久しぶりに更新します。
3月27日(日)若越城の会の見学会がありました。お城は、京極氏の拠点上平寺城です。
京極氏とは
京極氏は、源氏の流れをくむ近江地方の佐々木氏から分かれた武士です。佐々木氏の嫡流は観音寺城の六角氏です。京極氏で有名な武将として佐々木道誉(どうよ)という武将がいるようです。鎌倉時代末から南北朝時代の武将です。別名京極高氏といいます。「ばさら大名」といわれ、派手な方だったようです。京極氏は、戦国時代を生き抜き、江戸時代には若狭小浜藩主となりました。
京極氏略系図(高次につながる人だけのせました)
氏信(始祖)― 満信 ― 宗氏 ― 高氏(道誉)― 高秀 ― 高詮 ― 高光
― 持清 ― 勝秀 ― 高清(上平寺城築城) ― 高慶 ― 高次(江戸時代小浜藩主)
さて、上平寺城を築いたのは、京極高清という人です。永正2年(1505)、それまでの柏原にあった館を廃し、美濃国との国境近くの坂田郡上平寺に守護所(京極氏館)を構えるとともに、背後の尾根上に詰め城の上平寺城を築城しました。また、館の南側には町を建設しました。
上平寺城と信長公記
上平寺城とは近江の守護大名京極氏の詰城です。「信長公記」には、元亀元年(1570)、浅井方の上平寺城と長比(たけくらべ)城が堀・樋口の内応によって戦わずして開城したことが記されています。(滋賀県教育員会パンフレット「京極氏遺跡群」)
さる程に、浅井備前、越前衆を呼び越し、たけくらべ・かりやす、両所に要害を構へ候。信長公御調略を以って、堀・樋口御忠節仕るべき旨御請なり。(「信長公記」 巻三)
「たけくらべ」とは長比城、「かりやす」とは上平寺城・弥高寺一帯のことを指しているようです。信長が越前攻めの際、妹お市の婿であった浅井長政が反旗を翻したので撤退を余儀なくされ、かろうじて越前から逃げ帰った後のことです。浅井に対峙するために、5月には滋賀県の各地に森長可、佐久間信盛、柴田勝家など配下の武将を置き、戦闘体制を固めていきました。6月には、南近江の六角氏と戦っています。浅井氏はたけくらべ、かりやすに砦を築き、信長に対抗していましたが、ここを守っていた堀、樋口という武将が信長の調略によって浅井氏を裏切って信長についたという記事です。
「信長公記」に記されているころ、京極氏は浅井氏の傀儡守護となっていたようです。
山城サミット
城の会見学会の集合は上平寺町の集会場でした。周りには幟が立っていました。「山城のまいばら」という
文字が見えました。ここで、昨年「山城サミット」というイベントが行われたそうです。
山城サミットのポスター
京極氏館跡
まずは伊吹神社、京極氏館跡を訪ねました。
伊吹神社、京極氏館跡の入り口
城の会の方々、案内表示板の後ろで手を挙げて説明されている方が、本日の案内をしていただける方です。
京極氏の館跡は、以下のようです。
上平寺城下概要図(滋賀県教育員会パンフレット「京極氏遺跡群」より)
伊吹神社の入り口から家臣の屋敷がならび、一番奥に京極氏の館があったようです。庭園も発掘されていました。
また、南のほうには城下町が展開していたそうです。大変失礼ですが、城下町というと名古屋、岡崎などを想起してしまいましたが、ここも450年ぐらい前は城下町として栄えていたんだと思いました。京極氏も戦国大名として城下町づくりを志向していたようです。
蔵屋敷跡、京極氏の食料庫のあとです。
隠岐屋敷跡、家臣の屋敷跡のようです。
庭園跡
伊吹神社
館跡をさらに登りますと、伊吹神社の鳥居をくぐり、京極氏の墓所へと続きます。
伊吹神社の鳥居
京極氏の墓所、掘ってある字が読みづらくてどなたのは墓であるか分かりませんでした。
3月27日(日)若越城の会の見学会がありました。お城は、京極氏の拠点上平寺城です。
京極氏とは
京極氏は、源氏の流れをくむ近江地方の佐々木氏から分かれた武士です。佐々木氏の嫡流は観音寺城の六角氏です。京極氏で有名な武将として佐々木道誉(どうよ)という武将がいるようです。鎌倉時代末から南北朝時代の武将です。別名京極高氏といいます。「ばさら大名」といわれ、派手な方だったようです。京極氏は、戦国時代を生き抜き、江戸時代には若狭小浜藩主となりました。
京極氏略系図(高次につながる人だけのせました)
氏信(始祖)― 満信 ― 宗氏 ― 高氏(道誉)― 高秀 ― 高詮 ― 高光
― 持清 ― 勝秀 ― 高清(上平寺城築城) ― 高慶 ― 高次(江戸時代小浜藩主)
さて、上平寺城を築いたのは、京極高清という人です。永正2年(1505)、それまでの柏原にあった館を廃し、美濃国との国境近くの坂田郡上平寺に守護所(京極氏館)を構えるとともに、背後の尾根上に詰め城の上平寺城を築城しました。また、館の南側には町を建設しました。
上平寺城と信長公記
上平寺城とは近江の守護大名京極氏の詰城です。「信長公記」には、元亀元年(1570)、浅井方の上平寺城と長比(たけくらべ)城が堀・樋口の内応によって戦わずして開城したことが記されています。(滋賀県教育員会パンフレット「京極氏遺跡群」)
さる程に、浅井備前、越前衆を呼び越し、たけくらべ・かりやす、両所に要害を構へ候。信長公御調略を以って、堀・樋口御忠節仕るべき旨御請なり。(「信長公記」 巻三)
「たけくらべ」とは長比城、「かりやす」とは上平寺城・弥高寺一帯のことを指しているようです。信長が越前攻めの際、妹お市の婿であった浅井長政が反旗を翻したので撤退を余儀なくされ、かろうじて越前から逃げ帰った後のことです。浅井に対峙するために、5月には滋賀県の各地に森長可、佐久間信盛、柴田勝家など配下の武将を置き、戦闘体制を固めていきました。6月には、南近江の六角氏と戦っています。浅井氏はたけくらべ、かりやすに砦を築き、信長に対抗していましたが、ここを守っていた堀、樋口という武将が信長の調略によって浅井氏を裏切って信長についたという記事です。
「信長公記」に記されているころ、京極氏は浅井氏の傀儡守護となっていたようです。
山城サミット
城の会見学会の集合は上平寺町の集会場でした。周りには幟が立っていました。「山城のまいばら」という
文字が見えました。ここで、昨年「山城サミット」というイベントが行われたそうです。
山城サミットのポスター
京極氏館跡
まずは伊吹神社、京極氏館跡を訪ねました。
伊吹神社、京極氏館跡の入り口
城の会の方々、案内表示板の後ろで手を挙げて説明されている方が、本日の案内をしていただける方です。
京極氏の館跡は、以下のようです。
上平寺城下概要図(滋賀県教育員会パンフレット「京極氏遺跡群」より)
伊吹神社の入り口から家臣の屋敷がならび、一番奥に京極氏の館があったようです。庭園も発掘されていました。
また、南のほうには城下町が展開していたそうです。大変失礼ですが、城下町というと名古屋、岡崎などを想起してしまいましたが、ここも450年ぐらい前は城下町として栄えていたんだと思いました。京極氏も戦国大名として城下町づくりを志向していたようです。
蔵屋敷跡、京極氏の食料庫のあとです。
隠岐屋敷跡、家臣の屋敷跡のようです。
庭園跡
伊吹神社
館跡をさらに登りますと、伊吹神社の鳥居をくぐり、京極氏の墓所へと続きます。
伊吹神社の鳥居
京極氏の墓所、掘ってある字が読みづらくてどなたのは墓であるか分かりませんでした。