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愛知の史跡めぐり

愛知県の史跡を巡り、その記録を掲載します。

軍人像 南知多町

2014年09月16日 15時45分43秒 | 南知多町
知多に軍人像
 9月14日から3連休。どこかへ行きましょうということで、知多の観光案内をネットで調べていたら、すごいものが出てきました。「軍人像」と呼ばれるものです。場所は、岩屋寺の中之院というところです。

軍人像

 さっそく行ってみることにしました。

神秘的な岩屋寺
 岩屋寺は、大変立派なお寺でした。軍人像はこのお寺の中之院、細い道が山の方に伸びていて、突き当たりは奥の院というところで、これはこれで神秘的な場所でした。


奥の院にそびえる三重塔。すぐ後ろは山で山肌にくっついて立っている感じでした。


岩には無数の仏像や地蔵像が並んでいて、ああ密教だとつよく感じました。

軍人像があった
 この奥の院からしばらく降りたところに中之院があり、軍人像が並んでいました。


 軍人像は、100体ほどあるそうです。なぜこんなところに、こんな像があるのか説明版がありました。


中之院 軍人像について
 ここの軍人像のほとんどは昭和12年上海上陸作戦における呉淞の敵前上陸で戦死された名古屋第3師団歩兵第6連隊の兵士たちです。
 緊急の出動で名古屋城内の兵営より名古屋港まで夜間13キロの徒歩行軍の後、船で野間沖に待機していた巡洋艦、駆逐艦に乗り込み、わずか26時間で揚子江河口付近に到着後の昭和12年8月23日の敵前上陸でしたが、上陸後半月足らずでほとんど全滅してしまいました。
 軍人像そのものはめいめいの遺族が戦没者の一時金をもって写真を基に造らせ建立したものです。昭和12年から18年のことと言います。
 また戦後進駐軍が取り壊しを命じた際、僧侶が、国のために死ぬということはアメリカも日本も変わりはない、あれを日本人の手で壊すことはできない、どうしても壊すというなら我々をこの場で銃殺した上であなた方が行って壊せばいいだろうと頑張った
 おかげで像は壊されずにすんだということです。
 建立当時より名古屋市千種区月が丘にあったもので、当山には御縁により平成7年11月にお移しし、この地で安住いただいております。
 現在もよくご遺族ご縁者の方々が御参りにいらっしゃっています。
                                   天台宗 大慈山 中之院


戦争への道に進まない
 私たちの親、祖父たちが戦争に行っていたこと、戦後の平和はこうした人たちの礎の上にあること、したがって、こうした尊い犠牲者の死を無駄にしないためにも、再び戦争への道に進まないという思いを改めて感じました。
この軍人像は、私たちにそんなことを語っている気がします。

南知多資料館(2) 南知多町

2014年03月30日 21時57分35秒 | 南知多町
先苅(まずかり)貝塚
 資料館の3階は「考古室」です。南知多町にはいっぱい貝塚などの古代遺跡がありました。「先苅(まずかり)貝塚」は、縄文時代早期の遺跡です。この遺跡は、海面より10メートル近く下の層にあった遺跡だそうです。



図の右側の黒い部分が遺跡があったところです。

 ということで、「縄文海進」という氷河期が終わって海水面が上昇した時期があり、それによって水没した遺跡をはじめて確認できたものとして、世界的に注目された遺跡だそうです。

貝塚・遺跡の宝庫、南知多町
 南知多にはたくさんの遺跡がありました。




 また、出土した土器や人骨なども展示してありました。




神経痛で苦しんだ縄文人

 この人骨は、縄文人に見られる抜歯がありませんでした。また、説明版によると、「椎骨に病変が見られることから、神経痛で苦しんだであろう」ことが判ると書いてありました。神経痛だったことまで分かるとはすごいと思いました。

 土器や骨角器などが所狭しと並べられており、しかもまじかで見られるので、もったいない感じがしました。もう少し事前の勉強をしっかりして、もう一度伺いたいと思いました。

南知多町資料館おしまい

南知多町資料館(1) 南知多町

2014年03月28日 18時18分04秒 | 南知多町
南知多町
 南知多町の資料館を訪れました。南知多町とは、知多半島の最南端です。2006年に美浜町と合併して「セントレア市」と名前を変更しようとして有名になりましたが、かなわず、美浜町との合併もせず、南知多町として存続しています。


 南知多町の資料館です。画像は町のホームページから転載しました。3階建ての建物です。階ごとに展示品が整理されていました。


 1階は千石船室、2階は漁具室、3階は生活道具室、考古室となっていました。


郷土資料館の玄関にあった掲示板

海運業が盛んだった南知多町
 1階にはいると、漁業というより、海運業のグッズがいっぱいありました。ぱっと目に付いたのは、千石船です。この船は、「宝久丸」といって、800石で10分の1の模型だそうです。
 江戸時代には有名な樽廻船、菱垣廻船というのがありますが、「尾州廻船」という海運業もあったそうです。内海のあたりにはこの尾州廻船の船主がたくさん住んでいて、けっこう栄えていたようです。

千石船

 2階には大きなタモがありました。小女子(こうなご)を取る網だそうです。

タモ

古代に朝廷に海産物を貢納していた南知多町
 藤原宮や平城宮跡で出土した木簡が紹介されていました。
 木簡には「参河国幡豆郡「篠嶋」「析嶋」(佐久島)「海部」などの言葉があるそうです。篠島、佐久島は昔は、幡豆郡だったことが分かるそうです。また、貢納した魚は、佐米(サメ)、須須岐(スズキ)、黒鯛、赤魚(カサゴ?)などだそうです。

木簡を紹介するパネル

 1000年以上も前に知多半島の先端で、漁業が盛んに行われていて、朝廷に海産物を貢納していたことが分かりました。知多半島は、昔は栄えていたところだったということです。