今朝のNHKテレビ『カーネーション』は、15分間同じ場面だった。主人公の糸子が親戚や隣近所から非難の集中砲火を浴びていた。糸子は戦争未亡人だが、好きになった周防は妻子持ちである。お互いに好きになって抱き合ったけれど、それ以上ではない。縫製職人の周防はこの店を去って暮らしていくとなれば大変な苦労を背負うことが目に見えている。彼の妻は原爆後遺症の身なのだ。事態を察して周防は店を辞めようかと言うけれど、糸子は引き止める。親戚や近所や従業員から有り余る非難を受け止め、それでも周防を追い出すことはできないと言う。「あんたはそれでいいかも知れないが、子どもが可哀想だ」と最後の切り札を突きつけられる。そこへ子ども3人がやってきて、「お母ちゃんは一度も間違ったことがない。お母ちゃんのやりたいようにやらせてください」と頭を下げる。
昨日は映画『サルトルとボーヴォアール』を観て、夜はさらにテレビドラマ『最後から2つ目の恋』を観て、今朝はまた『カーネーション』を観て、余りにも男女の濃縮されたドラマを立て続けに味合った。男と女が好きになるのは自然なこと、好きになった男と女が別の人を好きになることも仕方のないこと。『最後から2つ目の恋』は小泉今日子と中井貴一のやり取りがとても面白いコメディだが、サルトルの時代からは70年経ているのだと思った。小泉今日子の扮するテレビ局のプロデューサーは「あれが来ないのよね」と言っていたから、閉経を迎えた45歳の独身女性で、男の経験はボーヴォアールほどではなくても普通にあったようだ。ひとり暮らしの彼女は、「寂しかったら抱いてあげる」と言うボランティアの若い男と一夜を過ごす。
現代ならありそうな気もするし、小説の作られた世界とも言える。そうなると、『カーネーション』の方は実に現実的で、糸子と須藤はこれからどうなっていくのだろうとますますテレビに縛り付けられることになりそうだ。他人のことなど放っておけばいいのに、どうして人はこうしたドラマに嵌まるのだろう。自分には体験できない未知のもの、憧れてはいけないものだから余計見たいのだろうか。芝居や歌はかなり昔から存在した。そこで歌われるものや演じられるものは人々にとって関心の深いものなのに、現実に体験することはできない、危険なものなのであったに違いない。観たり聞いたりすることで、危険なものを受け入れて昇華したのだろう。
国会では野田内閣の施政方針に対する質問が行われていた。新聞はそのやり取りの詳細を記載し、論評するだろうと思っていたが、小さな扱いであった。テレビニュースで見ても、かみ合わない議論で、「国会の場で正々堂々と議論をし」などと言うことが虚しく響く。自民党の谷垣さんは、野田首相が「マニフェストに書いたことは命を懸けてやる。書いてないことはやらない。これがルールだ」と演説しているのに、言っていることと違うではないかと追及していた。野田首相は一国会議員と政府では立場が違うと答えていた。何と言う鉄面皮か、誠意もなければ恥もない。野田さんや民主党の皆さんは『カーネーション』を観ていない。糸子のようにしっかりと非難を受け止めて欲しい。そうすれば子どもたちのように味方する人も出てくるだろうに。このままではもっと民主党支持は低落するだろう。