桃厳寺は、大仏とともにねむり弁才天で有名な寺だ。男衆に言われて、左手の引き戸を開けるとそこは中庭になっていて、渡り廊下で弁財殿とつながっていた。この中庭も手入れをすれば結構見応えのある庭になるのだろうけれど、今はそこまで手が回らない風景だった。履物が備えてあるので庭に出て歩いてみると、一角に男根の石像がある。寺にもこんなものが置いてあるのかと、その時は余り何も思わなかった。
弁財殿に上がるとすぐに真っ白な裸体の弁財天が目に入ってくる。琵琶を枕に横たわっている姿だ。上半身はむき出しているけれど、お腹から足にかけて腰巻のような布がかかっている。卒業生が「この布は取ってもいいですかね」と冗談で言うけれど、そこまでする人はいないようだ。真っ白な裸体だけれど、いくらでも触っていいよと言うだけに、豊かな乳房は少し色が違っている。「ガン予防とかで触る人が多いのよ」とカミさんらは言い、乳房に手を添えていた。
弁才天は体つきから見ると中年の女性で、丸っぽく柔らかな身体をしている。仏教のことはよく知らないが、釈迦は偶像礼拝を戒めていたのだから、この様な像が仏像として祭られてびっくりしているのではないだろうか。天の名のつく仏像はヒンズー教に見られたものだろう。釈迦の教えが仏教として形作られていく過程で、ヒンズー教やその他の土俗宗教が取り込まれていったのだろう。
それにしても、ねむり弁才天だけならともかく、この弁財殿に祭られているものは、男根と女陰ばかりで、中には歓喜仏という男女が立ったまま性交している像もある。どう見ても住職の個人的な趣味で集めたとしか思えないものばかりだ。寺のパンフレットには「動植物をはじめ、生物にはバクテリアにいたるまで♀♂がある。電気にしても、+・-があるごとく、和合の精神は生命の根源で神聖な真理である。即ち生命の力は、生命を与える陽の力と、生命を受けとり伝える陰の力の二つから成り立っている」とあるが、こじつけとしか思えない。
仏教はキリスト教のように絶対の神がいるわけではなく、自分とはなにか社会とは何かを極めていくことで、真理を悟ることにある。悟ることができたものが仏となるが神ではない。和合は究極の歓喜であり神秘である。だから、和合は生命の根源であり神聖な真理だと悟った住職がそれを伝えるために様々な性器を祭ったといっても間違いではないのかも知れない。そう思ってこれらの像を見ようとするけれど、未だに俗物である私には悟りの目で見ることはできなかった。
屋上に祭られた白蛇とその両隣に置かれたラマ仏は左が男で右が女なのだが、「さすると霊験がある」と書かれているためか、その性器はピカピカに光っていた。インターネットに載っていると卒業生が教えてくれたけれど、確かにお年寄りがお参りのために来ているという寺ではない印象だった。この日も、私たちの他にも訪れる人たちが多くいた。それも若い人たちがカップルで来ていた。大仏はともかく、この弁財殿でどんな顔をして男根や女陰を拝観するのだろう。それとも和合への道なのだろうか。合掌。