名演の5月例会は田宮虎彦原作、堀江安夫脚色の『足摺岬』だった。前半はなんともテンポの悪い芝居だなあという印象だったが、後半はまあそれなりに面白くなってきたように思われた。しかし、つまらない演劇なら睡魔に襲われそうなものだが、なぜか眠りにつくことはなかった。私の周りの人たちは疲れのせいか、初めから終りまで眠っている人が結構いたから、私のテンポが悪いという感じ方も間違いではなかったかもしれない。
生きることに絶望し、岬から身を投げ出すつもりでやってきた主人公の帝大生は、お遍路さんらが宿泊する宿屋の人々のおかげで命を救われる。彼は自殺するつもりで来たのに、怒涛が打ち寄せる断崖から身を投げ出すことができなかった。「意気地なし」と笑っているのではないか、そんな思いが彼を襲う。
「死ぬ理由はいろいろつけたがるが、生きる理由は一つあれば充分だ」と老遍路が言う。「生きたいと願う人が死に、死にたいと願う人が死ねなくて、自分の弱さを隠そうとして、なぜ死なせてくれないと言う。死にたければ死ねばいい。こうして周りの人たちが懸命に助けてくれたことを恨むがいい」と、宿屋のカミさんに突っぱねられ、若い娘からは「生きていて欲しい。命を粗末にするものではありません」と諭される。
彼が生きようと決意するのは、この若い娘の存在が大きい。人を愛したものは生きる、生きようとする。だから舞台で、戊辰戦争の時に官軍に囲まれ、女や子どもまで全員が討ち死にしたのに自分だけが生き残ってしまった人、つまりは老遍路の物語は少し不似合いな気がした。この侍は愛するがゆえに妻と子どもを殺してしまうのに、自分は生き残ったのだ。時代が死ぬことを善とし、生きることを悪としたのだからそれは仕方がないことだ。であるなら、逆説的になるがたとえ傷を負っていたとしても、妻子の後を追うべきであったろう。
薬売りもまた、自分の責任で家を焼かれ、妻子を死なせてしまった。過去にとらわれて生きていなくてはならない人がいる一方で、宿屋のカミさんは亡くなった亭主が残した借金を背負い、網元のところへ通うという現実に縛られている人もいる。娘が「どうして化粧をし、着飾って行くのか」と母親を責める。「お金のためだと言いながら、本当は自分もそうしたいんじゃないのか」と。現実はそういうものだろう。お金のためも本当なら、男の肌が恋しいことも真実だろう。
生きることは希望に満ちてばかりいないし、いろんなものを背負い込むことでもある。全てをありのままに受け入れ、最後は神様の審判を仰ぐ以外に人は生きられないのだ。
生きることに絶望し、岬から身を投げ出すつもりでやってきた主人公の帝大生は、お遍路さんらが宿泊する宿屋の人々のおかげで命を救われる。彼は自殺するつもりで来たのに、怒涛が打ち寄せる断崖から身を投げ出すことができなかった。「意気地なし」と笑っているのではないか、そんな思いが彼を襲う。
「死ぬ理由はいろいろつけたがるが、生きる理由は一つあれば充分だ」と老遍路が言う。「生きたいと願う人が死に、死にたいと願う人が死ねなくて、自分の弱さを隠そうとして、なぜ死なせてくれないと言う。死にたければ死ねばいい。こうして周りの人たちが懸命に助けてくれたことを恨むがいい」と、宿屋のカミさんに突っぱねられ、若い娘からは「生きていて欲しい。命を粗末にするものではありません」と諭される。
彼が生きようと決意するのは、この若い娘の存在が大きい。人を愛したものは生きる、生きようとする。だから舞台で、戊辰戦争の時に官軍に囲まれ、女や子どもまで全員が討ち死にしたのに自分だけが生き残ってしまった人、つまりは老遍路の物語は少し不似合いな気がした。この侍は愛するがゆえに妻と子どもを殺してしまうのに、自分は生き残ったのだ。時代が死ぬことを善とし、生きることを悪としたのだからそれは仕方がないことだ。であるなら、逆説的になるがたとえ傷を負っていたとしても、妻子の後を追うべきであったろう。
薬売りもまた、自分の責任で家を焼かれ、妻子を死なせてしまった。過去にとらわれて生きていなくてはならない人がいる一方で、宿屋のカミさんは亡くなった亭主が残した借金を背負い、網元のところへ通うという現実に縛られている人もいる。娘が「どうして化粧をし、着飾って行くのか」と母親を責める。「お金のためだと言いながら、本当は自分もそうしたいんじゃないのか」と。現実はそういうものだろう。お金のためも本当なら、男の肌が恋しいことも真実だろう。
生きることは希望に満ちてばかりいないし、いろんなものを背負い込むことでもある。全てをありのままに受け入れ、最後は神様の審判を仰ぐ以外に人は生きられないのだ。