愛知の史跡めぐり

愛知県の史跡を巡り、その記録を掲載します。

浜松城 静岡県浜松市

2016年03月28日 08時54分06秒 | 静岡県
いざ浜松城へ
三方ヶ原古戦場をあとにして、今度は家康が出発した浜松城に向かうことにしました。

浜松城天守閣。模擬天守、左は復元天守門。

安政年間の古図
浜松城は、案内板に安政年間の古図ということで、概要がありました。

案内板


古図の部分

現在残っているのは、本丸の石垣のみのようです。

二の丸の跡

駐車場から二の丸あたりを眺める。二の丸は、現在元城小学校になっているようです。そういえば、豊田市にも元城小学校という小学校がありました。やはり挙母城址の近くに建っていました。

結婚式が
本丸北に中央芝生広場があり、なんとそこで結婚式が行われていました。花嫁さんは、白無垢で人力車に乗って登場していました。

中央芝生広場での結婚式の様子。天守台から写しました。「相当お城の好きなカップルなんだね」と近くの人が話し合っていました。

若き家康の像
本丸に入りますと、すぐ家康の像がありました。「若き日の徳川家康公」ということで、限定版でした。確かに家康が浜松城にいたのは、29歳から46歳までの17年間ということなので、若いといえば若いです。


鏡石
また、城主の力を誇示するための鏡石がありました。

鏡石

天守閣
天守閣の中は、博物館になっていました。なかで怖かった?のは、家康の像です。あまりに精巧にできていて、皮膚の感じとか人間そっくりでした。いまにも動き出しそうで、怖かったです。


天守閣への入り口の門?
天守閣から出てみて、ふと石垣が門のようになっていることに気づきました。


あとで、城のチケット売り場にいた方にお伺いしましたが、この石垣は、江戸時代からのもので、建物は、イメージとして昭和33年(1958)に建てられたということでした。もしかしたら、門があったのかも知れないと思いました。

天守門
また、入るときは気づきませんでしたが、りっぱな門がありました。天守門というそうです。

こちらは平成26年(2014)に古図や発掘調査をもとに復元されたそうです。門の横には狭間が展示してありました。見学するにはいい感じでした。


狭間


公園にリス?
天守閣の北側から降りていくと、なんとリスらしきものが見えました。鳥のような鳴き声で鳴いていましたので、何の鳥だろうとあたりを探しましたら、木の枝にいました。


公園内にたくさん木があることは確かですが、まさかリスが生息しているとは驚きでした。管理している方や町の人がえさなどを与えて、保護しているのでしょうか。すばらしいと思いました。

三方ヶ原古戦場 静岡県浜松市

2016年03月26日 20時43分18秒 | 静岡県
所在地(石碑) 浜松市根洗町(三方原霊園内)

徳川家康三大危機
徳川家康の三大危機の一つとして三方ヶ原の戦いが挙げられます。危機の一つは、三河一向一揆、二つ目がこの戦い、そして三つ目が本能寺の変の後の伊賀越えです。三方が原の戦いは、西上してくる武田信玄との戦いです。当時武田信玄は戦国最強の武将でした。信長でさえ、戦うことをためらったということです。しかし、家康は、迫りくる信玄に対して、何もせずに遠江、三河の地を素通りさせるわけにいかなかったようです。

三方ヶ原の戦いへ家康の意気込み
元亀3年(1572)、武田軍は家康側の守る二俣城を落城させると、籠城している浜松城の家康を無視するかのように北のほうを通り過ぎようとしました。それを知った家康は、作戦を変更し、籠城戦から野戦に切り替え12月23日三方が原で武田軍と戦いに及びました。
武田軍3万に対し、徳川軍は八千。「三河物語」によれば、次のようです。

「元亀三年壬申十二月廿二日、家康、浜松より三里に及んで打出させ給ひて、『御合戦を可被成』と仰ければ、各々年寄共の申上けるは、『今日の御合戦、如何に御座可有候う哉。敵之人数を見奉るに、三万余と見申候。其上、信玄は老武者と申、度々の合戦になれたる人なり。お味方はわづか八千之内外御座可有哉』と。申上ければ、『其儀は何共あれ、多勢にて我屋敷之背戸をふみきりて通らんに、内に有ながら、出てとがめざる者哉あらん。負くればとて、出てとがむべし。そのごとく、我国をふみきて通るに、多勢なりというて、などか出てとがめざらん哉。兎角、合戦をせずしてはおくまじき。陣は多勢・無勢にはよるべからず。天道次第。』と仰ければ、各々『是非に不及』とて、押寄けり」

匹夫の勇?
家康は、大勢で家の裏を通るものがいたら、それを咎めない者はいない、どうして合戦をしないでおかれようか。戦は兵の多い少ない出なく、時の運だ、というのです。
これは、家康の家臣大久保忠教の文なので、家康の勇気を褒めたものとも言えますが、明らかに匹夫の勇です。

結果は案の定大敗し、家康は、やっとのことで浜松城に逃げ帰りました。とちゅうで餅を食ったが代金を支払わずに逃げたとか(小豆餅)、それでも追いつかれ支払ったとか(銭取)の伝説が地名となって残っているようです。また、家康は、この敗戦を忘れないために「しかみ像」を描かせたともいわれます。


三方ヶ原の戦い関連地図

石碑が霊園内に
さて、その三方ヶ原ですが、場所そのものは広くて、ひろい平原でした。しかし、古戦場の石碑を探すのに苦労しました。根洗町という地名を頼りにナビで探索したところ、偶然「三方原霊園」内にその石碑を見つけることができました。


三方ヶ原古戦場の石碑


案内板のうち合戦の様子を図示したところ。よく分かる図でした。

浅谷城(2) 豊田市

2016年03月21日 09時59分36秒 | 豊田市
本曲輪
本曲輪からは南のほうに堀切、物見台がありました。

物見台。たくさんの大きな岩がありました。ここに上がって遠くを見たのでしょう。

また、本曲輪から東のほうには神越川の渓谷が見えました。とてもすばらしい眺めでした。


腰曲輪
本曲輪の北側に腰曲輪がありました。けっこう大きかったです。


堀切
そして、いよいよ本曲輪北東の堀切を見に行きました。


この堀切をすぎてさらに小高い曲輪上の土地を行くと、とても大きな堀切がありました。画像では、表現しがたい感動を覚えました。

大きな堀切。画像の正面は堀切の向こう側の斜面です。

このお城は落城した後には、そのままになっていたということなので、こうした堀切も人などが通ることも無く、埋もれてしまうことが無かったように思われました。

竪堀
その堀切から西に向かって竪堀がのびていました。

竪堀

堀切2
こちらは、本曲輪の西に延びている腰曲輪群にあった堀切です。(横から写しました)

やはりこの堀切からも竪堀が延びていました。

大変分かりにくいです。実際に見てみないと、分かりません。

ということで、足助の山深く浅谷城の見学をしましたが、本曲輪北東部の堀切は大変迫力がありました。また、実際に現地を訪れることで城のよさが分かると改めて実感しました。

浅谷(あざかい)城(1) 豊田市

2016年03月20日 18時30分50秒 | 豊田市
見学日 2016年3月20日

めっきり春らしくなりました。気温が上がって、日中は汗ばむ陽気です。史跡めぐりに最高の日和です。今日は浅谷城に行きました。

浅谷城落城は何年か?
浅谷城とは、「三河国二葉松」によれば、「簗瀬九郎左衛門或太郎法名道悦天正二年為武田落城」とあり、簗瀬氏が城の持ち主であったことがわかります。また、天正2年(1574)に武田氏に攻められ落城したようです。
「浅野文庫諸国古城之図の世界」の解説によれば、「元亀2年(1571)には武田信玄に攻められ落城した。」とあります。
また、現地の案内板では「天正2年、武田信玄の子勝頼が東海・北三河に侵入。その折、足助が戦場になり、激戦の末、足助の諸城と共に浅谷城も落城した。」とありました。

3つの資料では諸国古城之図の解説だけが違っているので、おそらく文献が違うのでしょう。


さて、浅谷城は足助の奥の方にありました。

浅谷城の位置(図の右下)【地理院地図より】

足助の中心飯森山城、真弓山城からずいぶん離れていました。


浅谷城の様子

城の入り口
城の入り口までは細い山道で「大丈夫かな」と心配でしたが、どうにか入り口にまでたどり着きました。入り口には駐車スペースが3台ほどありました。


紛らわしい堀切の看板
1,2分ほど歩きますと、左手に広い空間があり、「これは曲輪だな」と看板を見ますと、「堀切」と書いてありました。

この看板は、上の本曲輪北東にある堀切の案内板でした。案内板には「敵の侵入を防止する堀」という一般的な説明だったので、「誤解するかな?」と少し心配になりました。

本曲輪
本曲輪には5分ほどで登れました。

本曲輪の様子

浅谷城落城後の話
本曲輪に浅谷城についての説明板がありましたが、そこに落城した後のことが書かれていました。

「・・・・
浅谷城の落城で農民兵が沢山亡くなった。城主簗瀬はふもとに浅谷山万昌院を建立。自ら開基として落命した将兵を憐れみ、その菩提を弔った。この万昌院には長く甲冑が一領保存されていたが、現在足助資料館に保管・展示されている。
 また、明治37年、村人はここに『城山八幡宮』という石碑を立て、武士の守護神である八幡様を祀り、年に一度祭典を行ってきた。
・・・・・
平成24年11月吉日 豊田市椿立自治区」

いい話でした。


城山八幡宮の石碑