愛知の史跡めぐり

愛知県の史跡を巡り、その記録を掲載します。

本證寺 安城市

2023年05月13日 18時26分48秒 | 安城市
年金者組合愛知県の企画です。
安城市の本證寺と歴史博物館の見学会がありました。


本證寺の鼓楼

はじめは、本證寺を訪ねました。「どうする家康」の「三河一向一揆」の舞台です。「不輸不入」の権利を持ち、一大経済エリアをつくっていた一向宗の寺院です。坊主の空誓が「武士は民を苦しめている、我々は民を救っている」と家康を諭した寺です。


本證寺をボランティアガイドの人が案内してくれました。

本證寺境内の東側に大きな土塁と堀跡があり、感激でした。

空堀の跡

ちょうど東側は内堀と外堀が接近していて、その堀の内側に土塁があり、とても厳重な守りであったことが分かりました。

普段は見れない庫裡の中にも入れてもらえ、その大きな梁を見ることができました。

庫裡の太い梁
江戸時代からのものだと説明がありました。

本堂の中にも入ることができ、重要文化財の「聖徳太子絵伝」が4幅展示されていました。住職さんに聞いたところ、「それはレプリカです」と言う事でした。でも、本物そっくりで、これもすごく感動しました。

本證寺「聖徳太子絵伝」

さらに、案内の方が「外堀があります」と言ってくれて、見に行くことになりました。

本證寺の外堀
実際は本證寺をとり囲むように外堀が廻らされていましたが、今は部分的に2か所見ることができ、この堀は水堀として残っているそうです。

このあと、安城歴史博物館へ行き、安城城の見学をしました。

加藤嘉明生誕の地(2) 安城市

2020年05月19日 09時07分46秒 | 安城市
加藤嘉明出生の地には異説があります。安城市の岩根城という所です。桶狭間の戦いの今川義元討死の場所が二つあったのと似ています。
参河国二葉松の記載
「参河国二葉松」には碧海郡の中に「岩根村古城」としてコメントされています。「所不祥加藤掃部(かもん)助正成明応年間始テ謁長親而有君臣〇」「岩根城の所在はよく分からない。加藤掃部助正成が明応年間(1492~1501)に松平長親に謁見し、家臣になった」という意味でしょうか。松平長親は、安城城に拠点を置く安城松平氏の2代目です。つまり、加藤家は元々松平氏の家臣であったわけです。これは、先の永良城の話(松平の家臣だったが、一向一揆で一揆側に与した)と符合しています。

松平家系図

でも、問題は加藤正成という人物です。リニュアルされた安城市教育委員会の看板では「(加藤嘉明が)この岩根の生まれとする資料も残されています」とし、以前の「加藤正成の子孫」という説明と微妙に言い方が変わってきています。
寛政重修諸家譜の記載
「寛政諸家譜」の加藤嘉明の項の前に「某」として加藤三之亟教明の説明をしています。「先祖より三河国永良に住し、のちゆえありて三河をさり、諸国を武者修行し、其後豊臣太閤につかへ、近江国矢島のうちにをいて三百石を知行し、同国に住す。」とあります。「ゆえありて」とは三河一向一揆を指すと思います。つまり、「寛政諸家譜」では、加藤嘉明の先祖はずっと三河国永良に住していたことになっているのです。また、加藤正成との関係にも触れていません。寛政諸家譜と永良神社の伝承を信じれば、加藤嘉明は永良の生まれということになります。
安城市教育委員会の言う「資料」とはどんな資料なのか、興味が湧きました。

岩根城現地案内板

調査地はちびっこ広場
さて、岩根城の案内板をよく見ると、現地、調査地、大手の推定地などが記載されていました。看板の地籍図の現在地は岩根公民館です。そこを南に行くと「調査地」という所があります。平成25年度に発掘調査をしたそうです。安城市のホームページにその結果が簡単に報告されています。

発掘された堀跡(安城市HPより)

出土品(上2段が江戸時代、最下段は戦国時代のものだそうです)安城市HPより

現場に行くと児童公園になっていました。

発掘現場(今は岩根ちびっこ広場)

しかし、ここが史跡であるということをしっかりアピールしていました。すごい!

岩根ちびっこ広場の看板

さらに地籍図にそって南側の「大手」のあたりに行きますと、曲がった道がありました。

大手の曲がった道

ここに枡形の門があったのでしょう。曲がった道はその名残だと思われます。

現在の道に痕跡を見ることができました。

安城城(2) 安城市

2020年04月05日 06時21分42秒 | 安城市
本丸は、現在大乗寺になっています。

本丸跡(大乗寺)

大乗寺の境内が現在も一段と高いところにあるのが曲輪だったことを物語っています。
手前の低いところは堀跡、もしくは深田だったのでしょう。絵図で見ても安城城は周囲を深田で囲まれていて、堀の役目を果たしていたものと思われます。

この大乗寺の境内を歩きますと、南東の突端がやや高くなっていました。おそらく絵図の四角い黒い部分(櫓)があった場所だと思いました。

本丸南東の櫓台跡?

本丸の南側は二の丸があり、間は堀になっていました。

堀跡 

本丸と二の丸の間に土橋があったのですが、今はありません。突き当りには「安城市埋蔵文化センター」があります。さらに本丸側の堀のところに切岸があるようです。表示がされています。

切岸

さきほどの堀の左側(南側)は、二の丸(八幡宮)になります。

二の丸(八幡宮)

二の丸も本丸(大乗寺)同様やや小高い丘になっています。ここに曲輪があったことを示しています。

疑問
「愛知の山城ベスト50」の著者であり、安城市歴史博物館所属の天野信治さんは、この八幡宮について、本丸と共に安城城の大きな曲輪の一つであるとし、「「諸国古城之図」でも、この二つの曲輪がこの城の中核部分であるように見える」としています。そして、江戸時代の絵図では、安城城の機能が縮小したことで、八幡宮が城から切り離されていると、言及しています。
八幡宮が二の丸であろうということは間違いないと思いますが、その根拠として「諸国古城之図」を持ち出すのはどうかと思いました。というのは、上記絵図に示すように「諸国古城之図」の中には本丸と八幡宮の間に二の丸らしきものが描かれ、八幡宮は、べつのもののように描かれているからです。「諸国古城之図」は八幡宮を曲輪とみなしていないように見えます。

松平清康は庶家?
もう一つ、この天野さんの話で面白かったのは、松平清康のことです。清康は、徳川家康のおじいさんで、安城松平家(宗家)松平信忠の嫡子となっています。私もそう思っていましたが、天野さんは、松平清康は元々庶家(宗家ではない)で、安城松平で実力を持っていたのは、松平信定だったというのです。信定は、清康とことあるごとに対立し、「三河物語」ではまるで悪人です。清康が守山で家臣の阿部正豊に暗殺された守山崩れも、松平信定が裏で操っていたような書き方をしています。
しかし、近年の研究では清康が独自に岡崎を拠点に力を蓄え、しだいに権力が岡崎に移ったと見るそうです。松平清康を宗家の直系としたのは、家康の正当性を示すための後世の作りごとかも知れません。

安城城(1) 安城市

2020年04月04日 17時57分11秒 | 安城市
4月に入り、安城市歴史博物館の会員証の更新手続きを行いました。この博物館では、かつて「三河一向一揆」のイベントを企画し、私も講演会や展示会に何度か訪れました。この博物館の会員になると、催し物の案内などが郵送されてきますので、入ることにしました。

安祥文化のさと会員証(イラストは安城市の古墳から出土した土器に描かれた人面模様をモチーフにしています)

ついでにこの博物館に室町時代後期にあったという安城城を見学することにしました。2013年10月のブログで紹介したお城です。

こちらに2013年10月の安城城訪問の記事があります。
安祥城 安城市

大河ドラマで織田信広と松平竹千代(徳川家康)の人質交換のシーンがありました。その松平信広が今川勢と戦った城が安城城です。安城城は、今は安城市歴史博物館や大乗寺、八幡宮などになっています。

安城城(広島城「諸国古城の図」より)

今川勢(太原雪斎ら)による安城城攻めの先鋒役が松平軍の本多忠高というそうです。あの徳川四天王の一人本多忠勝のお父さんです。彼は安城城の本丸まで突入し、もう少しで織田信広を捕らえられるというところで敵の矢にあたり死んでしまったそうです。後世子孫が安城城の、忠高の死んだその地にお墓を建てたそうです。

本多忠高のお墓

そのお墓を見ながら、松平軍が向こうからここまで迫ってきたんだ、ここで矢はこっちからこう飛んできたんだなどと想像され、あたかも安城合戦の中にいるような気持ちになりました。

さて、肝心のお城ですが、北の方に虎口がありました。絵図を見るとかなりしっかりした虎口になっています。

登城道・虎口があったらしい場所

虎口と本丸の間に現在県道が走っていますが、絵図で虎口の東側は堀になっています。それで、いまでも県道のあたりに水がしみ出ているそうです。


堀の跡のために滲み出ている水

安城城 つづく

東端(ひがしばた)城 安城市

2019年10月10日 12時20分36秒 | 安城市
安城市の東端(ひがしばた)城に行きました。東端城は安城市の西南にあります。浄土真宗本願寺派を西三河の地で広めた上宮寺の如光が生まれたとされる「油が淵」の近くです。
油が淵の近くに地名として西端と東端があります。おそらく油が淵の西、東という意味で付けられた地名だと思います。西端は、現在碧南市になっていて町名としては存在していませんが、西端小学校、西端中学校、西端交差点等として残っています。東端町は、安城市になっていて、町名として残っています。

東端城の位置 これまで訪れた安城市の城も合わせて記しました。東端城は、西南の方です。

東端城の歴史(永井直勝)は、現地の案内に詳しく説明が書かれています。

東端城(永井直勝)の案内

やや長くなりますが、分かりやすいので、そのまま紹介します。
「東端城と城主永井伝八郎直勝
東端城は、天正8年(1580)大浜郷にて羽城の司令を勤める長田久右衛門重元の長子尚勝(ひさかつ)が築いた。
城の構造は居館城から郭内城へ移り変わる過程にある代表的な城郭であった。蓬左文庫蔵の「東端城絵図」に見る東端城の姿は連郭構造の大規模な造りであったように描かれている。
東端城が歴史の表舞台に出るのは尚勝の弟直勝(なおかつ)によってである。直勝は13歳の時に家康の長男松平信康に仕えたが、天正7年(1579)に信康が自刃すると大浜へかへり蟄居していた。しかしその後、18歳の時には家康に仕えるようになり、禄30貫を賜った。この時姓を長田から永井に改め、永井伝八郎直勝とした。
天正12年(1584)直勝22歳の時、初陣として小牧長久手の戦いに出陣した。ここで彼は敵将池田勝入斎恒興の首を取る大殊勲をたてた。これにより東端村1,000石の地を賜り、兄尚勝に代わって東端城城主となった。
その後関ケ原の戦いでも戦功を上げ、従来の領地に城ヶ入村、高取村を合わせて4,050石、さらに上総国、近江国で6,000石、合計1万50石となった。さらに大坂夏の陣では豊臣秀頼切腹見届けの大役を勤めた。この功績でこれまでの領地を改め、上野国小幡で1万石、近江で2,000石、笠間近在で2万石、合計3万2,000石を領有し常陸国笠間城の城主となった。このとき東端城を離れ、以後この城は廃城となる。
直勝は、その後も業績を上げ元和5年(1619)に常陸国新治(にいばり)郡柿岡、土浦両所にて2万石さらに同8年には新たに下総国内で2万石を加え、合計7万2,000石を領し、下総古河城城主となった。その間直勝は江戸にて評定所の奉行を勤めたが、寛永2年(1625)63歳で没した。」


東端城は、平地にあります。

東端城の概念図

西側から北にかけて土塁の跡が残っていました。

西側に残る土塁

土塁はぐるっと曲輪を囲んでいたと思われますが、はっきり残っているのは、西側、北側、及び東側でした。


北西土塁

北西側は、土塁の外に城山稲荷の社が立っていました。

この社の外側を見ると土地が窪んでいました。もしかしたら堀の跡かもしれません。

堀の跡か

ぐるっと回って東の方に出ると、隣の念空寺との間の道にでます。これがけっこう落ち込んだ感じで、堀があったように思えました。土塁は、東端城の東側にも続いていました。

東側の土塁と堀

そして外に出てみますと北西のところに小川が流れていました。これは堀だったのではないかと思いました。

北西側の堀跡

けっこう流れがあったので、もしかしたらただの小川かもしれません。彼岸花がまだ咲いていました。

今は安城市と碧南市に分かれていますが、大浜、西端、東端は深いつながりが昔はあったようです。永井直勝が大浜でも東端でも出てくるのは決して偶然ではないと思いました。