友々素敵

人はなぜ生きるのか。それは生きているから。生きていることは素敵なことなのです。

植木鉢を買った日

2007年11月06日 21時35分22秒 | Weblog
 今朝、下の娘夫婦がバンコクに帰っていった。空港まで車で送って行く。これから海外に出かけるたくさんの人々で賑わっていた。一緒に食事して、お土産などを持たせて、ゲートで見送った。カミさんは二人が見えなくなるまでいつまでも手を振っている。私は、黒尽くめの一団が見送っている人が一体どういう人物なのかと気になって、そちらばかりを見ていてカミさんに叱られてしまった。

 二人を見送った後、セラモールに寄って植木鉢を買った。今日は平日だからだろうが、まだシャッターが開いていない店もあり、人影もまばらだった。私の住む辺りの花・苗屋さんには大きめの植木鉢がなかったので、一度はセラモールに行ってみようと思っていたが、わざわざ高速で行くこともなく、その機会が来るのを待っていた。私が以前に買い求めた鉢はもう無かったが、素焼きの鉢では一番大きなものを3つ買った。

 さらに大回りしていつも行く花・苗屋に寄り、腐葉土とバーク堆肥を買って帰る。これからサルビアを抜き取り、土の入れ替え、チューリップの球根を植えるので、その準備にかかるためだ。下の娘が10月の下旬に、娘の夫も11月1日に帰ってくるというので、彼にもサルビアの庭を見てもらいたくて、そのままにしておいた。やはり11月に入り、朝晩が冷え込んでくると植物は正直で葉が枯れ始め、夏のような華やかさがなくなる。それも私は風情だと思うけれど、常夏の国に住み慣れてしまった娘夫婦には「淋しい庭」と映ったかもしれない。

 娘たちは子どもの頃、母親とよく対立していた。娘にとって母親は同性であるために、見る目も厳しいと感じた。それが娘たちも妻となり、同じおんなになってきた感がある。特に上の娘とは昔は取っ組み合いのケンカもしたことがあり、なかなか相容れないところがあった母と娘だったが、ともに働く女性となりしかも年下を指導する立場になって、その共通する苦労を共有することで随分と距離が縮まった。

 そうなると男である私は、これまで自分の主張ばかりを押し付けてきたから、とことん分が悪い。たとえば、私の友人の宴席で、主役である人を差し置いて、脇役が終始しゃべりをしてしまう、本人は良かれと思っておしゃべりをしているのだけれど、「ちょっと配慮に欠けることだ」などと話すならば、すかさず「そんな言い方はないんじゃないの」と批判を浴びる。確かに、子どもたちが何かを言い出すと、私は「そんな風に断定するものではない。何が正しいか、正しいことが一つとは限らない」と、無理やり押し付けてきた。今はその効果があり、立場が逆転したのだ。

 まだまだ、子どもだと思ってつい言わなくていいことまで口走り、挙句の果てに上の娘には皮肉られ、下の娘には泣かれ、いつもイヤな思いをすることになる。もう、歳なのだから、何も言うことはない、そうわかっているつもりだが、まだ修行が足りないようだ。
コメント
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