友々素敵

人はなぜ生きるのか。それは生きているから。生きていることは素敵なことなのです。

思い込み

2007年11月09日 23時08分59秒 | Weblog
 孫娘を迎えに行ったら、「どうしてこんなに遅いの?45分と言ったでしょう。」と言う。確かに彼女は45分と言った。けれども私の頭の中では「いつものとおり」とインプットされてしまった。「45分なら、何時に家を出たらよいのかわかるでしょう。」となおも畳み掛ける。「そうなんだけで、いつもと同じと思っちゃったんだね。」「45分と言ってるのに?」と孫娘はまだ納得できないと言わんばかりだ。「いつもと違うよね。」と確かめればよかったのに、勝手に思い込んで、45分が過ぎてしまったのだ。

 それでも間に合ったのだから、そんなに怒ることはないじゃーないかと思いながら、ジジイは孫娘には甘くて「ごめんね」なんて、自分の方から謝っている。確かに待たせられたのだから、孫娘としてはどうなっているのかと腹立たしく思ったのだろうが、アッシーをやってもらっているのだから、ここは大目に見てもらいたいところだ。時間を間違えたのは悪い。けれども、それを許してあげる心の広さがほしいと私は思う。

 孫娘がこんな風にキツイのは母親似なのだろう。その母親の両親は私たちなのだから、結局は私たちが生み育てたものともいえる。今晩は夜勤で出かけるという長女に「晩御飯はどうするの?」と聞いた。長女は「食べなくてもいいよ」と答える。そんな言い方はないだろうと思い、「そうじゃなくて、食べるのか食べないのか」と私はムッとして聞き直す。「食べない」と長女は言い放す。「夜勤だから、少しだけにしておく。」とか、「ごめん、今日は夜勤だから晩御飯は食べずにおく。」とか、まだ言い方はいくらでもあるはずだ。

 カミさんに言わせると、私は「外では気配りの人かもしれないけれど、家では全く気配りができていない」人なのだそうだ。多分、当たっていると思う。家族に対してはストレートに要求してしまうからだ。長女が看護学校に通っていた頃、遅刻するからというので(本当にそんな理由だったのか、わからないが)私は何度か彼女を学校まで送っていった。彼女の授業の作品作りも手伝った。ところが長女は「送ってもらったのはパパが言うほど多くない」と言い切る。

 不思議なことだけれど、自分の印象と他人の印象では随分違うもののようだ。そう書いて、ハタと思い当たることがある。自分にとってはとても大変なことだと思うことでも、同じことが他人にとってはそれほどのことではないことは多い。「あなたは何でも自分勝手に思い込んでる」とカミさんの言うとおりで、そういうことは私には多い気がする。話が全然違うかもしれないが、初恋の人から「あなたはあなたが描いた私を追い求めているのよ」と言われた。あの時から、私の勝手な思い込みは始まっていたのだ。

 娘たちもそういう私の性質にはウンザリしていて、私が酔っ払ってきて、ゴタゴタ言い出すと決まって反論してくるようになった。小沢一郎さんには私のような娘はいないのだろうか。娘たちがいたなら、あんな無様な醜態をさらすことはなかっただろうと思う。誰が画策したのかはわからないが、私には完全にハメられたとしか考えられない。田中角栄総理が葬られた時のことを思い出す。田中角栄総理の弟子である小沢さんも同じように政界から葬り去られる運命にあるのだろう。
コメント
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