3月も下旬。しかしまだ風は冷たいです。学校は春休みです。今日は、豊田市の小渡城址を訪ねました。
小渡城の位置
小渡城址は豊田市の東にあります。矢作川をひたすら上っていき、小渡という所まで行くとあります。
小渡城址の位置 Yahoo地図で作成しました。
小渡まで来たら信号交差点「小渡」(角にサークルKがあります)を右(東)に曲がります。少し細い道ですが、ちょっと行くと風鈴寺駐車場という看板が見えます。小渡城址にはこの増福寺(風鈴寺)から登ります。
小渡城址付近(地理院地図から作成しました)
増福寺(風鈴寺)
風鈴寺はその名の通り寺の至る所に風鈴が吊るしてあり、風が吹くと心地よい風鈴の音が聞こえ、大変穏やかな気持ちになりました。
小渡城には急な斜面を登らなければいけませんが、階段で整備されていて、とても登りやすかったです。標識もあり迷うこともありませんでした。
小渡城址への登り道
階段を登っていると、眼下に小渡の町が見え、眺望も素晴らしかったです。
階段からの小渡の町
小渡城の案内板
小渡城には「全体図」と表示された看板がありました。親切でうれしかったです。
小渡城址全体図
なんとこの図の作成者は千田嘉博氏です。豊田市も大したもんだとよく見てみると、たぶん竪堀であろうと思われるところが曲輪とありました。実際の地形を見ても曲輪らしきものはなかったので、これは写し間違いかなと思いました。
また、初めて知ったのですが、小渡城には畝状竪堀があったのです。「全体図」では「畝状空堀群」と表記してありました。私のバイブルである「愛知の山城ベスト50」でも「畝状空堀群」という表記でした。
土塁状遺構
さて、話を元に戻して、階段と坂道を登りきると、土塁状遺構が左手に見えます。裏に回ると、それは仏様の台座になっていました。
土塁状遺構
そして曲輪にはたくさんの仏さまが陳列していました。
曲輪
ただし、「愛知の山城ベスト50」では土塁が城の主郭に向かって築かれているので、この曲輪は城域に入らないと述べていました。
畝状竪堀
そして主郭の方に向かうと、城の東側に畝状竪堀がありました。まず主郭東の南側に3条
畝状竪堀(南側)
次に北側に2条
畝状竪堀(北側)
あいだに少し間隔がありました。
また、「愛知の山城ベスト50」では横堀と組み合わせているとしています。確かに画像の左側の部分は横堀のようにも見えました。
他の城との関連では、先の千田さんの看板に「畝状空堀群はこの地域だけで、非常に貴重である。戦国期に改修されたと考えられる。」(平成25年)との説明がありました。改修されたのが城全体を指すのか、畝状空堀群を指すのかちょっと分かりづらいですが、畝状空堀が戦国期に造られたものであるとも読めます。
小渡城案内板全体
増福寺(風鈴寺)の近くに会った説明板には、「この遺構(畝状空堀群)は白石城、大坪城(旭地区)市場城(小原地区)や東農の諸城でも確認されており、地域的な結びつきをうかがわせます。」(平成23年)とありました。しかし、城の会の方のお話では、全国各地に畝状竪堀が確認されているので、千田さんが「この地域だけ」というのは間違っているし、畝状竪堀の存在が珍しいからと言って、それを理由に「地域的な結びつき」というのは、どうかなと思いました。
増福寺(風鈴寺)にあった説明板
主郭・副郭
さて、この畝状竪堀を左側に回っていきますと主郭と副郭の間の堀切がありました。
主郭と副郭の間の堀切
副郭には石仏が2体座られていました。そして、その東の先は堀切になっていました。
副郭東の堀切
主郭には石塔がありました。「聖壽万歳」という文字があるのですが、意味が分かりませんでした。できたのは、昭和9年のようです。
主郭の石塔
なお主郭には細い溝のようなものがありました。2条あり、画像の①の溝はぐるっと主郭を半周していました。②は画像のところで止まっていました。溝の間の遺構は、見ようによっては土塁にも見えました。
主郭にあった溝
小渡城は豊田市の東の方でけっこう遠かったのですが、そこに畝状竪堀があったのでびっくりしました。
小渡城の位置
小渡城址は豊田市の東にあります。矢作川をひたすら上っていき、小渡という所まで行くとあります。
小渡城址の位置 Yahoo地図で作成しました。
小渡まで来たら信号交差点「小渡」(角にサークルKがあります)を右(東)に曲がります。少し細い道ですが、ちょっと行くと風鈴寺駐車場という看板が見えます。小渡城址にはこの増福寺(風鈴寺)から登ります。
小渡城址付近(地理院地図から作成しました)
増福寺(風鈴寺)
風鈴寺はその名の通り寺の至る所に風鈴が吊るしてあり、風が吹くと心地よい風鈴の音が聞こえ、大変穏やかな気持ちになりました。
小渡城には急な斜面を登らなければいけませんが、階段で整備されていて、とても登りやすかったです。標識もあり迷うこともありませんでした。
小渡城址への登り道
階段を登っていると、眼下に小渡の町が見え、眺望も素晴らしかったです。
階段からの小渡の町
小渡城の案内板
小渡城には「全体図」と表示された看板がありました。親切でうれしかったです。
小渡城址全体図
なんとこの図の作成者は千田嘉博氏です。豊田市も大したもんだとよく見てみると、たぶん竪堀であろうと思われるところが曲輪とありました。実際の地形を見ても曲輪らしきものはなかったので、これは写し間違いかなと思いました。
また、初めて知ったのですが、小渡城には畝状竪堀があったのです。「全体図」では「畝状空堀群」と表記してありました。私のバイブルである「愛知の山城ベスト50」でも「畝状空堀群」という表記でした。
土塁状遺構
さて、話を元に戻して、階段と坂道を登りきると、土塁状遺構が左手に見えます。裏に回ると、それは仏様の台座になっていました。
土塁状遺構
そして曲輪にはたくさんの仏さまが陳列していました。
曲輪
ただし、「愛知の山城ベスト50」では土塁が城の主郭に向かって築かれているので、この曲輪は城域に入らないと述べていました。
畝状竪堀
そして主郭の方に向かうと、城の東側に畝状竪堀がありました。まず主郭東の南側に3条
畝状竪堀(南側)
次に北側に2条
畝状竪堀(北側)
あいだに少し間隔がありました。
また、「愛知の山城ベスト50」では横堀と組み合わせているとしています。確かに画像の左側の部分は横堀のようにも見えました。
他の城との関連では、先の千田さんの看板に「畝状空堀群はこの地域だけで、非常に貴重である。戦国期に改修されたと考えられる。」(平成25年)との説明がありました。改修されたのが城全体を指すのか、畝状空堀群を指すのかちょっと分かりづらいですが、畝状空堀が戦国期に造られたものであるとも読めます。
小渡城案内板全体
増福寺(風鈴寺)の近くに会った説明板には、「この遺構(畝状空堀群)は白石城、大坪城(旭地区)市場城(小原地区)や東農の諸城でも確認されており、地域的な結びつきをうかがわせます。」(平成23年)とありました。しかし、城の会の方のお話では、全国各地に畝状竪堀が確認されているので、千田さんが「この地域だけ」というのは間違っているし、畝状竪堀の存在が珍しいからと言って、それを理由に「地域的な結びつき」というのは、どうかなと思いました。
増福寺(風鈴寺)にあった説明板
主郭・副郭
さて、この畝状竪堀を左側に回っていきますと主郭と副郭の間の堀切がありました。
主郭と副郭の間の堀切
副郭には石仏が2体座られていました。そして、その東の先は堀切になっていました。
副郭東の堀切
主郭には石塔がありました。「聖壽万歳」という文字があるのですが、意味が分かりませんでした。できたのは、昭和9年のようです。
主郭の石塔
なお主郭には細い溝のようなものがありました。2条あり、画像の①の溝はぐるっと主郭を半周していました。②は画像のところで止まっていました。溝の間の遺構は、見ようによっては土塁にも見えました。
主郭にあった溝
小渡城は豊田市の東の方でけっこう遠かったのですが、そこに畝状竪堀があったのでびっくりしました。