愛知の史跡めぐり

愛知県の史跡を巡り、その記録を掲載します。

 安城 三河一向一揆シンポジュウム(2) 安城市

2014年01月26日 17時02分44秒 | 安城市
峰岸氏の報告
・明応7年(1498年)に関東・東海地震があった。各地に大きな被害をもたらしたが、三河は、知多半島や渥美半島、諸々の島が防波堤となり、災害をまぬかれている。
・三河一向一揆は、「一向一揆」としての一面と惣国人一揆としての一面がある。それを切り結んでいるのが石川氏である。

村岡氏の報告
・ 松平記には、いろいろと矛盾点がある。
(例)松平三蔵父子の混同、水野信元による仲裁関与の事実の抹消、上野城開城のいきさつなど
・三河一向一揆は、永禄6年の上野城攻めに始まり、永禄7年9月6日の上野城開城で終わっていることからも、一向一揆とは言いがたい。「永禄三河一揆」とすべき。

安藤氏の報告
・三河一向一揆は、一向宗による「寺内町」運動とそれを認めない武士権力との戦い。したがって「一向一揆」である。

川端氏の報告
・「宇野新蔵覚書」に一揆に参加した本多正信の言葉があり、「三河にて三ヶ寺の坊主いつきをおこし、・・・」とある。坊主の一揆という認識ではないか。

とまあ、こういう感じですが、これらの報告及びシンポジュウムは、難しくてよく分かりませんでした。
というか、自分の知識がないことが一番の原因ですが、パネラーの発言が焦点化されていなくて分かりづらいこと、フロアの人の質問や意見が自分の知りたいことを求めているのみで、
「一向一揆の本質とは何か」というテーマに全然迫りきれていない感じでした。

時間的にも、パネラーの豪華さという点でも、テーマの難しさという点でも、今回のシンポジュウムは、けっこう厳しいものがあったように思いました。
シンポジュウムコーディネーターの播磨氏そして安城歴史博物館の関係者の方、お疲れ様でした。次は素人の私にも分かるようなシンポジュウムを期待します。私も勉強したいと思います。
コメント (2)
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安城市三河一向一揆シンポジュウム 安城市

2014年01月25日 19時26分23秒 | 安城市
 三河一向一揆のシンポジュウムが、安城市歴史博物館で行われました。シンポジュウムのパネラーは、そうそうたる顔ぶれでした。

 まずは、記念講演 峰岸純夫氏(都立大名誉教授)


次は、基調提案1、家康から見た一向一揆の村岡幹生氏(中京大教授)


次は、基調提案2、一向宗側から見た一向一揆の安藤弥氏(同朋大准教授)


3番目は、基調提案3、統一政権から見た一向一揆の川端康幸氏(大谷大学講師)


コーディネーターは、播磨良紀氏(中京大教授)


勢ぞろいしたパネラー


 な、なんと、あの新行紀一氏がフロアにいて、最後に発言をされました。私としては、大変感激しました。まさか、あの新行氏を見ることができるとは思っていなかったので。


シンポジュウムの内容は、次回。
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上和田の大久保一族 岡崎市

2014年01月23日 19時08分06秒 | 岡崎市
 小豆坂の戦いで、家康が上和田の大久保一族に対して針崎勝鬘寺の押さえとしたという記事があります。上和田は、代々大久保一族の居城だったようです。

上和田にある大久保一族の石碑(8月に撮影しました)

大久保一族の家族関係
 上和田にこもっていた武士たちは、「松平記」では、以下のように記しています。(赤色が大久保一族です。)

大久保五郎右衛門忠俊、同甚四郎忠員、同新八郎忠勝、同弥三郎忠政、同新七郎、同弥八、同甚右衛門、同三助忠吉、同喜六忠豊、同与一(忠益)、同新蔵忠寄、同与次郎、同九八郎筒井甚六忠光、杉浦八郎五勝吉、同弥七、杉山久内、同市助、市川理兵衛、田井善(彦)次郎が日々敵と競り合っていた。


大久保一族の家族関係は図のようになります。

大久保彦左衛門も上和田生まれ
 一心太助の物語や天下のご意見番として有名な大久保彦左衛門という人が江戸時代初期にいますが、三河一向一揆のときは、三歳だったそうです。後に「三河物語」を子孫のために残す人です。
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小豆坂(あずきざか)古戦場跡 岡崎市

2014年01月19日 09時30分06秒 | 岡崎市
小豆坂というところ
 小豆坂という地名が岡崎市に有ることは、知人が岡崎の同名の小学校、小豆坂小学校に勤めていたことで知りました。その次に織田信秀(信長の父)と今川義元がこの地で戦っていることで知りました。「信長公記」のはじめの方にその記事が記載されています。そして三河一向一揆の中でも小豆坂が出てきました。

小豆坂古戦場の碑

戦いについての案内板

一揆勢の敗北を決定付けた小豆坂の戦い
 小豆坂の戦いは、「松平記」では、以下のように記述されています。(現代語文に直し、文章を細かく分けてみました。)
・そのころ、家康の伯父水野藤十郎忠重は、兄の下野守信元と仲が良くなかった。
・藤十郎は、三河の国の鷲塚というところで浪人をしていた。相婿(藤十郎の嫁の姉妹の婿)の水野太郎作正重、村越又十郎と三人は一揆が起こったことを聞いて気がかりと思い、見舞いに来たところ、
・このようにいろんなところで、戦が起こっているのに、どうしてこれが見捨てておかれようかと、水野藤十郎は先鋒の集団に加わり、数度の手柄を立てたのである。
・その時分佐々木上宮寺の一揆勢の後方支援隊として、一揆勢は岡、大平へ動いた。
・馬場小平太、石川新九郎正綱、同新七郎親綱、矢田作十郎助吉が大将であった。天野三兵と馬場小平太が槍を合わせ、天野が馬場小平太をつき伏して首を取った。一揆勢はこれを見て戦意を失い、引き返した。
・家康は、大久保一族を針崎勝鬘寺の押さえとしておき、大久保弥三郎計忠政を案内として、『盗木を直に小豆坂へあかり給へハ』、
・一揆勢が引き返していく道で行き会い、合戦をし敵を多く討ち取った。
・一揆どもはかなわず引いていった。
・石川新七は、赤の具足に金の団扇の指物で、最後尾を退却していった。家康の家来たちは、これを討とうと考えた。
・他のひとは山にのがれ、石川新七、大見藤六、佐橋甚五郎吉実、波切孫七郎は本道をしずしずと『除く』ところを水野藤十郎が追い詰め、石川新七だと見ると「返せ」と言葉を掛けてついてかかった。
・石川新七は取って返し、お互いに突きあっていたが、水野藤十郎が石川をつき伏せ、団扇を添えて名を上げた。
・大見藤六は水野太郎作につき伏せられ、佐橋甚五郎もここで討たれてしまった。波切孫七郎は、家康自身が追いかけ、鑓で後ろを二回ついたが、傷が浅く引き払って逃げていってしまった。
・味方はみな本陣に帰った。


現地の案内板でも
 現地の案内板にも以下のように記されていました。
永禄7年(1564)、土呂・針崎の一揆勢と家康が小豆坂・馬頭原で衝突し、家康方の勝利により一揆は終息を早めることになった。

 つまり、小豆坂の戦いでの敗戦により一揆勢の劣勢が決定的となり、以後「和睦」へと推移していったのです。

いろいろな疑問が
しかし、地図で確認すると、いろいろと疑問が出てきます。

・水野藤十郎は陣中見舞いをしに、どこへ出向いたか。
・家康は、どこから大平・岡に向かったか。
・一揆勢は、上宮寺の後詰として大平・岡に向かっているが、上宮寺の先鋒隊は、どこで戦いをしていたのか。

 など、小豆坂の戦いは、それに至る過程がよく分かりません。
 しかし、一揆勢の武士、馬場小平太がまず討ち取られ、石川新七、大見藤六、佐橋甚五郎、波切孫七郎などが、討ち取られたり、傷を負ったりしたことで、一揆勢は大きな痛手を受けたものと思われます。
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味美(あじよし)古墳群 春日井市

2014年01月05日 15時17分43秒 | 春日井市
二子山公園
 春日井市に行ったついでに味美古墳群を見学しました。
 古墳群といっても、志段味古墳群とはことなり、公園になっていました。「二子山公園」です。この公園の中に古墳がありました。


 公園の入り口では、等身大?の埴輪が迎えてくれました。

埴輪か古代人か?公園入り口におられました。

二子山古墳
 上の写真の右下が味美二子山古墳です。さっそく近くまで見に行きました。周囲をぐるっと回ることができましたが、周溝は確認できても、お墓の本体は、木が生い茂っていて、どのような形なのか、全く分かりませんでした。


 そこで、春日井市に「なんとか木を切ることはできないものか」と、ぜひお願いしたい気持ちになりました。
看板にあった図でようやく形がわかりました。前方後円墳です。


御旅所古墳
 さて、公園の西側には円墳がありました。御旅所古墳というそうです。お宮さんになっていました。



離れて見る御旅所古墳

白山神社古墳
 公園の北側は、白山神社古墳です。やはり古墳の中に神社を建てたようです。


 この神社の周りには、周溝がはっきりと残っていました。
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