愛知の史跡めぐり

愛知県の史跡を巡り、その記録を掲載します。

長久手古戦場(7) 長久手市

2014年05月05日 14時21分51秒 | 長久手市
色金山(いろがねやま)
 御旗山から北東へ少し行くと、色金山があります。色金山は、小牧長久手の戦いで徳川家康が陣を敷いたところです。

色金山を南から望む。右側のお寺は安昌寺といいます。

 小高い丘のような山ですが、歴史公園となっています。管理は長久手市教育委員会のようです。なかには、いろいろな石碑がありました。

八幡社旧蹟碑

 徳川家康が戦勝を祈念してお参りした神社だそうです。

長久手合戦慰霊碑
 しばらく進むと、長久手合戦慰霊碑がありました。碑文によれば、長久手の合戦で3000人が亡くなられたそうです。

長久手合戦碑文、つくった人は長久手郷土史研究会の方々でした。

展望台
 頂上に昔の物見櫓をイメージした展望台がありました。実際の合戦のときにも作られたのかもしれません。



展望台からの景色。遠く煙突のように見えるのは、名古屋東山公園の展望台、通称「ペンシルタワー」です。

家康が腰掛けたという床机石

馬鹿らしいのですが、公園や観光地にはよくあるものです。先ほどの展望台の下に、この床机石に家康が腰掛けて軍に指示をしているところを想像して描いたレリーフまでありました。

首塚
 この色金山歴史公園を降りて道をまたいで向こう側に行くと、「首塚」があります。

 この首塚は、案内板によれば、色金山のふもとにあった安昌寺のお坊さんが作ったようです。

 天正12年(1584年)4月9日、長久手合戦の舞台となった長久手の村々は、野といわず山といわず戦死者の山となりました。この惨状を目の当たりにし、心を痛めた岩作村安昌寺の雲山和尚は、村人たちとともに屍を集めて埋葬し塚を築いて供養しました。毎年、合戦の日には首塚に香華が手向けられ、村人らによって法要が営まれますがこの法要には遠く名古屋から、尾張藩士らの参詣もありました。
  長久手市教育委員会
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長久手古戦場(6) 長久手市

2014年05月05日 12時02分41秒 | 長久手市
御旗山(みはたやま)
 話を少し前に戻します。長久手古戦場の続きです。先回、血の池公園までお話しましたが、その次の話です。

前に掲載した長久手古戦場の史跡めぐりコースです。これによれば、血の池公園の次は、御旗(みはた)山です。

御旗山を南から撮影

家康が着陣
 御旗山は、色金山に着陣した徳川家康が、長久手檜が根で自陣が敗走したのを受けて、救援のために陣を取った場所だそうです。ウィキペディアでは、9000人の兵で陣取ったとあります。秀吉も長久手方面で約9000人の陣を取り、戦いとなりました。この戦いが「長久手の戦い」と呼ばれる戦いだそうです。この戦いで、森長可、池田恒興、池田元助らが戦死しました。

山頂に建てられた浅間神社

御旗山からの眺め
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長久手古戦場(4) 長久手市

2014年04月21日 07時49分40秒 | 長久手市
血の池公園
 すごい名前の公園です。遺跡の一角によくこういう地名の場所がありますが、そのまま一つの公園の名前になっているのはめずらしいかなと思いました。


血の池公園は、現地の案内板によると

家康方の渡辺半蔵などの武将が、血鑓や刀剣を洗ったことからその呼び名がついたと言われています。毎年合戦の行われた頃になると、池の水が血の色に赤く染まって漂ったと言い伝えられており、名松鑓掛けの松とともに永く人々の心に語り継がれてきました。

池の水が赤くなるという話は、以前紹介した美浜町、野間大坊の血の池(源義朝の首を洗ったという池)がそうでした。もし本当だったらすごいですね。でも、現地には池はなく普通の公園があるだけでした。


渡辺半蔵とは
渡辺半蔵といえば、三河一向一揆で一揆側につき、勝鬘寺に立て籠もった武将の一人です。三河一向一揆での家康側との戦いで父渡辺高綱を殺されています。しかし一揆が収束した後に半蔵は許されて家康の家臣となっています。ここでは立派な家康側の武将として登場してきます。
 父の敵である家康の家臣になるというのは、どういう心持ちなのか現代からははかることはできません。

郷土史研究会
 ここで、史跡によくある「のぼり」に「長久手市郷土史研究会」と書いてあることに気付きました。ネットを検索しましたら、ちゃんとホームページがあり2014年4月に更新されていました。桶狭間の古戦場もそうでしたが、有名な史跡のあるところにはそういう会があるものだと思いました。
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長久手古戦場(3) 長久手市

2014年04月18日 15時54分41秒 | 長久手市
武蔵塚
 次の見学地は、武蔵塚です。古戦場公園の西へ100メートルほど行くとありました。小高い丘のようなところがあり、桜の木がたくさんあり、今頃は花見で人が集まるところではないか、と思えました。

森長公の石碑

 武蔵塚とは、長久手の合戦で戦死した秀吉方武将森長公(ながよし)の墓です。森長公は、本能寺の変で織田信長とともに亡くなった森欄丸の兄です。現地案内板によると、森長公は、武勇に優れ異名として鬼武蔵と呼ばれていたそうです。武蔵塚は、その武蔵にちなんで名づけられたそうです。

森家の子孫による石碑
 その横にもう一つ石碑がありました。


 森氏の子孫が、明治31年に建てたものです。コケなどでほとんど字が見えませんでしたが、「子爵」、「明治31年」あたりははっきり読めました。
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長久手古戦場(2) 長久手市

2014年04月15日 14時26分29秒 | 長久手市

勝入塚(しょうにゅうづか)
 古戦場公園に、もう一つ石碑がありました。勝入塚です。勝入塚とは、ここで戦死した池田恒興の墓です。池田恒興は、先にも書きましたように羽柴秀吉側の武将です。岩崎城での戦いでは有利に進めましたが、後から攻めてきた家康の部隊と戦い、「仏が根の戦い」で戦死してしまいました。天正12年’1584年)のことです。
 勝入というのは、池田恒興の法名勝入斎からきたものだそうです。

勝入塚は国指定遺跡
 驚いたことには、この勝入塚がなんと国指定の遺跡だったことです。そういえば、「勝入塚」という地名も残っていて、昔からこの地に、池田恒興の墓があったことがうかがわれました。すごい。
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