正月の1日から3日は、実に穏やかな天気だった。1日は実業団の駅伝を、続いて2日は大学の箱根駅伝を見た。4日は新年会のため見られなかった箱根駅伝の復路を見た。ともに1日5時間くらいの放映で、ただ走っているだけなのにどこが面白いのかと、後になってそう思う。結局、正月番組はこの2つを見ただけで、どこに行くこともないのに、テレビを見ることもなかった。それほど見たいと思う番組がなかったのだが、それだけ自分が歳をとったせいなのだろう。
今日は高校サッカーの全国大会の決勝戦だったのに見忘れている。ニュースで市立船橋が四日市中央に延長戦で勝利したとあった。私の母校も私が高校2年の時、全国大会に出場した。あの時は東京ではなく、西宮球場だったか運動場だったか、とにかく西宮で行われた。私は生徒会長だったので、3年生で親しかった人に応援団長を頼み、応援団を募ったり、バスの手配をしたりして西宮へ出掛けた。対戦相手は忘れてしまったけれど、1回戦で敗退だった。この時の試合よりも、県大会で宿敵中京を破った時の方が感激深かったのも不思議だ。
それはもう50年も前のことだ。10年一昔というけれど、年月の流れは速い。今日は成人の日というので、各テレビ局が成人式を特集していた。20年くらい前は、成人式は荒れていて祝辞を述べる来賓に罵声が飛んだりしていたし、逆に来賓が壇上から成人に怒鳴ることもあった。酒を飲んで暴れる成人がニュースになっていたけれど、今年はそんな報道は全くなかった。アナウンサーが「これは大震災の影響なのでしょうか」と述べていたけれど、あれだけ毎日悲惨な映像を見ていたのだから、厳粛な気持ちで式に臨むのは当然な気がする。
それにしても、「将来に希望が持てますか」と聞かれて、ほとんどの成人が「持てない」と答えているのには、申し訳ない気になった。私たちに責任があるのかと同世代の人たちに言われそうだけれど、もちろん私たちが積極的にそんな社会を目指したわけではないけれど、結果としての責任は大きい。社会の仕組み、とりわけ経済の流れは、人の意識よりも速い。気付いた時に何とかしなければならないはずだが、もうその時は手の施しようがないのが現実だ。
「尊敬する人は誰ですか」の問いに、「両親」と答えてくれているのが唯一ありがたいと思った。社会に希望が持てず、両親も尊敬できず、「何が一番必要ですか」の質問に、「お金」と答える社会に送り出してしまった責任は大きいはずだ。「お金」と答えてくれた方が、「何もいらない」と答えるよりいいのか悪いのか、その判断に困る。「働く場所」「希望の持てる社会」「元気」「愛」などという文字を被災地の成人たちは掲げていた。それはきっと全国のあるいは全世界の若者の願いだろう。
若者が年寄りのようなことを言う社会は決して健康的とはいえない。若者は反抗的で非常識なものなのだ。親に逆らい、社会に抗していくことで、活気と活力が生まれてくる。それなのに、若者たちが常識的になってしまうのであれば、こうなってしまった責任を負うて、私たち年寄りが反抗的で非常識にならなくてはならないが、もうそのエネルギーが無くなっている。