愛知の史跡めぐり

愛知県の史跡を巡り、その記録を掲載します。

牛久保城 豊川市

2022年09月06日 18時16分34秒 | 豊川市
8月に牛久保城、吉田城に行きました。
牛久保城は現在のJR牛久保駅の辺りです。

牛久保駅

牛久保駅から線路をまたいで、すぐ左手に牛久保城の看板がありました。

牛久保城の看板

説明の文章は以下の通りです。

この地にあった牛久保城は、享禄2年(1529)一色城主牧野成勝が今橋城主(のちの吉田城主)の信成の命を受けて築城したといわれています。扇状台地の端につくられた平城で、南は遠く下郷の地を一望でき、北には二重の堀をめぐらせた城でした。城を取り囲むように、武家の屋敷が配置され、その北に町人の家が通りに面して連なり、さらに周辺に寺院があって外敵に備えていました。城に向かって真っすぐに入る道はなく、すべての道が曲尺手になっていて、近世の城下町の先駆けをなすものだったようです。のちに、牛久保は天領となり、元禄13年(1700)廃城になりました。いまは、昔の面影はなく、JR牛久保駅周辺にある「城跡」「大手」「城下」等の地名がわずかに昔を偲ばせています。豊川市教育委員会


牛久保城の古絵図も看板に描かれていました。

牛久保城古絵図

この看板の奥に石碑が立てられていました。

牛久保城跡碑

この石碑のある所から、南東を見ると低くなっていて、城のある場所が高くなっていることが分かりました。説明文で言う「扇状台地」になっていました。「国土院地図」の「陰影起伏図」で見ますと、牛久保城が河岸段丘の端に造られていることがよくわかります。


国土院地図・陰影起伏図より

説明文の「城跡」「城下」は運転しながら見つけることができました。(運転中で撮影はできませんでした。残念)「中屋敷」という交差点があり、関係あるのかも知れないと思いました。

グーグルストリートビユーより「中屋敷」交差点

糟塚(かすづか)砦 豊川市

2022年04月03日 16時29分40秒 | 豊川市
豊川市の糟塚砦に行きました。糟塚砦は徳川家康が永禄6年(1563)、牛久保城、吉田城の攻略の際に築いた砦です。「三河国二葉松」に「小笠原新九郎長晟(ながあきら?)」とありますので、家康の家臣の中にそういう武将がいたものと思われます。現在は龍徳院という寺院になっています。
本堂の裏手に土塁、堀が残っているというので、行ってみました。

龍徳院本堂裏の土塁跡

ありました。本堂の裏手に高さ1m50cmぐらいの土塁が。約70mほどの長さがあるそうです。この土塁の裏には堀がありました。

土塁の裏の堀

Google航空写真で表すと以下のようです。

龍徳院と土塁、堀

糟塚砦は、このような土塁、堀で四方を囲まれた砦だったそうです。
龍徳院の山門には糟塚砦の説明板がありました。

龍徳寺山門の説明版

さて、意外と早く糟塚砦の見学が終わったので、近くにある神社を見学することにしました。


菟足(うたり)神社

この神社一帯は、貝塚が広がっていた場所だそうです。また、面白い言い伝えがあり、中国秦の始皇帝が不老長寿の薬を求め、日本にあたる島に家臣徐福以下3000名ほどのものを派遣したそうですが、行方不明になってしまったそうです。ところが、日本には徐福が到来したという伝説のある場所が二十カ所以上あるそうです。そしてこの豊川の小坂井地方にも来たという伝承があるそうです。すごい。貝塚と言い、この伝承と言い、昔からここに人が住んでいた証拠だと思いました。

もうひとつ、五社稲荷神社という神社がありました。

五社稲荷神社

こちらの方は、この地がもとは古墳だったという話です。直径約32m、高さ約5mの円墳だそうです。築造時期ははっきりしないが古墳時代中期ではないかと説明板に記載されていました。この古墳の立地が豊川右岸の地帯を見渡せる丘陵にあること、後の東海道と伊奈街道の交わる交通の要衝にあることから、豊川右岸地域一帯を支配する首長の墓であろうと推測していました。
ここでもこの地域の歴史の古さを実感しました。

豊川海軍工廠(公園の周辺)2 豊川市

2021年02月23日 07時10分33秒 | 豊川市

第3火薬庫 第2火薬庫より小さく、部屋が一つしかないそうです。こちらを向いているのは学芸員


爆弾破裂の際の破片が当たった跡


原料置き場 イギリス式の煉瓦で積み上げられた上にコンクリートで表面を覆っています。これも爆弾によって破壊されていました。


B29による爆弾投下の跡、2mぐらいの深さがありました。


トイレの跡 男子トイレです。「水洗式」で、浄化はしませんがそのまま三河湾に流していたそうです。便器の下には、太いパイプが巡っていました。


倉庫の周りを囲む土塁と入口 入口の脇にはかつて石垣が組まれていたそうですが、爆撃で崩壊したそうです。


防空壕跡 この防空壕は被弾していないそうです。他の防空壕で被弾したものは、つぶれて生き埋めになった場合が多かったそうです。大変悲しい話でした。

以上、写真とその説明のみの報告でした。

豊川海軍工廠(公園の周辺)1 豊川市

2021年02月22日 09時35分22秒 | 豊川市
豊川海軍工廠の周辺の遺跡について、冬場を選んで見学できるよう企画されています。公園内の見学は、毎日のように行われていますが、公園周辺の見学は、年4回しか行われません。21日(日)は、その最終日でした。

案内をしていただいた学芸員


公園の柵から外へ出る見学者


街灯の跡(矢印)この街灯の間が当時の道幅。右横の白い柵は公園の柵


防火水槽 近くに火薬倉庫がありました。


第2火薬庫 公園内の第1火薬庫の続きで建っていました。


名大の施設宇宙アンテナ これで太陽系を調べているそうです。

つづく

豊川海軍工廠(2) 豊川市

2019年08月16日 06時58分59秒 | 豊川市
旧第三信管置き場
いよいよ第三信管置き場です。
信管とは、爆弾の突端につけられたもので、そこに衝撃が加わると、下に付いている爆弾が爆発するというものです。

信管


周りを取り囲む土塁

ここは、まわりを高い土塁に囲まれていました。当然敵の攻撃から守るための土塁だと思ったのですが、「万が一ここが爆発しても、周囲に被害が及ばないようにするため」だそうです。


入口のトンネル 中に入るために、土塁の中を潜り抜けないといけません。そのためのトンネルです。


第三信管置き場の外観

第三信管置き場は、設計が尺貫法ではなく、メートル法で造られたそうです。当時海軍はイギリス流だったので、メートル法を採用したそうです。なので、普段見慣れた窓より大きく見えるのはそのためだそうです。


第三信管置き場の灯り

この写真では、実際の電球はついていませんが、取り外しが部屋の外からするようになっています。なるべく部屋の中で火花等が出ることを避けるためだそうです。


屋根の内部

この建物の屋根を内部から見れるようになっていました。屋根部分は木造でできています。これは爆発の際に、屋根だけが飛ばされ、壁が残るようにするためだそうです。また、写真のように左右がずれているのは、簡単なつくりにしているためということです。

海軍のマークの入った木材

当時使われていた木材が残っていたので、それを使っての屋根組です。錨のマークが入っています。

さて、ここを出ますと、こんどは防空壕の跡です。防空壕は、土を掘った簡単なもので、深さが1.2mほどで天井の覆いがないものもあり、あまり効果的ではなかったようです。

防空壕跡

1945年8月7日に、ここ豊川海軍工廠は、大空襲を受けます。この空襲で2500人以上の人の命が奪われました。

豊川市では、こうした悲惨な出来事を二度と繰り返してはならないと、1995年に「平和都市宣言」をおこない、それから毎年8月7日に平和祈念式典をおこなっています。

私たちは、かの戦争を繰り返さないために、しつこいくらいに戦争の悲惨さを語っていく必要があるようです。

豊川海軍工廠 おしまい