愛知の史跡めぐり

愛知県の史跡を巡り、その記録を掲載します。

小牧市歴史講座 小牧市

2017年11月12日 06時30分52秒 | 小牧市
信長と家康の同盟
先日小牧市に住む友人の方に小牧市で歴史講座をやっているという話を聞き、早速聞きに行きました。

歴史講座の案内チラシ

テーマは織田信長です。小牧市には小牧山城があり、織田信長にゆかりがある市です。そこで、織田信長に関する歴史講座をやって、市民に関心を持ってもらおうという企画のようです。主催は小牧市教育委員会です。

第1回の今日は、信長と徳川家康です。信長と家康と言えば、二人の同盟についてです。この同盟関係がどのようなものであったか。信長と家康との間で交わされた手紙に基づいて、説明がなされました。

講師は平野明夫氏で、「三河松平一族」の著者です。主に徳川家康の研究をしておられます。


手紙の読み方

この手紙は、永禄12年(1569)に織田信長が徳川家康に差し出したものです。手紙は、「書き出し」(手紙のはじめのことば)「書き止め」(終わりのことば)「宛所」(相手の名前などを書いたところ)「脇付」(相手に対して最後に述べる言葉)などで構成されていて、それぞれに相手と自分との関係を表す言葉や位置などがきめられているそうです。

書き出し 「芳札」 相手を目上としている
書き止め 「恐々謹言」相手を目上としている(ただし字が崩れ草書体だと同等としている)
宛所 日付と宛名が同じ高さになっているときは、同等としている。
脇付 「御報」相手を同等としている

これらから永禄12年の段階で信長と家康は同等の関係であったことが分かると言います。
こうして信長から家康への手紙を調べていくと、二人の関係に変化があると言います。

永禄12年(1569)同等
元亀2年(1571)同等
元亀3年(1572)同等
天正元年(1573)同等
天正5年(1577)目下
天正6年(1578)目下
天正7年(1579)目下
天正9年(1581)目下

天正元年から天正5年の間に二人の関係は同等から、目上、目下の関係になったと言います。

一方、家康から信長への手紙は、家康がどんどんへりくだっていきます。
天正2年(1574)目上
天正3年(1575)目上
天正9年(1581)直接信長に出さずに家臣に送り、披露してほしいという形式 相手を最上級に持ち上げている

この変化の契機は、信長による将軍義昭の追放だそうです。というのは、同等関係であったときは、天皇や将軍の下で、対等であったようで、徳川家康は、将軍義昭の命令であれば、信長の意思より義昭を優先することもあったそうです。しかし、天正元年(1573)義昭が追放されたことで、対等であることの箍が外され、信長が家康に対して優位となり、天正9年頃には、家康は信長の臣下となっていたようです。天正10年に武田氏が滅亡し、駿河国が家康の領地となりますが、それは信長から与えられたものだったようです。

話しは2時から3時半まででしたが、時間ぴったりに終わり、大変好感が持てました。次回も聞きたいと思いました。

川尻城跡(2) 新城市

2017年11月08日 14時58分20秒 | 新城市
登場道を登っていきますと、主郭の隅に観音様が立っていました。この観音様は、不思議なことに左手に鳩を抱えていました。平和の象徴ということでしょうか。

鳩を抱えた観音様

その横には、戦争で亡くなった人の慰霊碑が立ち並んでいました。大きな観音様は、それらの人たちの鎮魂のために建てられたのだと思いました。

主郭の南側には低い土塁の跡が残っていました。 

主郭南側の土塁跡

主郭東側には結構高い土塁跡がありました。東側は山続きなので、こちらの守りが固いように思われました。


主郭東側の高い土塁

そしてその外側には堀切のようなくぼ地がありました。そのくぼ地のさらに外側には土塁がありました。厳重な守りになっていました。

主郭東の堀切

この堀切・土塁をこえてさらに東側に進みますと、細長い曲輪があり、曲輪の北側は土塁で守られていました。

東側の曲輪と土塁

そして先端は切り落とされていました。

東の曲輪の先端部分

ということで、この城は東側を意識した造りになっていることが分かりました。はじめに築城したのは、奥平貞俊で上野国から来たばかりです。その当時は東のほうに意識すべき敵がいたのかもしれないと思いました。

川尻城跡 終わり

川尻城跡(1) 新城市

2017年11月07日 21時07分23秒 | 新城市
11月3日、久しぶりにお城を訪ねました。季節は、もう秋です。紅葉のシーズンです。秋は、紅葉を見ながら山城を見学するというのが最高です。今日は新城の作手(つくで)に行きました。

城跡が多い作手地方(地理院地図より作成)

新城市の作手地方は、古宮城をはじめ亀山城、文珠山城、賽ノ神城が近くにあり、さながら山城銀座というところです。
古宮城跡
亀山城跡
文珠山城跡
塞ノ神城跡

その作手地方に、もう一つお城がありました。川尻城です。

川尻城は亀山城の奥平氏が、亀山城に移る前に居住していたお城だそうです。奥平貞俊です。
「参河国二葉松」では、以下のように記載されています。

川尻村古城
奥平八郎左衛門上野国奥平より爰(ここ)に来る。此処より
亀山城に移る。次は奥平但馬守が住す。今は畑となる。


奥平但馬守とは奥平久正のことで、奥平貞俊の孫、奥平貞久の二男に当たります。奥平久正は後に額田郡の夏山で城を構えるようです。参考 亀山城(1) 新城市

川尻城跡は、「創造の森城山公園」として整備されていました。

創造の森城山公園の案内板

また駐車場からは古宮城が見えました。近いことが分かりました。

川尻城から見る古宮城


川尻城の概要図( 「愛知県中世城館跡調査報告書Ⅲ(東三河地区)原図:佐分 清親 氏」より作成)

さて、駐車場から階段を登って城のほうに歩き始めますと、いたるところに石仏がありました。観音様のように見えました。どうしてかなと思いました。

登城道の傍らにたくさんあった観音様

2~3分ほど登ると冠木門が見えました。これを見ると東条城や桜井城を思い出してしまいますが、戦国期の城という雰囲気が出ます。

冠木門

冠木門の奥は、曲輪になっていて、周りに柵がめぐらされていました。なかなかいい感じでしたが、曲輪が草ぼうぼうでせっかくの演出が台無しになっていました。残念。

加茂一揆(10)滝脇村

2017年11月06日 09時55分07秒 | 加茂一揆
次に滝脇町に行きました。

滝脇町(地理院地図より作成)

まず、問題の滝脇陣屋跡です。

滝陣屋跡

滝脇陣屋跡は、石垣の跡が竹藪の中に残っているだけでした。この石垣の上に昔は建物があったのでしょうか。たしかに小高い山裾に立地していて、滝脇の町が一望できる場所にありました。一揆衆が押しかけてくれば、当然見える場所だと思いました。

その横に長松院という曹洞宗のお寺がありました。

長松院

長松院は、案内板によれば、滝脇松平氏の墓所だそうです。滝脇松平氏は、松平宗家松平親忠の9男で長享元年(1487)滝脇城に封じられたそうです。しかし、弘治2年(1556)には、大給松平氏との戦いがあり、滝脇松平氏初代の松平乗清、2代目松平乗遠(のりとお)、乗遠の長男松平正乗(まさのり)が討死をしてしまったそうです。天正3年(1575)には、3代目松平乗高が復讐戦を行い、大給松平氏を一時尾張に追いやることに成功したそうです。
その後、4代目松平乗次が滝脇村に陣屋を構え、この地を治めたということです。

滝脇松平氏の墓碑

しかし、松平数馬についてはコメントがなく手掛かりは得られませんでした。

なお、この滝脇町は、豊田市と岡崎市の境目にあり、その境を郡界川が流れています。郡界川とはまさに加茂郡(北側)と額田郡(南側)を分ける川だったのです。

郡界川

加茂一揆(9) 豊田市 乳子守(ちごもり)神社

2017年11月05日 07時37分16秒 | 加茂一揆
10月は大変な月でした。秋の長雨が10月にずれ込んで毎日雨ばかり降ると思ったら、台風21号、22号で土日がつぶれ、おまけに総選挙でぐちゃぐちゃでした。
ということで、ようやく30日は晴れ間が戻り、ちょっと寒かったですが、史跡めぐり日和になりました。

今日は加茂一揆関連で豊田市の松平地区、滝脇町、鍋田町に行きました。
まず鍋田町ですが、ここに乳子守(ちごもり)神社という神社があります。どうして乳子守神社に行くのかというと、松平数馬が寄進したという灯篭があるからです。松平数馬というのは、天保年間の旗本で、滝脇陣屋にいたようです。松平地区の紹介をしているパンフレットに次のような記事があるのを発見しました。

「境内の灯籠は、滝脇陣屋の領主松平数馬が天保12(1841)年に奉納したものである。」(鍋田自治区の紹介パンフレットより)

松平数馬は、「豊田市史」の資料「加茂一揆の過料銭」一覧表で、知行として、滝脇村、(西)大沼村、遊平村、鍋田村、曲村、羽明村、平折村、額田郡日影村、同丸塚村を有していました。一揆が発生した滝脇村は旗本松平数馬の知行所だったわけです。一揆は、滝脇村の石御堂に集結した後、滝脇村の庄屋宅を打ち壊しています。
当然その知らせは当地の陣屋である滝脇陣屋にも来ていたものと思われます。しかし、一揆が起こった段階では滝脇陣屋は何も動いていません。動いたのは岡崎藩領の須山村、仁木村、岩津村、大谷村等の庄屋たちです。彼らが岡崎藩に注進したことから、権力側の動きが始まったように「鴨の騒立」では記載されています。

一体どうして滝脇陣屋は動かなかったのか疑問です。

なにか手がかりがないかと思い、出かけることにしました。

松平地区の鍋田町、滝脇町の位置


乳子守神社の標識


松平数馬が寄進した灯篭

その灯篭がありました。確かに「松平数馬」という名と「天保12年」という年が刻まれていました。

灯篭の「松平…」の文字が画像からも確認できます。

灯篭の「天保12年…」の文字

ただこの灯篭で不思議だったのは、正面の紋が葵の紋ではなかったことです。さらに神社の名称が「児子森」となっていたことです。

灯篭に刻まれた家紋と神社名

調べましたら、多くの旗本は徳川宗家にはばかって葵の紋を使わず、この「丸に蔦」を用いたそうです。なので、松平数馬の家紋と言えそうです。

また神社の名称については、なぜ「児子森」が「乳子守」になったのかは分かりません。ただ、もともとは、鍋田住民が天文4(1535)年に白山の宮を勧請して「千子の宮」と称して安置したのが始まりといわれているそうです。安産の神様だそうです。(自治区紹介パンフレットより)

ということで、乳子守神社では滝脇陣屋が動かなかった手がかりはつかめませんでした。