愛知の史跡めぐり

愛知県の史跡を巡り、その記録を掲載します。

武豊停車場跡地 武豊町

2017年02月14日 14時23分39秒 | 武豊町
さて、武豊町ではもう一つ見たいものがあります。それは旧国鉄武豊停車場の転車台です。

愛知県の文化財のサイトによれば

転車台は、平成11年(1999)8月、武豊町立武豊小学校の5年生児童が「総合的な学習の時間」の授業の課題で、町の史跡を調べる歴史探訪に出かけた際に発見した遺構である。同年12月、小学生は学習の総仕上げとして、町長から町の歴史について話を聞いた際に保存を要望、これを契機に復元、保存の検討が始まった。転車台は、風雨にさらされ、傷みも激しかったが、小学生の声が町長に届き、平成13~14年度(2001~02)に、覆屋をかけるなど保存修理等が行われ、現在に至っている。

とのことで、なんと小学生が発見した文化財というのです。

早速行ってみると、屋根がつけられ柵に囲まれていました。

転車台全景

柵の中には丸い転車台がありました。

転車台

この転車台は、機関車の向きを変えたり、貨物の向きを変えたりするときに使われていたようです。

明治19年(1886)、武豊線が愛知県で最初の鉄道として武豊から熱田まで開通したそうです。愛知県で最初というのは驚きでした。名古屋、東京間ではなく海と結ぶための鉄道が最初だったのです。

武豊停車場跡地の石碑

武豊線によって武豊の町は大きく変わったそうです。海外から輸入された大豆や塩を原料とするみそ・たまりなどの食品産業が飛躍的に成長したそうです。また窯業、綿布などの産業も盛んになり、地域住民の生活に大きな変革をもたらしたと資料館のパンフレットに書いてありました。

武豊港ジオラマ 停車場跡地のすぐ横の武豊地域交流センターにありました。


停車場跡地から見えるみそ・たまりの製造工場

しかし昭和30年代高度経済成長の時には輸送手段がトラックに移り変わる中で、昭和40年(1965)武豊港の貨物運輸業が廃止され、武豊駅と武豊港間の鉄道も廃線となったそうです。

しかし、現在は衣浦臨海工業地域の一角を担い、それなりの発展を遂げていると思われます。


停車場跡地から見える臨海工業地域の工場

武豊町歴史民俗資料館 武豊町

2017年02月13日 08時10分52秒 | 武豊町
寒い日が続きます。西日本特に日本海側は大雪だそうで、お見舞い申し上げます。大きな事故が起こらないことを祈りたいと思います。

さて、太平洋側は風が冷たくて強いのですが、よく晴れています。今日は、武豊町に行ってきました。武豊町は、このブログでは初めてです。武豊町は知多半島の東側にあり、三河湾に面しています。


武豊町の位置(Kenmap9で作成)

はじめに武豊町歴史民俗資料館を訪れました。

武豊町歴史民俗資料館

なかなか立派な建物でした。

武豊町歴史民俗資料館概要図(パンフレットより)

中の様子は上の図のようです。入館するとすぐに船の模型が展示されていました。菱垣廻船、弁才船、ゴベザイ船・・・・。武豊町が開運で栄えていた町であることが分かりました。

さらに右側にはみそ・たまりの醸造蔵の復元模型がありました。みそづくりが盛んな町であったことも分かりました。

みそ・たまりづくりの復元模型

2階に上がりますとはたおりをしているおばさんたちがいましたが、忙しそうで、あいさつをしましたが、お話は聞けませんでした。残念。

さらに「開拓」「養蚕」のパネルがありました。

開拓について伝えるパネル

知多半島は大きな川もなく、水の確保が大きな課題だったようです。池を作ることが開拓の中心だったようです。


「養蚕」について伝えるパネル

明治時代になると日本の輸出の主力が生糸になることからどの地域でも養蚕が行われました。武豊町も例外ではなかったようです。

また、山崎古墳という遺跡があるようで、鉄製の武具や農工具、馬具、須恵器、装身具、紡績具などが出土しているようです。
かなり強力な豪族がいたようです。

山崎古墳の出土品

町立の資料館としては立派な建物でした。また、機織りの人が来ていましたが、地域の方も来て賑わいがありました。

亀山城(3) 新城市

2017年02月12日 16時16分32秒 | 新城市
亀山城には、道の駅の北側の道を右に進んで行きますとすぐに入り口があります。
亀山城の入り口

入口の看板に亀山城の鳥瞰図がありました。なかなかよくできていると思いました。

亀山城案内図 ガラスの関係で白っぽくなってしまいました。 

また本丸には「亀山城址の図」という縄張り図も掲示してありました。

亀山城址の図 「愛知県中世城館調査報告Ⅲ 参照」との注意書きがありました。この図に見学の順番を書き込ませていただきました。

入口を登っていくとまず左手に大きな腰曲輪が見えました。

腰曲輪(①)

腰曲輪を左に見ながらさらに登っていきますと再び左手に西の曲輪が見えました。

西曲輪(②) 

西曲輪からさらに登っていきますと大きな虎口がありました。

本丸西虎口(③) 

本丸の虎口です。周りの木が除去されていて、大変見ごたえのある虎口でした。その傍らに「土橋址」という標識がありましたが、積雪のため確認することはできませんでした。本丸は土塁に囲まれ、下の道路から見えるように、本丸北側には「亀山城址」の看板が立っていました。

本丸を東の方に進みますと東虎口がありました。

本丸東虎口(④) 虎口の外側から写しました。

東虎口からは二の丸があります。二の丸の入り口は、まるで枡形のようになっていました。

二の丸虎口部分(⑤) 二の丸に入るとすぐに土塁に囲まれた空間になり、防御性の高い構造だと思いました。

二の丸から南の方に回りました。本丸の南側です。本丸の南側は堀になっていました。そして左側に「大手跡」の標識が見えました。ここが大手門だったようです。

大手跡(⑥)

その大手跡の向かい側は東曲輪です。標識はありましたが、草むらになっていました。

東曲輪(⑦) 

大手跡から先は堀も鋭くなっていました。左側の土塁も高く、空堀であることがよく分かりました。

本丸南側の空堀(⑧)

ずんずん西の方に進んで行きますと、また左手に虎口がありました。

空堀に入る虎口(⑨)

本丸から二の丸、本丸南側の空堀を周って再び本丸西虎口に戻りました。本丸西虎口から西曲輪を抜けると本丸西の腰曲輪がありました。

本丸西の腰曲輪(⑩)

そして最後に城の西側に雄大に切られた竪堀を見ました。

城址北西の竪堀(⑪)

この竪堀は大変素晴らしく、周りに木がないこともあって大変感動しました。下の道路からも見えるくらいに大きいものでした。

亀山城はたいへんよく整備されていて、土塁や堀などが大変見やすくなっていました。また規模も大きくて見ごたえのある城でした。近くに古宮城もありますが、二つとも感動的な城で、三河にきたときには是非とも紹介したい城だと思いました。昨年11月の城の会の見学会の後に分かったので、大変悔しい気持ちでした。

亀山城(2) 新城市

2017年02月07日 15時20分03秒 | 新城市
亀山城に行くには国道301号線をひたすら走ります。私は東海環状自動車道の「豊田松平」インターを降りて、301号線を東に向かって走りました。

豊田市から新城市になり、「田原」の交差点を右に曲がりますと作手地域に入ります。やがて「つくで手作り村」という道の駅が見えます。そのすぐそばの山が亀山城です。

道の駅「つくで手作り村」

この道の駅で昼食をいただきました。現在NHKで「おんな城主 井伊直虎」を放送中ですが、しっかり「井伊家ゆかりの地」という幟がありました。

どんな「ゆかり」があるか調べたいです。 


道の駅「つくで手作り村」から見える亀山城址の看板

この辺りには立派な城跡が密集しています。文殊山城址、賽の神城址、古宮城址です。どれも武田氏ゆかりのりっぱな城です。


城跡が密集する作手地域(yahoo地図から作成)

亀山城(1) 新城市

2017年02月06日 22時21分27秒 | 新城市
少し前ですが、1月22日(日)、新城市作手(つくで)地域に行きました。

亀山城は奥平氏の城
「三河国二葉松」では、以下のようなコメントがされています。

設楽郡 市場村亀山城
奥平八郎左衛門築之 同六郎左衛門 同出羽守 同監物 今林成

世治リテ奥代氏上州小幡ヨリ旧地トテ昔ニ返シ又々此城拝領スル則城ヲ取立住居松平下総守旧地トハ雖トモ悪敷処故二御願申上大和国郡山ヘ国替城ハ夫ヨリ掃捨ラル


設楽郡 市場村亀山城
奥平貞俊がこの城を築く。その後、六郎左衛門、出羽守、監物が城主となり、今は林である。

世が治まって、奥平氏は上州の小幡から「昔の領地であるから」ということでこの城を拝領することになった。しかし、松平(奥平)下総守は「旧地といってもよくない土地であるから、国替えをしてほしい」と願い出て、大和国郡山に国替えをした。それからこの城は廃城となった。


奥平氏系図(寛政重修諸家譜より)女子は省略しました。また、これより後にも家系図は続いていますが、省略しました。

奥平氏の系図に照らしますと、

八郎左衛門は貞俊(上野国より作手へ)
六郎左衛門は貞昌
出羽守は系図には見当たりません
監物は3人いますが、六郎左衛門の貞昌を除くと貞久か貞勝ということになります。
監物の後に「今ハ林成」とあるので、4代目の貞勝が監物で、その後の貞能・信昌の時に亀山城からほかの城に移ったのではないかと思われます。

武田側から徳川側に移った代償
5代目の貞能・6代目信昌の時に、武田側から徳川側にかわっています。信昌の嫁に家康の長女亀姫を嫁がせたのです。なお、この時(天正元年1573)武田側に差し出していた人質3人が処刑されました。系図の「千丸」(信昌の弟)もその一人で、14才でした。

下総守忠明の国替え
次に下総守の話ですが、下総守は信昌の四男の忠明のことです。兄の奥平(松平)家治が上州7000石を領有しましたが、早死にをしたため、弟の忠明が継ぎました。その後関ヶ原の戦いを経て、作手に17000石を領有しました。「三河二葉松」はそのあたりのことを書いているようです。
「三河二葉松」では、作手を「悪敷処故」、国替えをお願いし、大和郡山を領有した旨が書かれています。作手を悪しき処とはどういうことでしょうか。さらに、国替えは「作手→大和郡山」と単純ではなく

慶長7年(1602)作手
慶長15年(1610)伊勢亀山
元和元年(1615)摂津大坂
元和5年(1619)大和郡山」

と間に2回国替えが入っています。

「三河二葉松」で、奥平氏について、またひとつ秘密を知ることができました。