愛知の史跡めぐり

愛知県の史跡を巡り、その記録を掲載します。

大浜界隈 碧南市

2019年09月07日 07時13分23秒 | 碧南市
この大浜は、港町として栄えました。堺と繋がっていたのだと思います。徳川家康が本能寺の変の時「伊賀越え」をして逃げてきたとき、ここから船で三河まで行きました。当時から港として栄えていたようです。
お寺など古い建物がたくさんありました。

旧大浜警察署 大正時代に建てられたものだそうです。立派な建物です。


藤井達吉現代美術館 藤井達吉は、地元生まれの美術家で、特に小原和紙の発展に寄与した人だそうです。当日は、「空間に線を引く」と題して現代彫刻家19人の作品が展示されていました。


太鼓堂 浄土真宗大谷派西方寺。いかにも浄土真宗のお寺という感じがします。明応5年(1496)棚尾村からこの大浜村に寺を移し、名前も西方寺としたそうです。その後、町の発展と共に栄え、数ヶ寺の末寺を持つ、三河有数の大坊となり現在38代住職に至っているそうです。


西方寺と九重味淋(みりん)の間の道 左の建物が九重味淋(みりん)


九重味淋 安永元年(1772)石川八郎右衛門信敦がみりんの製造を始めたそうです。それ以来の老舗です。


永井直勝生誕の地 宝珠寺というところが生誕地となっています。つまり、ここに長田重元の居館があったと考えられています。

ということで、大浜は昔栄えた港町であったことが分かりました。しかし現在でも碧南市はトヨタ関連の工場が立ち並び、市の財政はわりと裕福なようです。

大浜陣屋跡 碧南市

2019年09月06日 18時18分57秒 | 碧南市
大浜陣屋は水野氏の陣屋
8月29日、碧南市の大浜を訪れました。大浜の陣屋跡を訪ねました。大浜陣屋は現地の案内板によれば、
「明和6年(1769)から明治5年(1872)まで、駿河沼津領主・水野家が西三河における領地を支配するために設置した役所のこと」
だそうです。
「水野家は、徳川家康の母・於大の方(伝通院)の実家で、忠清の時に信濃国松本7万石の大名となりました。」
水野家といえば、水野忠政(緒川城城主)、水野信元(刈谷城城主、三河一向一揆で徳川家康の援軍をした人、しかし織田信長に謀反の疑いをかけられて家康に殺害された人)、水野勝成(刈谷城で“カツナリクン”というキャラクターになっているが福山城の城主でもある人)など徳川家康や江戸幕府に大変縁の深い一族です。
水野高恒、なんと江戸城で刃傷沙汰
「しかし、享保10年(1725)忠恒(松本6代目)が江戸城内で刃傷沙汰を起こし領地を没収され、信濃国佐久郡7千石の大名の旗本となりました。」
江戸城内での刃傷沙汰はいけません。あの赤穂の浅野内匠頭もそうでした。当然切腹、御家断絶です。水野家はこれまでの実績があるということで、御家断絶は免れ、大名から旗本に格下げされたようです。事件の首謀者水野忠恒は叔父の水野忠穀(ただよし)の家に謹慎蟄居となり、そこで亡くなったそうです。
水野忠友、大名として復活させる
「その後、水野忠友は明和5年(1768)西三河領6千石の領地を受け、1万3千石、安永6年(1777)には駿河国沼津に城地を拝領、さらに忠友の子忠成(ただあきら)の代にも加増を受け、天保元年(1830)には5万石の大名になりました。」
ということで、この大浜陣屋は水野忠友の代から始まったようです。

水野忠成・水野家系図(現地案内板より)

大浜を支配していた大名が静岡県の沼津藩の大名とは知りませんでした。しかし、もともとは緒川・刈谷の水野氏であったことも初めて知りました。

大浜古城、羽城
さて、その大浜陣屋ですが、もともとは大浜古城、羽城という城がこの地にあったようです。三河国二葉松には以下のような記述があります。
「大浜村古城 稲熊氏住ス後天野孫三郎天文年中五十貫領次
永井傳八直勝或傳十郎始当村名主永田平右衛門子也信康君、始仕官」

つまり、はじめに大浜古城には稲熊氏が住んでいた。その後天野孫三郎が天文年間に50貫でここを支配し、次に永井直勝が支配した。なお、直勝は当村名主永田(長田)重元の子である。永井直勝ははじめ徳川信康に仕えていた。というのです。

暗殺請負人、天野孫七郎
この天野孫三郎の関しては、「三河物語」に天野孫七郎として記事がありました。天野孫三郎という人物はネットで検索しても出てきません。代わりに天野孫七郎は、西広瀬城主佐久間全孝暗殺未遂事件の首謀者として出てきます。

松平広忠が天野孫七郎を呼んで命ずるには、「広瀬の佐久間を切ってこい。殺害したら、大浜に百貫で領地をやろう、もし負傷させただけなら50貫の領地をやろう」と。佐久間の殺害は難しいが、主の命令なので背くわけにもいかず、孫七郎は受けることにしました。広瀬への道中案を練りますが、よい考えもなく、孫七郎は佐久間に奉公することにしました。奉公しているうちに殺害の機会もあるだろうと考えました。広瀬ではうまく事が運び、孫七郎は寝ている佐久間全孝を討つチャンスが来ました。佐久間が起き上がったところを討とうと待ち構えていましたが、なかなか起きないので、こんどは布団の上から刺そうとしましたが、布団が厚く、これもうまくいきそうにありません。そこで、首から上を切ろうと蒲団の裾をまくり、切りつけました。切られた佐久間は少しも動かなかったので、死んだと思い、孫七郎は城から逃げ出ました。途中、刀を落としましたが無事広忠の元にもどりました。そのことを広忠に報告すると、約束通り大浜の地に50貫もらえることになりました。それでこの地を別名「佐久間切り」とも呼んだそうです。一方の佐久間全孝ですが、これで死んだわけではなく自分で帯を頭に巻き付けて傷を養生し、何とか命は助かったということです。

池田恒興を討ち取った永井直勝
この天野孫七郎の後、長田重元が大浜城を拠点としたようです。長田氏は、主君源義朝を殺した長田忠致の末裔です。永井直勝はその長田重元の子どもです。永井直勝は、小牧長久手の戦いで池田恒興を打ち取るなど家康の元で活躍し、関東地方に所領を持つ大名となりました。

その後に、上記水野忠友が大浜陣屋をたて、この辺りを支配したというわけです。

大浜陣屋跡は「大浜陣屋広場」として公園となっています。

大浜陣屋跡の公園

公園は四角い広場になっていて、いろんな掲示物がありました。

応仁寺 碧南市

2013年12月30日 16時23分58秒 | 碧南市
蓮如上人ゆかりの地
 碧南市の応仁寺は、蓮如上人が京都を追われ、逃げ延びた先として有名です。1468(応仁2)年 蓮如上人は比叡山延暦寺の僧に追われた後、弟子の如光と西端に来ました。このときに、蓮如は、西端道場を建て、ここを拠点にして三河地方の教線拡大を図りました。

応仁寺本堂

 応仁寺は、もうひとつ有名なことがあります。それは、この寺には住職、寺族、寺男、留守番、門徒がいないというのです。「この寺は、村持ちの寺でして、昔から住職は居りません。お宮さんのように、村全体の人たちでお守りする寺」だそうです。(本願寺名古屋別院「東海の蓮如さん」)

加賀堀、越前堀
 境内を散策していましたら、「加賀堀、越前堀」という案内板を見つけました。

 蓮如上人が、京都から逃げてこの西端に来たということを伝え聞いた北陸の門徒がやってきて、この道場のまわりに堀を掘ったそうです。なんということでしょう。遠く北陸から蓮如上人を守るために、三河の地まで来たというのです。信仰とはすごいです。

 さて、応仁寺を南の方に行くと大きな道路があり、それよりさらに南は見事な菖蒲園となっていました。


如光堂
 その菖蒲園の一角に如光堂がありました。如光は以前にも話題にしたように岡崎上宮寺の住職で、上宮寺の教線を西三河中に拡大した人です。そればかりではなく、連如の片腕として活躍していました。有名な出来事は、1465年京都大谷の本願寺が比叡山に襲撃されたときに、大金を積んで比叡山を黙らせた話です。

如光堂

如光はどうやって生まれたか
 その如光が、実は正体がはっきりしないのです。案内板でも「その由来を尋ぬるに応永二十四年四月十五日の夜 幼きみどり子もくずの中に忽然と顕る かの池の辺りを通る村老奇異の思をなし之を拾ひあげ、養育するに凡てなし給ふ・・・」とあり、油が淵に忽然と現れたというのです。「如光弟子帳」というものも残っており、確かに実在した人物では有るのですが、どこで生まれたのかは、なぞとされています。

如光像

如光は水運業と関係ある人?
 ある人は、如光が油が淵のもくずの上に乗って現れたのは、如光が油が淵の水運業を取り仕切っていた者と関係があるからではないかと推測しています。当時は、三河湾と京都が水で結ばれていたといいます。そして、如光が大谷本願寺襲撃の際に大金を出しえたのは、こうした水運業などの商業活動から得たものが背景にあったからではないかと推測しています。
おもしろい話ですね。そういえば、堅田も、吉崎も、この西端も湖に面したところにあって共通点があります。