愛知の史跡めぐり

愛知県の史跡を巡り、その記録を掲載します。

沓掛城見学会 豊明市

2023年03月20日 07時46分55秒 | 豊明市
新説沓掛城は本当か
報告が遅くなりました。3月5日(日)愛教労城の会で沓掛城を見学しました。参加者は全部で15人と結構多い人数となりました。

駐車場にて

沓掛城は平城で、現在は本丸とその周りの堀跡、諏訪曲輪、二の丸の一部が残っています。

沓掛城の案内図(現地掲示板)

鬼門除けは古地図に
諏訪曲輪の説明で、北東方向(鬼門)が欠けているのは、鬼門除けのためと言いましたが、古地図を見ると、北東の方向に堀と土塁が窪んでいるところがあります。ここが鬼門除けではないかという事でした。それで、諏訪曲輪の北東部分の遺構は謎のままになりました。

古地図にみえる鬼門除け


諏訪曲輪の見学

本丸、堀跡、土橋、二の丸と見学をし、いよいよ新説沓掛城の場所へと移動です。新説沓掛城は、近くの曹洞宗寺聖應寺の裏山です。

この堀は城の堀か

新説沓掛城の堀跡を見る

確かに立派な堀の跡のように見えますが、やはり狭すぎること、古地図と照応していないこと、鳴海方向まで見通せないことなどから違うのではないかと思いました。

実はこの裏山は新しい道で東西に分断されており、見学したのは東半分でした。そこで、西の方も見て、本当に鳴海方面が見えるのか確かめようということになり、藪の中を進み西半分の裏山に行きましたが、やはり鳴海までは見えませんでした。残念。

高園城 豊明市

2023年02月15日 06時48分28秒 | 豊明市
近藤景春が籠った城
桶狭間の戦いの時、沓掛城主近藤景春は今川に味方していましたが、沓掛城は今川家臣の浅井政敏に渡し、自身は高園城という所に籠ったとされています。そして、今川義元が討たれ、今川軍が総崩れになると沓掛城に戻り、織田軍と戦ったとされます。しかし、戦いに敗れ、討死をしたそうです。
高園城は沓掛小学校の近くの薬師が根というところだそうです。早速行ってみました。


一之御前社

沓掛小学校のすぐ東には一之御前社という立派な神社がありました。室町時代、沓掛城主の娘がここの清水で喉を癒し、安産することができたと伝えられていて、安産祈願の神社となっているそうです。


薬師が根から南東方面を見下ろす

この神社のさらに東は畑が広がっており、高台になっていました。南東方面が見渡せました。木を払えば、南の方も見えていたと思います。ただ、西の方鳴海方面は沓掛城の山があり、見えませんでした。

沓掛城見学会の案内

2023年02月12日 05時33分11秒 | 豊明市
桶狭間の戦いゆかりの城
沓掛城見学会の案内

来たる3月5日豊明市の沓掛城の見学会を計画しました。

あいちの城も見栄えのするような山城はだいたい行ったし、次はどこへ行こうかと悩んでいるうちに時が流れ、友人から「城の会は次どこに行くの?」催促をされてしまいました。

NHK大河で徳川家康をやっていて、その関係で大高城に行ったことがあり、今回もその辺を期待しているようでした。そこで、桶狭間の戦い関連で、「沓掛城はどうでしょう」などと思い付きで言ったら、そのまま本決まりになってしまいました。

日時 3月5日(日)13時
目的の城 沓掛城
所在地 豊明市沓掛町東本郷
集合 現地

沓掛城は平城です。石垣や建物などはありません。曲輪、土塁、堀跡があります。最近桶狭間の戦いの時の沓掛城は別の所にあったという説があります。そこもできたら案内したいです。(但し中には入れません)

大脇城 豊明市

2021年12月15日 06時46分22秒 | 豊明市

大脇城石碑(豊明市栄町梶田)

豊明市史(桶狭間特集)を読んでいましたら、大脇のことが出てきました。大脇城について調べていますと、「尾州古城志」に「智多郡 大脇村 梶川五左衛門」とありました。さらにネットに愛知県埋蔵文化財センター「大脇城遺跡」という300ページに及ぶ報告書がありました。その中に桶狭間の戦い直後の梶川五左衛門の存在を示す史料が掲載されていました。


(「水野勝成覚書」抄 愛知県埋文センター「大脇城遺跡」より)

これによれば、梶川五左衛門は水野下野守(信元)方に属し、徳川家康と戦ったことが分かります。

ということは、桶狭間の戦いの時も梶川五左衛門は水野方で、徳川、今川方は敵になります。よく知られているように、今川義元は沓掛城から桶狭間に向かったとされています。途中阿野村、栄村を通って桶狭間に来たと言います。(梶野渡「地元の古老が語る桶狭間合戦始末記」より)


今川軍の予想進路と大脇城(赤の破線が今川軍の予想進路)

今川軍は大脇城に水野の家臣である梶川五左衛門がいることを知っていて、このような道を通ったのでしょうか。それとも、この段階で梶川は大脇城には居なかったのでしょうか。
少し謎が残りました。

十三塚 豊明市

2018年10月02日 13時57分08秒 | 豊明市
豊明市の消防署のすぐそばの交差点は十三塚と言います。

十三塚交差点

「尾張名所図会」にもしっかりと十三塚の絵が残っています。


「尾張名所図会」二村山にある十三塚

なお、この絵には、「けさぎりじぞう」「峠地蔵」などが記載されており、これらの地蔵が江戸時代からあったことが分かります。

さて、この交差点の近くに、こんもりとした楠の木があり、なにやら史跡のような趣の場所があります。


史跡らしい場所

わたしは、これがてっきり十三塚の跡だと思っていました。十三もの塚をそのまま残しておくのは、田んぼにするのに邪魔なので、一つにまとめたのではないか、そんな風に思っていました。しかし、現地に行って見ると、それは違っていました。


青木地蔵

それは、青木地蔵という地蔵様で、上記の「尾張名所図会」にも「青木じぞう」と書いてあり、そばに大きな木の絵がありました。
ちなみに、この地蔵さまは代替仏で、本物は沓掛町寺内地蔵尊堂に移されているそうです。

十三塚は結局江戸期以降の開発でなくなったようです。残念。地名だけが残ったようです。