愛知の史跡めぐり

愛知県の史跡を巡り、その記録を掲載します。

青塚古墳・経塚古墳 幸田町

2017年04月08日 18時07分24秒 | 幸田町
ちょうど今が桜は見頃です。満開とまではいきませんが、七分八分咲きというところでしょうか。しかし、あいにくの雨。花見も大変だろうなあと、史跡めぐりに行きました。

青塚古墳
今回は幸田町の古墳です。国道248号線沿いに青塚古墳というのと経塚古墳というのがあるというので、訪れました。


青塚古墳の看板

国道248号線の坂崎広野(幸田町)という交差点を北の方に歩いていきますと左側(西側)に土の盛ったようなものが見え、画像のような標識があります。

青塚古墳の紹介
幸田町教育委員会の現地案内板によれば、以下のようです。
本墳は6世紀初頭頃に菱池沼東部農業共同体の最も有力な者の墓として築造された。一見、円墳のように見えるが、幸田町では唯一の前方後円墳である。
 明治43年と昭和4年の2回発掘されており、石室は最も古い形式の竪穴式石室である。出土遺物には、直刀、硝子製小玉・金銅銙・鹿角製柄頭・水鳥埴輪および人骨がある。
 青塚という呼称は、「王塚(オオツカ)」から転訛したものとも考えられる。

金銅銙(こんどうか)とは金属でできた、腰帯につける装飾品という意味です。柄頭(つかがしら)とは刀の柄の先のこと、または、その装飾品のことです。鹿角製とあるので、この場合は装飾品のことでしょうか。



青塚古墳全景(北から撮影)

事前にネットで調べた時は、こんもりと木に覆われていましたが、今日訪れた時は、きれいに木が切られていました。文化財の整備のためであれば、とても素晴らしいと思いましたが、何かの開発のためだったらと、ちょっと心配になりました。

経塚古墳
この青塚古墳から北へ少し行くと経塚古墳があります。


経塚古墳

隣には工場があり、古墳には木が茂り、古墳の頂上には日清戦争の記念碑が建てられていました。案内板もフェンスの枠に遮られて文が全部読めませんでした。残念。

内藤弥次右衛門の石碑 幸田町

2013年10月14日 07時37分27秒 | 幸田町
荻城址
 10月13日(日)幸田町荻の方に行きました。「松平記」松平昌久のところに内藤弥次右衛門という武将が登場して、WIkipediaで、「荻城址碑文によれば」とコメントがありました。そこで、「荻城址」なるものがどんなものか訪ねることにしました。


国道248号線から東へ約350メートル進むと右側に石碑がありました。

五輪塔が右に並んで建てられていました。

五輪塔の裏に説明文がありました。


内藤弥次右衛門清長公終焉の地と伝う
荻城は寛正(一四六〇)の頃内藤氏京都より三河に移り住みこの地に屋敷
城を築いたと伝えられる。永禄七年以来明治三八年まで内藤一族が居住。
同年耕地整理事業に伴い城址の古木は伐られ堀は埋められ往時を偲ぶもの
は姿を消し城 西堀の地名をのこすのみ整理後小字名は城跡となる
永禄六年の晩秋三河一向一揆起る上野城主内藤弥次右衛門清長は主君松平
元康(家康)嫡子家長養子信成甥の正成同族甚五左衛門忠郷等と袂を分か
ち熾烈なる信仰に燃え宗門護持の為権勢に屈せず決然起って法敵退治の為
進むは往生極楽 退くは無限地獄を旗印とし主従骨肉相食悲惨な戦いに敗
れ こゝに蟄居の身となる同七年甲子八月十二日死去す 享年六十四歳
 法号 楽宝院殿釈幽鑑真光覚位
没後四百二十三年にあたり城の由来を記しこゝに碑を建立す
 昭和六十二年八月吉日 荻郷土史研究会有志


蓮如ゆかりの玄好寺
 ついでなので、近くのお寺も回ってみました。玄好寺と言うお寺が北の方にありました。中に入ってみると、蓮如ゆかりのものが2点ありました。といっても説明板だけですが。



 ひとつは「蓮如上人絵伝」です。三河一向一揆について描かれているものが岡崎本宗寺にあるらしいのですが、ここにも絵伝があることが分かりました。ただし、絵伝の内容が三河一向一揆のものなのかは分かりません。



 もう一つは、「蓮如上人 御済度 蛇骨塚」というものです。どういうものなのかよく分かりませんが、蓮如上人という文字が見えるので、蓮如上人ゆかりのものであろうと思います。

夏目次郎左衛門吉信 幸田町

2013年10月12日 06時03分07秒 | 幸田町
 「松平記」は、一揆勢と家康勢の武将の紹介が一段落して、戦いの様子の話へと移っていきます。
 夏目吉信の話は以前に「野場城」で出てきましたが、「松平記」に即してもう一度載せます。

夏目次郎左衛門六栗で家康勢と戦う
一 額田郡野羽郷の古城(六栗 むつぐり)に夏目次郎左衛門が屋敷を城に構えて、大津半左(右)衛門と乙部八兵衛が籠もっていた。そこへ深溝の松平主殿(伊忠)が押し寄せ、毎日のように戦をしていた。 

 夏目吉信はもともとは家康の家臣だったようです。それが三河一向一揆のときは一揆勢に与しました。籠もっていたお城は、六栗城で自分の屋敷だったようです。そこには、大津半左衛門、乙部八兵衛らもともに籠もっていました。主な敵は、深溝の松平伊忠だったようです。「家忠日記」で有名な松平家忠は、伊忠の子どもに当たります。

乙部八兵衛、伊忠に忠義を返す
そのときに乙部八兵衛が松平主殿助方に忠義を返し、兵を引き入れたので、大津半左衛門はたまらず、針崎(勝鬘寺)へ退却した。

 ともに戦っていた乙部八兵衛が松平伊忠に忠義を返し、兵を引き入れてしまいました。これは、乙部八兵衛の作戦で、伊忠と戦って命を落とすより、降伏をして命乞いをしたほうが助かると見たらしいのです。大津半左衛門(半右衛門)は針崎の勝鬘寺に逃げています。

乙部八兵衛命乞いをする
夏目次郎左衛門は引くこともできず、土蔵の中に入って隠れていたところ、主殿助衆が守り固めて出ることができなくなった。今にも責め殺そうとしたところ、乙部八兵衛がいろいろと詫び言を言い出し、このたびの忠節に申し替えて命を助けて欲しいと嘆くので、このことを家康に申し上げたところ、家康は大いに感じるところがあり、命を助けることにした。

 松平伊忠が今にも夏目次郎左衛門を攻め落とそうというとき、乙部八兵衛が必死に命乞いをしています。家康は、それを聞きいれ命を助けることにしたようです。

後に三郎殿(松平信康)の家来となった。乙部八兵衛は主殿助(松平伊忠)の同心(家来)になった。


夏目吉信の墓

右から吉信、吉久(吉信の父)、吉為(吉信の子の吉忠のこと)


野場城 額田郡幸田町

2013年07月25日 06時07分50秒 | 幸田町
夏目吉信、乙部八兵衛に裏切られる
 野場城は「三河一向一揆」で、夏目吉信、乙部八兵衛、大津半右衛門がたてこもった城です。野場城を攻めたのは、深溝松平の松平伊忠です。一揆勢と伊忠勢での小競り合いありましたが、一揆側の乙部八兵衛が伊忠に寝返り、兵を引き入れたので、大津半右衛門は針崎の勝鬘寺に逃げ、夏目は野場城の土蔵に隠れることになってしまいました。そのときに乙部八兵衛が伊忠に命乞いをし、そのことを家康が知り、家康によって夏目吉信は命を助けられることになったといいます。以後、夏目は家康の家来となり、後の三方が原の戦の時には、家康の身代わりとして戦死することになります。(「松平記」より)
また、夏目吉信がたてこもったのは、夏目の居城である六栗城という説もあります。

野場城土塁跡

本光寺 額田郡幸田町

2013年07月24日 06時15分48秒 | 幸田町
深溝松平氏の菩提寺
先に紹介した黄金堤の前に、本光寺を訪れました。本光寺は、深溝松平氏の菩提寺で、歴代松平氏の墓所となっています。

深溝松平家は、1代から4代までは深溝にいましたが、第5代忠利のときに豊橋吉田藩に移動しています。その後、刈谷藩、福知山藩と移動し、1668年(寛文8年)に、島原藩に移動しました。1747年(寛延2年)宇都宮藩にいったん移動しましたが,1774年(安永3年)再び島原藩に移動し、明治維新となったそうです。



1代から4代までの墓(左から4代家忠、3代伊忠、2代好景、初代忠定)
島原の地から
 島原藩となったときにも、歴代城主の遺体がはるばる島原の地からここまで運ばれて、この本光寺に祭られたそうです。