊奈村(諸国古城之図より)
周りは「深田」とあり、堀の代わりをしていたようです。また、「本多隼人居ス」との注書きもあります。

さて、伊奈城は、現在は「伊奈城址公園」として整備されているようです。

公園石碑

公園ですぐ目につくのは物見台です。

物見台

堀も復元されていました。

復元された堀
諸国古城之図にある堀を再現したものと思われます。

さらに公園の北側には大きな土塁の跡がありました。

公園北の土塁跡
諸国古城之図では「土居高5間」とあるので、これが書かれた江戸時代には9mもの高さがあったことになります。

なお、本多家の紋「立葵」が徳川の「三つ葉葵」の紋の元になったとの看板がありました。

葵の紋の看板(部分)

伊奈城は平野部にある城ですが、大きな土塁に囲まれ周囲は深田(ぬかるみ)で、防御性に優れた城であることが分かりました。また、本多氏にもいろいろあることが分かりました。

駈倉山(かりくらやま)砦跡 福井県美浜町

2017年03月23日 17時28分09秒 | 福井県
3月19日、若越城の会の山城見学会に行きました。目的地は駈倉山砦です。駈倉山城は、福井県美浜町にあります。


美浜町の位置(yahoo地図を元に作成しました。)


駈倉山砦の位置(城の会の資料より)
目的地の駈倉山砦は、図の右の中断の○です。似たような名前の砦が左上にあり、狩倉山(かりくらやま)砦といいます。

集合場所は国吉城歴史資料館です。そこから乗りあって織田(おりた)神社という所まで車で移動しました。ここからは徒歩で山登りです。駈倉山は標高約213メートル。「最初に難所があります。棄権していただく方はここで待っていてください」という説明がのっけからあって、ややびびりました。

織田神社駐車場での説明


最初の難所。
結構厳しい急斜面でした。しかし、棄権する方はいませんでした。さすがは城の会!

尾根線伝いに登っていきますと、ようやく砦の境界線である虎口の跡がありました。

食い違い虎口の跡

食い違い虎口からさらに登っていきますと曲輪のある所に行きます。
この砦は曲輪が一つです。


駈倉山砦縄張り図 (城の会の資料より)

まずは北虎口です。

北虎口 曲輪の方から写しました。
黄色い線は土塁で、外枡形の虎口となっていました。

曲輪の周りはぐるっと土塁で囲まれていました。

曲輪を囲んでいる土塁
曲輪は結構広く、多くの人数を収容することができたと思われます。

圧巻は東の虎口でした。

東虎口の一部
残念ながら虎口の一部しか撮影できませんでしたが、写真は虎口の南側の部分で、右端の土塁は曲輪と区切るものです。そのすぐ外側に堀が掘られています。案内の大野さんが立っている左側に馬出状の虎口が展開していました。かなり防御性の高い虎口になっていました。

曲輪の周りは腰曲輪が回っていました。

腰曲輪

なお、この城には鹿の糞が至る所にあり、鹿がここで木の芽や木の皮などを食べていると思われました。


駈倉山城について、これが朝倉氏の出城であるということが言われてきましたが、現状の遺構はそのまま朝倉氏が造ったままのものではなく、「賤ヶ岳の戦い」で豊臣方の将丹羽長秀によって造られたのではないかということを城の会の方々がさかんに議論しておられました。

竹田城 兵庫県

2017年03月18日 12時26分22秒 | 兵庫県
姫路城を見学した後は、夢前の「夢乃井」というホテルに泊まりました。

ホテル「夢乃井」

次の日は雨が降っていました。「中止しよう」と思いましたが、せっかく来たので、現地まで行って雨だったらやめることにして、とりあえず行こうということで竹田城に出発しました。すると、雨は嘘のように上がり、晴天になりました。よかった。

竹田城 登山道

駐車場は「山城の郷」という名前でした。

この駐車場から歩いて登ります。駐車場にはタクシーが何台か停まっていて、「ここから40分ぐらいはかかりますよ」と勧誘に来ました。しかし、誘惑に負けずに登ることにしました。
登山道にはまだ雪が少し残っていました。

登山道の雪

登山道を歩いていきますと木の間から竹田城がちらほら見え、やる気を起こさせてくれました。


登山道からの竹田城

竹田城
竹田城は大手門から入ります。

大手門への道 
両サイドに石垣がせせりたち、いかにも石の城、「マチュピチュ」を想起させました。


大手門


北千畳
大手門を上がると、北千畳という曲輪がありました。ここは特に建物はなかったということです。

北千畳から三の丸に上がるとき、ふと石垣の色が気になりました。すこしピンクっぽいのです。どんな石を使っているのか気になりました。


ピンクっぽい石垣の色


三の丸からの眺め


本丸から北の眺め

本丸からさらに進んで行きますと南二の丸がありました。

南二の丸


南千畳から天守を眺める

入口とは別にある出口から出て、ふたたび駐車場「山城の郷」にもどりました。
昼食はそこでいただきました。「唐揚げ定食」がボリュウム満点でお値打ちでした。

朝は止めようとも思いましたが、幸い天候にも恵まれ大変素晴らしい城めぐりになりました。